【桜島 中村健一郎 撮影】
終業式前日の最後の授業は、山上先生による国語だった。
私は、この鹿児島南中学校における最後の授業が国語になってしまったのは、天が私に最後の試練を与えているのではないかと感じていた。
最近、学校内では山上先生に対するイジメがめっきり減っていた。
そのためなのか、逆に山上先生の生徒に対する態度が横柄になってきていると噂が囁かれるようになっていた。
実を言うと私は、三学期を迎えてからリーダー格の大沙湖を始め彼女と親しい女子たちや真知原を筆頭としたスケバンたちからも、山上先生が嫌われるキッカケになっていったその要因について少しづつ聞き出すことが出来ていた。
彼女たちの話をまとめると山上先生は、私たちが、中学一年生だった頃から、かなり生徒に対するエコ贔屓が激しかったことや気に入らない生徒の机をポインターで激しく叩いたり、最悪なのは自分のお気に入りの女子生徒に対して不必要に肩や背中に触れたりしていたようである。
これが中学二年生になったくらいから、女子たちが、山上先生に対して反発する態度を取る原因になったというのである。
現在ならどうだろう。
山上先生は、教師としてきっと大問題になっていただろう。
話は聞いてみるものである。
教師に対して生徒たちが、イジメを行うことは決して許されることではない。
しかし、山上先生の教師としての在り方も問題だったと言える。
いや、むしろ原因を作ったのは山上先生の方だったと言える。
だからといって山上先生に対してイジメたり嫌がらせをすることが正しいことにもならない。
終業式前日の朝、全体朝礼が行われた。
校長の長話が終了するといきなり服装検査が行われた。
1970年代後半、この頃は学ランもスカート以上に長くするのが流行っていた。
不良やスケバンともいう輩になれば一層である。
女子の場合は、スカートが膝下どころか地面スレスレのスケバンも少なくなかった。
この頃の教師は、まさしく鬼と呼びたくなる教師が、どこの学校にもいたものである。
その鬼の中には、生徒を本当にぶん殴ったり、蹴ったりする教師もいたが、親の方が存分に子供を叱ってくれという親も多かったので問題になることは殆どなかった。
現代とは違い、軍隊あがりの教師や戦争を生き抜いた教師も多かったし、範を垂れる教師、すなわち生徒や親からも尊敬される先生も少なくなかった時代だったから、よほどのことがない限りは教師が生徒に対して体罰が社会問題になることは殆どなかった。
この時代は、親が子供を殴ることも普通だったので、殴られるほうも慣れていたというか、柔ではなかった。
学生同士の喧嘩で警察が来ることもなかったし、擦り傷くらいは平気だったし当たり前である。
これが良いという話ではなく、そういう時代だったことを理解してほしい。
もちろん今は通用しないし、いずれも良いことではないと思う。
さて話を戻そう。
その服装検査で谷山(仮名)先生が、男子の学ランが長い連中に片っから端ゲンコツを放って行った。
谷山先生は『技術』の専門教師だが、握力は80を超える馬鹿力で、男子が悪さをすると文字通りあそこの『玉掴み』で反省させる。
泣く子も黙る、鬼教師だ。
殆ど男子生徒がこの谷山先生の玉掴みで絞られていたから、朝礼でしかも女子生徒のまえで"ゲンコツをくらう"ぐらいなら朝飯まえだった。
私は谷山先生の玉掴みを免れた唯一の生徒なのが自慢になっているほどである。
その谷山先生が女子生徒の方もまわりはじめて、ついにスカート丈が長い女子は平手打ちで頭をはたきはじめた。
谷山先生は、厳格で真面目な先生なので女子で不平を漏らすものはいなかった。
この時、スカートの丈が長い真知原にも谷山先生が歩み寄った時だ。
なぜか、山上先生が突如 谷山先生の後ろにくっついて行ったのだ。
そして、谷山先生が真知原を怒っている最中に山上先生がポインターを取り出すと真知原のスカートめがけてポインターではたきながら、谷山先生に訴えるようにして発言した。
「この生徒は授業も態度が悪いし、こんな長い制服を着て問題ばかり起こしているんですよ」
