詰将棋アプリで頭を鍛える。直観力の訓練には最適。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

”秋山なお”の美粒ブログ

音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
微粒は、美流でつくられ、美粒となります。その思いをつづっています。

` 昔、昔、私が中学生だったころ、これはすごい、絶対に敵わないと思える友がいた。直観力がすごいのである。とにかく、本を読むスピードが速かった。当時の記憶では、一ページを数秒で理解していた。本当に理解しているのかと思い、本の内容を確認した。あっていたからたまげたのである。当時のわたしは、読解力などないから、本を読むのも、一字一字確認していたから、途中で意識が散漫になって、書いている内容もわからなくなる。なぜ、そんなことを書いたのかといえば、その友人の風貌が、藤井聡太三冠にそっくりなのである。その友人は、現役で、東大に入学したと聞いた。

 

 

` 世の中には、賢い人が確かにいる。将棋のタイトル戦をネットでみる。将棋のプロになるのも大変、その中で、タイトルを取るのも大変、その中で、20歳前の青年が、ひとり、強敵を打ち負かしていく。そのレベルが頭のいい人のレベルを超えている。このままの状態がすすめば、将棋タイトル、すべて取ってしまうだろうと思う。それだけ、読みの直観力がすぐれているのである。強豪相手での八割近い勝率。タイトル戦は、番勝負。5番勝負なら先に3勝、7番勝負なら、先に4勝すればいい。だから、いずれ、時間の問題で将棋タイトル、すべて、とるだろう。

 

 

 今、私がはまっているのが、詰将棋アプリである。特に、5手詰である。簡単に解けるのもあるが、何回やっても解けなくて、翌日、解けるのもある。現在、300番目ぐらいになっているが、そのうちの2回は、回答を見なければ、解けないものもあった。これをやっていくと、確かに、大局を直観的に見られるようになる。そのアプリのすごいところは、相手が最善手を選んでくることである。だから、正解手を打っていかなければ、5手では詰まないようになっている。6手かければ、詰むという場合でもアウトである。こんなの5手で詰むのかと思うような盤面でも、確かに詰むようになっている。こちらの持ち駒、とった駒の再利用、いろんな仕掛けがある。特に、飛や角、成角、成飛のラインがどうなっているのか、桂馬や香がどこにあるのかを見なければ、詰将棋など、解けない。簡単なようで、これは難しい。

 

 

 藤井青年は、子供の時から、詰将棋をやって、小学6年の時に、プロも混じった詰将棋解答選手権で優勝している。それも満点での優勝だから、驚きである。盤面をみて、一瞬のうちに、どうしたら、詰めるか、そのプロセスを判断できるのである。この能力が人よりも優れているとなれば、これはどうにもならない。

 

 

 今のスマホの情報処理速度はとんでもないものである。物事の直観力や全体の判断力、発想力を養うには、詰将棋アプリは最適である。最初の方は、5手詰でも簡単である。正解率が高い。しかし、だんだんとやっていくと、難題がでてくる。正解率が10%台のものが、どんどんでてくる。簡単なように見えるものでも、難しい。そんなことを経験していると、問題が出てきても、すぐには指さない。まず、全体を俯瞰するようになる。そうして、どうしたら、5手で詰むようになるのか、詰み形を考えるようになる。その後は、凡人がやることであるから、試行錯誤で、どうなるかだけである。正解にたどり着くと、もう一度その問題にもどって、どういうプロセスだったのか、確認する。難解だったのは、何回もトライする。そうなると、どうしたらいいか、思考プロセスが見えてくる。何回も間違うと、なぜと考える。そうなると、これは駒をすてるパターンかと考えるようになる。駒をとって、それを打ち込むパターンかとも考えるようになる。発想の転換である。これを、小学校低学年から、やっていたら、相当、頭がよくなる。すくなくとも、受験勉強など、しなくても、受験問題をみただけで、問題作成者の意図を見抜けるだろう。

 

 

 普通の人は、これはこうなるものだとの固定観念を持つようになる。固定観念をベースにして、物事を考えるようになる。それは、あくまでも相対論でしかない。藤井青年の考え方は、禅でいうところの無という境地に近い。たぶん、これはこうしなければならないという固定観念がないはずである。正解がたくさん見えるから、普通の人は、選ぶ作業をするのだろうが、彼は、捨てる作業をしているはずである。捨てて、捨てて、捨てた後に残ったものを選ぶということなのだろうと思う。自分の意思があると、それが固定観念となって、他の手が見えなくなる。そうしないと、AIと同じような手筋など分からない。

 

 

 世の中、いつの時でも、難題を突き付けられている。普通の人は何かあれば、慌てる。それに対処しようとする。しかし、それでは、対応できない。それでできるのなら、問題はおきていない。慌てないことである。そうして、全体を俯瞰することである。自分の置かれている状況がどんなものなのか、相手は何をもとめているのか、それを直観的に判断し、最適な行動をとることである。将棋はそれでも、9X 9 の舛の中のゲームである。人生は、無限の空間で無限を相手に勝負するゲームのようである。しかし、人生もひとつだけ、有限の世界が入ってくる。それが時間である。生きていられる時間がある。投了しなくても、タイムアップがきたら、この世から誰でもが強制退去となる。だから、物事は近視眼的にみないことだ。物事の道理にあわないことは、どこかで、必ず見落としがある。だから、すべての選択肢を排除しないことだ。どれが正解など、だれも分からない。すべては結果、自分が死ぬ瞬間、自分にとってそれでいいと思えたらそれでいい。死んだらどうにもならない。だから、毎日が、詰将棋をしているようなものである。刻一刻変化する状況に対して、最善手を模索し、実践するしかない。結果がすべて、過去は変えられないが、今の一瞬の行動からは変えることができる。失敗したら修正することだ。間違ったら、正しい道にもどるべきだ。倒れたら、起き上がるべきだ。駄々をこねても、誰も、手を差し伸べない。手を差し伸べてもらえるように、自分の実力を上げるべきである。