がんばって、とりあえず、50歳まで生きること。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 人生の意義など、誰も分からないし、なぜ、生きているのか、生かされているのか、そんなことも分からない。わからないことを、あれこれ考えても意味はないのだが、しかし、若者は考える。なぜなら、前が見えないからである。ホワイトアウトの中を、前をみて運転しているようなものである。前方視界不良、それが、今である。永遠に前方視界良好などない。あるように、思うのは、錯覚であるが、それで、前をみて生きられるのなら、それでもいい。死ぬ瞬間に、お釈迦様にあえる。神様にあえる。亡くなった人たちと再会できる。来世がある。そうおもっても、かまわない。どんなことを思っていても、問題はない。それを人に許容して、そう思わない人に迷惑をかけなければかまわない。宝物と本人がそう思えるのなら、宝物は自分の中にしまっていればいい。他人にこれはいいものだから、あなたもそうおもったらいいと、しつこくいうのは、おせっかい、今は、おせっかいを越えて、犯罪に近い行為となる。

 

 

 人生は一回きりである。途中で、命がきれて、50歳までたどり着けない人もいる。なぜ、50歳なのか、そこが、人生の分水嶺だからである。私は47歳ぐらいだと見ているが、誤差があるから、きりのいい数字で50歳としている。今、15歳、16歳の人は、50歳など、想像などできない。しかし、一日睡眠をとれば、次の日になる。それが365回となれば、1年、12775回で35年、たった12775回の夜の睡眠回数しかない。それから、人は確実に老化する。確率の問題で、命が途切れていく。そして、100%、時がくれば、この世を去る。人生にはおわりがあると感じる感覚、人生の黄昏感覚、それは、人生の分水嶺をこえなければわからない。それまでは、坂道を重たい荷物をもって歩く強力さんと同じ気持ちである。とにかく、この坂道を上ることしかできない。50歳、近くなると、前方が開けてくる。尾根にたどり着いたのかと思う。やっとのことで、一休みかと思う。重たい荷物をどっこいしょと下す。上を見上げる。すこし焦ってくる。なんと、上がない。道がここで途切れている。行く道は、下ることしかできない。そこから、下が見える。永遠の道ではない。最後の方は道が途切れている。途中で、人が均等に倒れている。引き戻ることもできないし、ここで、倒れるわけにはいかない。行けるところまで、行くしかない。これが、人生なのか、人生とは、確かに、そういうことかもしれない。

 

 

 後は、どう思うかである。その先が光なのか闇なのか、だれも分からない。死ぬ瞬間でもわからないだろう。しかし、お釈迦様にあえる。神様にあえる。亡くなった人たちと再会できると、希望を持って生きた方が、楽である。そう思って最後まで頑張って生きた方がいい。もちろん、そう思わなくてもいい。最後まで頑張って生きられたら、どうでもいいことである。

 

 

 人生の分水嶺、50歳ぐらい、それまで、何があるかわからない。もちろん、その後もなにがあるのか分からない。私は、15歳の秋、病に倒れた。ステロイドを飲まされた。ステロイドが効かなくて、むくみが胸まで達した。夜中、苦しくて、目が覚めて、カーテンをあけてみた。そこから月が見えた。私は、死ぬのかなとその時、思った。そこから、突然、ステロイドが効き始めた。尿がどんどん、排出されていった。尿中蛋白も直ぐに陰性になった。今になって思えば、私がなにごともなく過ごせた正月は、14歳の時だった。その時、後数が月後、自分が病に倒れるとは思っていない。人生には浮き沈みの波があるが、なんとか、今まで、生きている。人並ぐらいの年齢まで生きていけるかもしれない。

 

 

 誰だって、明日、自分の身に何がおきるのか、分からない。事故にあい、障害をもつひともいる。事故で命を落とす人もいる。健康でいられても、強制終了ということもある。私のように15歳で、病気になる人もいる。思春期、免疫機能が、何かのきっかけで自分におそうこともある。自己免疫疾患である。小学生、中学初期、なにごともなく過ごしていても、突然、襲うこともある。日常が崩れるのである。母親は大変である。我が子が、病に倒れたら、心配しない両親はいない。なんとかしてあげたいと思うが、どうにもならない。心を静めることもできない。後は、本人の気持ち次第なのである。

 

 

 人生、何があるか分からない。失恋もするだろう、受験も失敗することもあるだろう、就職もうまくいかないこともあるだろう、結婚しても、別れることもあるだろう。うまくいくとは限らない。途中で病に倒れることもあるだろう。人生は挫折の連続である。もちろん、順風満帆で生きている人もいるし、この世の栄華を独り占めしているひともいるだろう。裕福な家に生まれるのと、貧乏の家に生まれるのでは、人生に違いがあるかもしれない。変えることができるのなら変えたらいい。がんばって、よりよくなりたいと思えば、がんばればいい。努力して、報われるとはかぎらないが、努力しなければ、報われることはないのは、真実である。

 

 

 若者は、50歳まで、生きれるのなら、がんばっていきたほうがいい。生きれなくて、途中で、死んでいった人がたくさんいるのも事実である。特に医療従事者、医者や看護師は、担当した患者が元気になってくれることを願っている。しかし、死んでいくケースもある。仲良くなった患者、特に若い患者がなくなるのは、つらいに違いない。だから、生きれるなら、50歳まで生きたらいい。50歳もなれば、後は、すべて自己責任である。それ以降は、確率的にあの世へいくのであるから、無理して死に急ぐ必要もないはずである。