真知原が、谷山先生でなく山上先生を睨め付けてポインターを手で払って叫んだ。
「なんすとっかー、わいは、関係ねぇどがー」
「なんだ、その口答えはっ」
谷山先生は激怒して三発も真知原に平手打ちで打ち放った。
山上先生は、真知原を見ながらニヤリと笑った。
私はこの瞬間、山上先生がなんと情けない教師なんだろうと思った。
そして、今日の最後は、国語の授業だが、一体どうなるんだろう、と考えるだけで私は暗い気持ちになった。
なぜか、私の左斜め前に座る真知原は教室に帰ってから一度も私と眼を合わさなかった。
私はずーっと真知原を見ていたが、わざと私を避けている気がした。
彼女は、きっと山上先生と対決する気でいる、そう思った。
最後の授業が始まるチャイムが鳴って、クラスメイトが席についた。
私と真知原に対するクラスメイト全員の視線を感じた。
中学二年最後の授業であり、私にとって鹿児島での最後の授業でもあった。
真知原が爆発すれば、私も爆発する。
山上先生の方に、私がきっと味方をするに違いない。
クラスメイトは、誰もがそう思っていただろう。
山上先生が威張った態度で現れた。
今朝の朝礼で谷山先生に、真知原は三発も叩かれたので落ち込んで大人しくなっている、と思い込んでいるのだ。
しかし、私にはわかっていた。
真知原は、そんなに柔ではない。
今日、真知原は山上先生をぶん殴るつもりでいる。
彼女には、そういう覚悟があると私は強く感じていた。
授業が始まった瞬間、真知原が机を激しく蹴った。
山上先生が、ビクッとして真知原を睨みつけて近づいてきた。
「なんですかっ、その態度は」
顔はあっという間に真っ赤なった。
山上先生は怒るといつも、林檎より顔が赤くなる気がする。
「そんな態度なら、また谷山先生に言いますよ」
「わいは、谷山に頼らんと何も出来んとやろがーっ」
真知原が立ち上がった。
山上先生は、さらに茹で蛸のようになってポインターで真知原の机を激しく叩いた。
「なんですかー、座りなさい」
「わいは、そんポインターで叩いたどが、許さんど」
真知原が一歩踏み出して拳を握りしめ踏み出そうとした。
「真知原っ」
私はか細い声で呼びかけた。
聞こえたのか、真知原が振り返り私を睨んだ。
山上先生が、私に期待する素振りを見せた。
私は怒鳴らなかったし、山上先生を助ける気持ちなど毛頭なかった。
「うっせぇが、真崎」
そう言ってから真知原が山上先生に向き直った。
「真知原、わいの気持ちはオイが一番知っちょる」
私は小声で真知原に言った。
私の言葉を聞き取れたのは、真知原とその周辺の数人だけだったはずである。
真知原が素早く振り返った。
「わいが、なんちやーっ」(お前が何を言うか)
私を睨みつける真知原に、私は優しく小さな声で言った。
「真知原、本当やっち、おいは真知原の味方やっど。嘘じゃなか、今の真知原の気持ちは痛いほどおいにはわかっちょる。おいも朝礼の時から服装検査のやり方には腹が立っちょっど」
小声ではあっても、静まり返った教室内では私の言葉は全員に聞こえていたかもしれない。
私が言ったことは全て本当の気持ちで心から真知原に伝えたかった言葉だった。
「じゃっどん真知原、そんやり方は損じゃ。
お前が損をすっとは良くなか。もう相手にすんな。真知原、おいは誰よりもわいの気持ちがわかるし、わいの味方やっど。これからもずっとじゃ 嘘じゃなか。本当やっど・・」
真知原の怒りが治まっていくのを感じとることができた。
真知原が静かに目線を床の方に落とした。
「真知原、もう座らんか」
私は優しく言った。
真知原は静かに座り、蹴った机を元に戻した。
私は、真っ直ぐ山上先生を見つめた。
『あんたも、もう二度とあんなことはするな、今度は俺が許さんぞ』
口には出さずに、目でそう伝えた。
睨んだつもりはないのだが、山上先生は目が泳ぎはじめて、あたふたしながら壇上に戻り心ここに在らずといったとりとめのない授業で幕を閉じた。
「クソ真崎が」
山上先生が去るとすぐに、真知原が振り向いて言ったが、その目はおだやかだった。
