人生の役目、未来のために何ができるのか。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 私は、神様はいると思っている。いると思わなければ、この世にある色々な事柄のつじつまが合わなくなるからである。どんなものにも、始まりはある。そして、終わりはある。人の命がまさに、そのとおりである。しかし、その始まりの前に何があったのか、その終わりの先に何があるのか、だれも分からない。この宇宙は、ビックバーンから生まれたと言われている。この森羅万象のエネルギーの総量は、そのビックバーンでのエネルギー量だとは、わかる。しかし、その巨大のエネルギーを生んだ元は、何だったのか、だれもわからない。神様の気まぐれのくしゃみから生まれたといっても、それを完全否定する論理もまた、この世にはない。我々は、この一瞬一瞬に変化するこの場で、次の未来への変化率を受けて生きている。去年の今頃は、存在した。2020年12月25日である。それから、一年が経過した。私は、生きている。一年、確かに年をとり、いつかくる自分の死に対して、確実に一年近づいたということである。去年、亡くなった人がいる。コロナにかかって、亡くなった人がいる。去年の今頃、今年の今、自分がこの世にいないとは、その人は思っていない。事件や事故に巻き込まれて亡くなった人もいる。こちらに何の落ち度もなく、たまたま、歩いていたら、車の暴走で命をなくした人もいる。10秒、ずれていたら、助かった命でもある。

 

 

 その生死を分けるものは、一体何なのか、誰も、分からない。それは、誤差の範囲内ということになるはずである。信心深い人は助かり、そうでない人は助からないのか、というとそうでもない。信仰心のある人も、がんで亡くなるし、事故や事件に巻き込まれる。危険なところにはいかない、用心深い人の方が、事故や事件に巻き込まれるリスクは少ない。しかし、それでも、突然、命のエンドを告げられる人もいる。これはどうにもならない。夜中に、突然、大地震がおき、そのまま、家屋の下敷きとなり、亡くなることだってある。歩いていたら、ダンプカーが突っ込んできて、一瞬で、即死ということもある。それが、10歳、20歳、30歳、60歳、80歳、いずれかで起きるかなど、誰も分からない。

 

 

 神様はいてもいなくてもどうでもいいかもしれない。神社仏閣に、お賽銭をなげて、願い事がかなうなら、だれだって願掛けは行う。信仰心の深さで、何かが変わるのなら、喜んでお百度参りでもする。しかし、どうも、そういう短絡的なことではないような気がする。しかし、何かがあるような気がする。我々の思考からではたどり着けない、何かの因果律で、どこかの世界とこちらのこの世界とが結びつけられているような感じがする。その因果律に対して、何かの力が作用している。それが、ひとりひとりの人生に影響を与えている。なぜ、宇宙は壊れない。もし、壊れていたら、地球は存在していない。そして、自分は、存在していない。自分が今、こうして生きていることは、今をこうあるようにしている因果があるからである。それは、変化している。一時間後と今、何も変わらないように見えるが、やはり変わっている。どのように変化しているかなどわからない。その、どのように変化させるのか、そのやり方を支配しているのが、まさしく、神様なのだろう。私には明白な論理はないが、その目に見えない何かがあるということは感じることができる。

 

 

 人には、自我がある。自分というものを作り上げているエゴである。自分は自分で制御しているように思っているが、どうも、この年になると、何かの作用をうけて、この世に生かされているような感じがしている。偶然も、時間がたてば、それは必然にかわる。今まで生きてきたことも、死の瞬間に、すべてが、ひとつに集約される。未来の可能性は、ゼロとなり、すべてが、必然だったということになる。まさしく、天に召される。その言葉に尽きる。

 

 

 人生には、それぞれ、何かの役目、役割があるように感じる。それは、今ではない。未来のために、何ができるのか、ということを突き付けられているような感じである。この世は、何かの因果で動いている。神の意志というのがあるのか、わからない。しかし、過去と今との時間の間の変化率をみれば、それがなんであるのか感覚でわかる。その変化率が時間で変化している。まさしく、変化率の変化率を見ることになる。

 

 

 わたしは、独自の分散プロセスを構築している。次世代の太陽光発電の電極材、透明導電膜をも同時に模索している。私は専門家ではない。しかし、今、現在、問題になっている点を列挙すれば、どうも、私がいままでやってきた中にその解があるような気がしている。霧の中を暗中模索して稜線めがけて登ってきたら、突然に霧がはれ、面前に、巨大な山がそびえだしたような感じである。簡単にはできない。透明導電膜、透明度を優先すれば、導電性がおちる。まさしく、矛盾の中にある。明るい陽射しが照りこむ。そこにあるのは、エネルギーなのである。光は波であり粒子である。虫眼鏡で光をあつめれば、発火する。そのエネルギーは、地球に降り注いでいる。金属電極を使わなければ、薄くて、曲面の太陽光パネルができる。砂漠がオアシスにかわる。都会のビルの遮蔽につかえば、クールダウンになる。地球温暖化は抑止される。実用化になるまで、何年かかるか、何十年かかるか、わからないが、この世に未来があるなら、そういう時代になっている。私は、もうこの世にはいないだろうが、未来がすこしでも、希望に満ちたものになるなら、それも一つの役目かもしれない。

 

 

 本当に、乱せば、壊れる。これは真実なのである。そして、よどめば腐る。これも真実なのである。確かに、ある範囲の中に、美しさは存在する。なぜ、そうなっているのか、わからない。もはや、神様がそうしているとしか言いようがない。若者は希望をもつことである。老人は、これから生まれてくる人に、未来を与えなければいけない。私がうまれ、今の世界があるのは、先人が未来に対して希望を与えた結果である。30年後、50年後、どんな世界があるのだろうか。