『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊)』 魯迅 【後編】 | 呉下の凡愚の住処

呉下の凡愚の住処

三国志(孫呉)・春秋戦国(楚)および古代中国史絡みの雑記、妄想、感想をおいてます。
文物や史跡など、誰もが実際に見に行けるものを布教していきたいな。
他、中国旅行記や中国語学習記も。

2017年5月2日に保存してあった文です。
もったいないので投稿します。内容の編集はしていません。

 

 

 

(長くなったので前の記事から分けました)

《一件小事》(『小さな出来事』):
人力車の車夫がかっこいい話。
私が思うのは、そんなに中国の教育が遅れてて意味がないと思ってたなら、
学校中退しろよ。ということです。
親に勉強させていただいていた人にそんなこと言っても分からないか(笑)

《頭髪的故事》(『髪の話』):
偏屈な青年が、髪型や服装の違いひとつで罰される世の中に

不満を表明する話。
“旧社会”の事情がよく分かる話だと思います。私も辮髪は大嫌いです。
政府が国民に髪型まで強要するのはおかしな事態だと思いますが、
国民に閲覧サイトを強要する政府もなかなかないのでは……

《風波》(『から騒ぎ』):
革命が起こって溥儀が退位したが、張勲がまた溥儀を復位させて
……という時期の農民の辮髪にまつわる話。
テーマは《頭髪的故事》と似ている気がします。
違うのは、この話の中の農民たちは
自分の判断で体制に立ち向かうような気力・行動力はなく、
時の権力者が決めたことに振り回されるしかないのだという点。
「革命が起こったから辮髪を剃ってしまったけど、
 溥儀が復位したからまた辮髪必要じゃないか!
 辮髪じゃないと処刑される! どうしてくれんの!」
という、当人からすれば本当に大変な話……

今でこそ髪の有無による処刑はないですが、
農民のこんな感じの会話って今も変わらないんじゃないかなあと思います。
“古い農村”は今でも全国にあります。
鉄道だって通ってないし、移動手段といえば大都市からのバスが
一日に数本しかないような農村。正直、生活だって裕福じゃないでしょう。
しかしそれは果たして旧社会ということなのか?
考えることが難しい問題で、私には判断しかねます……

《故郷》:
作者の子供のころの回想と、当時の家を引き払うため里帰りする話。
哀しくも美しい話です。
幼いころ一緒に遊んだ子と、

大人になって“主従”関係になってしまうという……
子どものころのまぶしい思い出や、時が人の感性を変えてしまうことなど、
なんとも言えずしみじみとした気持ちになる作品。
回想の場面がなんとも言えず美しいです。
子供の感性というのはみずみずしいですね。
違う地方に住む子の話に胸を踊らせ、そこに行ってみたいと思う気持ち。
正月には先祖の祭りをするので香炉の番が必要だという文化――
すばらしいことです。なんて美しい話なんだろうと思います。

魯迅はそんな素敵な感性を持っていたのに、
大人になってなくしてしまったというのは悲しいことです。
作者の感性が変わってしまったのは

年を取ったからだけではないと思います。
好奇心など、興味の対象があれば

大人になってからでもわいてくるものです……

私はこの“従”になってしまったほうの人物と同じ

クソ貧しいスーパー貧民なので、
「やっぱり憐れまれてるのか~(笑)」
と思いました。人は貧しい家に生まれれば必死で働かなくてはなりません。
政府や封建社会が悪いのではありません。
生まれたらそこが人の何十倍も貧しい環境だったから、
仕方なく何十倍も働いているだけです。
裕福な作者と違って子供のころだって楽しくなかったよ。と言いたいです。
この幼馴染みだって、

作者みたいに楽しかったとは思ってないかもしれない。
私とは違って、子供のころは楽しかったかもしれない。
私はこの作品がとても好きなのですが、

文句ばかりになってしまいました(笑)

《阿Q正伝》:
何もいいところのないQ氏が濡れ衣で捕まり、
事態を把握しないうちに処刑される話。
雑誌のコラムでもないし

2000年代に暮らす現代人として正直に書きますが、
ええー何この話……っていう感じです……しかも長い。
その長さというのも、Q氏がいかにだめなやつかというのを
アピールするために使われています。
ダメさを自覚していないことの愚かさ→当時の国民に対する批判、
として書かれているそうですが、
私はこの、“誰の目から見てもだめなのに、そのことに気付いていない”
というQ氏が気持ち悪くてたまりませんでした。

人に注意されても“精神勝利法”という超解釈によって
自分の非を捨ててしまうので、

Q氏本人は分からない・自覚できないんです。
考えてみればトップがこういうことをやっている国は少なくないので、
啓蒙作品としては重大なメッセージ性を持っているのでしょうか……
私も“当然のようにQ氏が悪いのだろう”と考えた民衆と
感性が同じで、愚かなのでしょう。
考えてみれば凡愚という看板に偽りなしということで仕方ないですね(笑)