なぜか、教室内の雰囲気がとても温かな空気になっていた。
誰もが笑顔だった。
あーこのまま時間が止まってしまえば良いのに、心からそう思った。
翌日、終業式の後、私はクラスメイト全員にハンカチを配った。
クラスメイトからは、いつ鹿児島を旅立つのか聞かれて、私は、日にちと西鹿児島駅発、熊本行きの列車出発時間を伝えた。
最後の部活に向かう途中、校舎を出たところで真知原に声をかけられた。
私が、そこを通るのを彼女は待っていたのかもしれない。
「真崎、わいのせいで山上を最後に懲らしめっこつが出来んかったど」
「悪かったな」
私は笑顔で言った。
真知原も笑顔だった。
もう彼女は二度と同じことはやらないだろう。
そんな気がした。
成長したのだ。
いや私も成長したのだ。
「元気でな、真知原」
「クソ真崎」
言いながら真知原は、今まで見たことないくらい優しい笑顔を向けていた。
後の話になるが、真知原は私が引っ越した先に何度か電話をしてきた。
私は、いずれも留守で電話に出れなかった。
「真知原さんには、うちの息子から電話させるからと言っても、"いいえ いいんです。こちらからまたお電話します"だって。とても丁重なお嬢さんなのね。本当にいつも申し訳ないわね」
「ふーん、なんかあったのかな」
私は真知原の家には電話がない、と母には言えなかった。
真知原は、公衆電話から電話していたのだ。
クラスメイトの連絡表の名簿で電話がないのは真知原だけだった。
高校になってからも、たまに真知原から電話があったが、タイミング悪く一度も電話に出れなかった。
携帯電話などなかった時代だから、家に電話がなければ連絡のつけようがなかった。
真知原が私に電話するのはよほどのことだったと思う。
もう40年以上の歳月が過ぎた。
今もふと、真知原が元気にしているだろうかと思う。
私は剣道部室に行った。
また、コソコソ皆が集まって話していた。
私が現れると慌てて話をやめた。
もう今日が最後の稽古だったので私は気にしないことにしていた。
「今日は真崎が最後やっでぇ、トーナメント試合をすっど」
珍しく稽古のはじめから指導していた福田先生が言い放った。
正直言って私は剣道部の主将、つまりキャプテンだったが、強さとなると決して強い方ではなかった。
中村健一郎を筆頭に、松村、谷村、森田などは技術も強さも彼らが上だった。
しかし私は、この頃剣道にだいぶ自信がついていた。
さらにこの日、不思議なことに私には力みが無く、最後だから楽しくやろうと言う気持ちになっていた。
勝負が始まると私は、あっという間に決勝まで勝ち抜き、健一郎と対戦することになった。
試合形式で健一郎に勝ったことは一度も無かったが、決勝戦は鮮やかな一本を連続で取って勝った。
終わってから、福田先生から体育教官室に呼ばれた。
「真崎、わいは強くなったなぁ。熊本でも頑張れ」
福田先生が笑顔で握手をしてくれた。
嬉しかった。
福田先生は武の道を教えてくれた最初の師であり、今なお私にとって最高の師である。
体育教官室を出ると知花が待っていた。
「明日は、剣道部全員で引っ越しは手伝うでな。なんも心配はいらんが。真崎は映画の編集頑張っとくれ」
「頼んど」
さすがに、知花は頼りになった。
剣道部員には、明日の夕方開催する自主制作映画『ファイト』上映会の手作りチケットを渡した。
生徒会室に寄ると滝浪が一人残っていた。
私は滝浪にもチケットを渡した。
「ついにやったんだね、映画」
「まだ、編集真っ最中じゃっとよ。こいから徹夜でやらんと間に合わん」
「そうなんだ、頑張ってね、見に行くからね」
私は家に帰るとすぐに、8ミリ映写機や沢山のフィルムが入った箱と着替えを持って生徒会長の丸岡の家に向かった。
私の家は引っ越しの準備を終えており、寝泊まりが出来なかった。
親も同僚の家に泊まることになっていた。
丸岡は「ウチはお店だし使ってない部屋があるから、一晩中編集しても大丈夫だよ」と勧めてくれていたのだ。
映像の編集は半分ほど残っていた。
私は、丸岡の家に行くとすぐに編集に取り掛かった。
