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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年01月22日
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カテゴリ:絶対存在論
神の存否-298
 「エチカ」第三部の感情の起源および本性について、スピノザは当然に人間は「神」自然に基礎をもつものと考えているから、人間精神も自然の活動性としての延長、自然の様態の如きものと考えています。人間は自然の一部なのであって、人間の中の精神もその例外ではないとします。精神は自然と異なったものではない。精神も又自然の一部なのです。だから精神が、それ自体として自立的に活動することはない。つねに身体と一体となって活動する。人間というものは、精神と身体が渾然一体となったものなのだ。スピノザは、精神が身体を支配することはなく、また身体が精神を支配することもないと言っているが、その意味は、精神と身体は相互に切り離しえないということなのです。能産そのものの精神は神を起因とし、部分的にしろ、その神を起因とする妥当な精神の観念は能動的な精神であり、神を起因とする精神に他の要因の助けが必要になる精神とは受動的で非妥当な精神だということになります。
 定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。
 証明 精神の本質を構成する最初のものは、現実に存在する身体の観念にほかならない(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。および 定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)。そしてこの観念は(第二部定理一五 人間精神の形相的有(エッセ・フォルマーレ)を構成する観念は単純ではなくて、きわめて多くの観念から組織されている。により)多くの観念から組織されていて、そのあるものは(第二部定理三八の系要約 すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。なぜなら、すべての物体はいくつかの点において一致し、すべての人から妥当にあるいは明瞭判然と知覚されなければならぬからである。により)妥当であり、またあるものは非妥当である(第二部定理二九の系 人間精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合は、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損(きそん)した認識のみを有するということになる云々。により)。ゆえにすべて精神の本性から生ずるもの、精神をその最近原因とし精神によって理解されなければならぬものは、必然的に妥当な観念あるいは非妥当な観念から生じなければならぬ。ところが精神は非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける(この部の定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。により)。ゆえに精神の能動は妥当な観念のみから生じ、また精神は非妥当な観念を有するゆえにのみ働きを受ける。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 備考 そこで受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。なおこの仕方で私は、受動が精神に帰せられると同様他の個物にも帰せられること、また受動はこれ以外の他の仕方では説明されえないことを示しうるであろう。しかし私の意図するところは単に人間精神について論ずることにあるのだから今はそれに立ち入らない。



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最終更新日  2022年01月22日 06時10分05秒
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