《端午節》(『端午の節句』):
教師と役人を兼業している者が、
どちらからの給料も未払いとなったため支出に苦しむ話。
身内が死んだり取り返しのつかないことになってしまう話ではないので
そういう暗さはありませんが、これはもうまったく笑えない話です。
現代と変わるところがありません。何度か繰り返し述べていますが、
この話の主人公の苦しみに時代背景は関係ないと思います。
庶民が貧困にあえぐという社会問題は、
完全な社会主義国でない限りは存在し続けるのでしょう。

《白光》:
科挙に落ち続けているおじさんが絶望でとち狂ってしまう話。
《孔乙己》の主人公サイド(別人ですが)のようなものですが、
こちらは最後おじさんの遺体らしきものの発見で
話が終わるのが後味悪いです。
“らしきもの”というのも、川で遺体が発見されるのですが、
おじさんには身寄りがないのでその遺体を引き取りに来る人もおらず、
結局それが誰の死体だか分からないのです。

科挙が人をだめにするというのは本当にその通りだと思います。
受かればすべてが約束されますが、
逆に受からなければすべてがだめになりますから。
合格しないと結婚相手も見つからないんです……
もうね、科挙第一主義になってしまった中国は悲しすぎる! と思う!

まあ私は、科挙に受からなかったことだけが
この主人公の悲しみではないと思いますし、
いちばん大きな悲しみは身寄りがないことなのではないかと感じました。
親兄弟や親しい友人がいないというのは

科挙に受からないことよりも悲しく、
また科挙のなくなった現在でも起こりうる悲しみです。
短い話ですが本当にやるせない気持ちになりました。
(この作品集こういうのばっか)

《兎和猫》(『兎と猫』):
作者の家の敷地に兎が来てかわいがる話。
猫は新しく生まれたかわゆい兎を殺してしまったため忌み嫌われます。
「人知れず死んでしまう動物の切なさよ……」
みたいな感情(雑な説明)は私も抱いたことがあります。
野生とはそういうものでしょうが、
やはり動物の死体や瀕死の場面を見かけてしまうと切なくなるものです。
 
《鴨的喜劇》(『あひるの喜劇』):
あひるにおたまじゃくしが食べられてしまう話。と、盲目のロシア人。
「北京には春と秋がない」というワードに、
武漢もそうなので懐かしさを覚えました。
ロシア人さんがかつて訪ねたビルマは「虫の声で賑やかだった」そうです。
こうしてその土地の特長が出てくる話はいいですね。

《社戯》(『村芝居』):
子供のころに母方の実家で見た劇ほどおもしろい劇はなく、
その日食べたそら豆ほどおいしいそら豆にも出会っていないという話。
幼いころの思い出は美しい……という主張は《故郷》とも似ています。
夜、子どもたちだけで船を漕いで隣の村まで行くのですが、
読んでいると、その冒険のようでわくわくする光景が目に浮かんできます。
まさに夢のようです。

「両岸の豆や麦と川底の水藻が放つすがすがしいかおりが、夜霧をとおしてまともに吹きつけ、月かげは夜霧に霞んでいる」

なんて、美しすぎる表現です。
この感動、訳がすばらしいということもあるのでしょうね。
帰り際に畑のそら豆を勝手に取っていったり、
翌日畑の所有者にバレるも怒られず歓迎されるという……
もうまぶしくて涙が出てきます。なんと美しい思い出なのでしょう……
おばあさまも、孫の顔が見られてうれしかったことでしょう。

こんなにいい話なのになぜ冒頭で京劇をこき下ろすのだ……
って思うんですけど、それがないとこの幼少時の思い出に繋がらないから、
文句言っても仕方ないですね。(笑)
現在でも京劇が好きなのは年寄りだけという認識が一般的のようですし、
それは魯迅とて例外でなかったということでしょう。


***


最初にだいたい書いてしまいましたが重い作品集でした。
中国で知らぬ者はいないであろう魯迅の作品を読めてとても良かったです。
彼の生きた時代背景や家族構成・人生なども気になって調べましたし、
得るところが大きかったです。

正妻を残して自分の教え子と駆け落ちしたというところに
「どの国でも文豪は私生活でやらかすことで一人前になるのか」
と思いました。好みでないから仕方なかった(実話)とは言え、
私は正妻がかわいそうでかわいそうで仕方ありません。
正妻が駆け落ち相手の子供に送った手紙なども見て胸が苦しくなりました。
まあ文豪ってそんなもんなんでしょうね。知らんけど。(思考放棄)
オチがこんなんで本当にすいません。