本当は丸岡と思い出話に耽りたかったが、一晩徹夜しても編集は終わらない気がした。
丸岡の母親は気を遣ってくれて、編集している部屋に夕食を持ってきてくれた。
食事を終えた丸岡がずいぶん長く付き合ってくれたが、眠すぎると言って去った。
私のために布団を敷いてくれたが、私は寝るわけにはいかなかった。
深夜に突然、襖が開いて丸岡の両親が入ってきた。
時計の針は3時を指していた。
「真崎くん、本当によく頑張んね。わっぜ凄か」
丸岡の父親は私の作業をじーっと見ながら言った。
「でも少しは休んだ方が良かよ、明日も忙しいやろう」
母親の方は、心配そうだった。
私が一言も語らず真剣な顔で編集するのをじっと見つめながら、二人は一時間以上も付き合ってくれた。
やがて母親が席を立ち、父親の方はなおも私に付き合おうとしていたが私は言った。
「おじさん、大丈夫ですから、休んでください」
いずれにしても誰も何も手伝えないのだ。
孤独な戦いだった。
夜が明けた。
一睡もしなかった。
朝食をご馳走になり、私は丸岡の両親に礼を言って、作業場を上映会を開催する国鉄官舎の集会場に移した。
外は雨が降っていた。
時計の針が12時を指した時、編集はようやく終わった。
次にカセットデッキを用いてテープにナレーションと音楽を収録した。
作品はサイレントだったので、それに合わせて音楽やナレーションを用意しなければならなかったのだ。
私が全てを終えた時は、午後3時半を過ぎていた。
急いで家に行くと引っ越しは終わっていた。
剣道部員と友人達が大勢集まっていて引っ越しを手伝ってくれていた。
父の同僚たちも集まっていたが、彼らにすぐに囲まれた。
「明くんの友達がみんなで引っ越し手伝ったから、オイたち大人の出番は何もなかったど。良か友達が明くんには、わっせいおっとやねぇ」
父の同僚達が一斉に拍手してくれた。
私が想像していたよりもはるかに沢山の仲間たちが手伝いに来てくれていたのだ。
私は上映会の準備が出来たことを皆に伝えた。
国鉄集会場は満杯になった。
ただ映画制作に携わったメンバーの中で、萩原だけは来ていなかった。
これだけは心残りで本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
熊本に引っ越したら萩原に手紙を書こうと思った。
1979年3月25日、ついに映画『ファイト』は完成し上映会が開催された。
始まってすぐに爆笑と拍手になった。
最初から最後まで大受けだった。
何しろこの映画に携わったメンバーほぼ全員が鑑賞していたわけだから、受けるのは当然のことかもしれない。
終了した時には総立ちで拍手になった。
「面白かった」「良かった」「感動した」「アクションが凄かった」「ブルースリーみたいだった」「知花の悪役が良かった」云々と誰もが賞賛を送ってくれた。
「最高やったど、真崎」
知花がそう言ってくれた時涙が出そうなほど嬉しかった。
全ての行事を終えて家に残されていた一泊分の荷物を取りに行った時、滝浪が国鉄官舎の前に立っていた。
「ごめんね、どうしても用事が出来て上映会に行けなかった」
「良かよ、でも来てくれてありがとう」
「真崎くん、私・・手紙書くから、新しい住所教えてくれる」
喜んで、私は新住所を書いて渡した。
「滝浪さん、オレね。あん時滝浪さんから、転校たくさん経験して親には感謝してるって言ったやろう。あれで、オレ乗り越えられた。辛かったけど、転校する覚悟が出来たとよ。滝浪さんには、いつか言わなきゃって思ちょった。ほんのこち、ありがとう」
「真崎くんなら、熊本行っても、また凄いことやるよ、きっと。私は応援してるからね、これからも」
いつのまにか雨は止んでいた。
夕日が、滝浪を赤く照らしていた。
その夜、私は知花の家に泊まった。
知花の母親が作ってくれたハウスバーモンドカレーをご馳走になった。
ハウスバーモンドなんて子供っぽいカレーと思っていたが、なぜかとても美味しかった。
この時の味が忘れられないのか、私は今でもハウスバーモンドカレーが好きだ。
その夜、知花の家に集まった親友たちで朝まで騒ぎまくった。
