金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第87回  60年かけて果たせた約束

2017-09-11 12:30:04 | 日本語ものがたり
               1991年7月に結婚した我々夫婦、今でいう「バツイチ」同士、つまり二人とも再婚でした。25年目後の2016年が銀婚式ということになります。あの感動の日から早いもので25年。せっかくの銀婚式だから、どこか遠くへ旅行をしたいね、と話しているうちに、あっという間に年が改まって気がつくと2017年になってしまいました。すると、7月には26年目を迎えてしまいます。今年に入って、まだ7月までは時間があるからとあれこれ迷った挙句に、行き先を急遽ハワイと決めて、この5月に行って来ました。「バンクーバーから客船で往復12日間。ロマンチックな船旅」という謳い文句に乗せられて、銀婚式を祝うには理想的と思い、予約しました。あの不幸な戦争が始まった真珠湾に行って墓参をしたい、と私は長年思っていましたので、同時にその夢を叶えることも出来る一石二鳥の旅です。
 
              ところが、蓋を開けてみると、驚きの連続です。まず、バンクーバーを出港してハワイの最初の寄港地へ。ここまでで既に4日間です。つまりハワイの土を踏まない日が往復8日もある旅でした。せめて片道は空の旅にするんだったと後悔しても、時すでに遅し。ツアーに参加した上は、続行しかありません。それに加えて、太平洋という名前とは逆に海が大荒れ、2700人乗りの大きな客船が、池に浮かぶ一枚の葉のように揺れるのです。ハワイ直前の一夜など生きた心地がしませんでした。
 
              さて、最初の寄港地はハワイ島のヒロ(Hilo)という街です。ヒロの港に着いて、ふと思い出したことがありました。それは遠い遠い子供時代の記憶で、それが今回の表題の「
60年後に果たした約束」だったのです。少し長くなりますが、背景を説明しますのでどうかお付き合いください。
 
              私は当地、ケベック州の親しい知人達から長年「たき」と呼ばれてきました。それは武洋の「たけひろ」が、フランス語読みでHが消えてしまって「たけいろ」となってしまうことがきっかけです。その後「たけひろ」が「たきーろ」となり、面倒なので「たき」と縮めました。まだケベック市のラヴァル大学で学生だった40年ほど前の話です。
              一方、北海道東部の田舎で子供だった頃、親や兄姉から呼ばれていた名前は「たき」ではなくて「ひろ」でした。私は4人姉弟で、長女の姉の下に男が三人。私は次男で、男の兄弟が上と下に一人ずついます。兄の名前が「武明(たけあき)」、弟が「武度(たけのり)」です。そもそも祖父(=父の父)の名前が「武」一字で読みは「たけし」。これがいわゆる「通字」になったのですね。長男だった父が「武美」と命名されて以降、7人いた息子たち(=私の父と6人の叔父)は全員「武」で始まる名前だったのです。父も3人の息子にその伝統を続けたわけです。よく「ほら、徳川将軍は家康、家光みたいにほとんど「家」がつくだろう。豊臣は「秀」だし。あれと同じさ」と言っていた父。将軍や貴族、ましてや皇族でも何でもないのに、こうした「通字」の習慣を真似てあやかる庶民がいたというわけです。さて、そうしますと、我ら兄弟三名は、共通部分の「たけ」の代わりにそれに続く部分で区別されるのは当然ですよね。こうして、両親や姉から、兄は「あき」、次男坊の私は「ひろ」、弟は「のり」と呼ばれることになったのです。
               さて、今から60年ほど前のある日、居間に貼ってあった世界地図の前に立った父が当時5、6歳だった私に、こう言ったのです。「ひろ、ひろ、ここにおいで。ほら、ここを見なさい。お前と同じ名前の街がここにあるんだぞ」そう言われて父の指の先を見ると、ハワイ諸島と、その中で一番大きいハワイ島の中心都市である「Hilo」の名前がありました。父はさらに、こう言います。「お父さんはね、この地図でアキもノリも探したんだけど、どこにもなかった。あったのはヒロだけだったよ。それがここなんだ」 まだ小学校に入る前の私はそれを聞いて何だか感動してしまいました。そして父にこう約束したのです。「お父さん、わかった。いつか絶対、僕はこの街に行くよ。約束する」
 
              ところが、正直に打ち明けますと、私は父との約束をその後すっかり忘れてしまっていたのです。カナダに初めて来た1975年以降、飛行機で何度か(給油とかで?)ハワイに立ち寄ったと思うのですが、それはいつも州都であるホノルルで、ヒロではありませんでした。ホノルルはハワイ島ですらなく、オアフ島です。ところが今回の銀婚旅行で初めてハワイ島に行けることになったのです。そしてその島の寄港地が中心都市のヒロでした。父親との約束が突然蘇ってきたのは、ヒロの港に入った瞬間です。「え、ヒロって? そうか。あのヒロか。ここだったのか」と60年前の約束を思い出すと、涙が溢れ出てきました。60年を経てようやくこの街へ来られた感動。約束をすっかり忘れてしまっていた後悔と、今は亡き父への申し訳なさ。私の涙を見た妻が驚いて、「ちょっと、どうしたの。大丈夫?」と言ったほどです。
 
              その後、客船はカウアイ島、マウイ島に次々に立ち寄って、最後の寄港地がオアフ島のホノルルでした。ハワイ州の州都です。この島のハイライトは、出発前から楽しみにしていた真珠湾です。太平洋戦争が始まるきっかけとなった真珠湾攻撃は1941年の127日(日本時間では8日)、撃沈したままになっている軍艦アリゾナ号が海底に見える場所までフェリーで行きました。アリゾナ号が下に見える海上に記念館があります。その日はたまたま土砂降りとなったために長居出来ず、フェリーですぐ引き返しましたが、記念館の中にいる間、私はずっと目を閉じて祈っていました。日本の勝利を信じてここまで飛んできた若い飛行士たちを思い、突然空爆を受けて戦死してしまったアメリカ軍の兵士にも思いを馳せました。そして、銀婚式というめでたい機会にここまでやって来られた私たち夫婦の幸運を彼らの運命と比べていました。戦争の不幸と平和のありがたさ。何という恵まれた時代に生きているのだろうか、と驚きながら雨に濡れて立っていたのです。時代が時代なら、妻も敵国の人間です。そして、飛行機ではなく船で、日本からではなく逆方向のカナダからにここにやってきた不思議を噛みしめました。
 
              そしてふと気付いたのです。それは1991年という結婚した年の年号で、真珠湾攻撃は私たちの結婚からちょうど半世紀、50年前の出来事なのでした。60年もかかってようやく果たせた父との約束、50年後に思いがけなく訪れることになった真珠湾、気が付いてみると、それら二つの丸い数字の方がずっと印象的で、25という数字がややかすれて見えてしまった銀婚式旅行となりました。でも、つくづく行ってよかったと思います。合掌。

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