結局一睡もせずに朝を迎えた。
知花の家ではご両親にも世話になったが、お爺さんにも私は可愛がられた。
「また、遊びに来なさいね」
私は知花の家族に深々と頭を下げて知花と共に西鹿児島駅に向かった。
駅に着くとすでに大勢の友人や後輩たちが集まっていた。
「女子もわっぜたくさん見送りに来とったど。じゃっどん真崎のために、おなご連中は、みんな一緒にわざわざ花屋さんに花を買いに行ったど」
健一郎がそう言った。
後でわかったことだが、実は残念なことに、私が女子に言った出発時間が間違っていたのか、女子が間違えてしまっていたのか、女子たちは列車が出発した直後に駅に戻ってきたらしい。
本当に申し訳なかった。
今思い出しても、この事は心が苦しくなっしまう。
「萩原が来ちょるど」
知花に言われて振り向くとかなり離れたところに萩原が悲しそうな顔で立っていた。
私は走り寄った。
「ハギーっ、来てくれたとか。嬉しか」
萩原は私が怒ることなく笑顔だったことに驚いていた。
私は萩原の手を握り深く頭を下げた。
「いろいろ手伝ってくれてほんのこちありがとう。上映会見てほしかったどん、今日会えたで。それだけでん良かっち思う」
萩原は、何か言いたそうだったが次から次に友人たちが挨拶にきた。
出発時間が近づき全員でホームに向かった。
健一郎が、女子達を気にしていたがもはや時間切れだった。
ホームに着いた時、剣道部に囲まれた。
剣道部員からたくさんの贈り物をもらった。
最後に知花が分厚いバインダーを渡しながら言った。
「真崎にばれんようにこれを進めるのが大変じゃった。このバインダーには、剣道部全員が真崎に贈る言葉を書いちょっからあとでゆっくり読め。頑張れよ。んで、すぐに鹿児んま(鹿児島)に帰ってけ」
剣道部の連中が私に隠れてコソコソとしていたのは、このためだったのか。
こいつら、オレに黙ってこんなことをしてくれていたのか・・・
私は、除け者にされたのかという疑うような気持ちにすらなった自分が恥ずかしくなったのと、感動して涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
ホームは、私たち家族の見送りで溢れそうなほど沢山の人だかりが出来ていた。
私はイジメに遭った絶体絶命の時から、天に祈るようになったが、助けてもらったという感覚は一度も無かったが、目標を持って全力で戦い抜いて、今この鹿児島の最後を迎えた時に、全てが実りをもたらしたという結果に心から深く天に感謝したい気持ちでいっぱいになっていた。
発車のベルが鳴り始めた。
窓を開けると誰も彼もが一斉に声をかけてくるので何を言ってるのかよくわからない。
列車が動き出した。
友人や剣道部員たちが一緒に走り出した。
列車が早くなっても追いかけている。
ホームを過ぎて線路になっても後輩たちが必死に追ってくるのが見えた。
私は必死に手を振った。
ついに誰も見えなくなった。
私はバインダーを手に取り乗降用のデッキに向かった。
親に顔を見られたくなかったからだ。
バインダーを開くと最初に知花からメッセージが書かれていた。
一人ひとりの剣道部員から温かなメッセージが綴られていた。
彼らの顔が浮かんできて、まるで私に語りかけてきたような気がした。
窓の外に桜島が見えてきた。
もう耐えられなかった。
私はトイレに入って、泣き出した。
バインダーを抱いて大泣きした。
ありがとう、ありがとう、みんな ありがとう、南中学校、ありがとう、桜島 ありがとう、鹿児島 ありがとう。
私は声を出して思いっきり泣いた。
40数年前の出来事が、いまだに昨日のように感じられて仕方ない。
それゆえに、私は鹿児島に対して変わらない気持ちが今も続いているのである。
〜ファイトシリーズ〜『完』
☆『キネマロード』シリーズは熊本編に入る予定です。
【桜島 中村俊行 撮影】
Short Drama『告白』
『劇団真怪魚〜2022年度研究生募集』
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