記録が遅れましたが、先月20日に無事引っ越しをしました。
また引っ越しを決めたことにともなって、6月18日に新型コロナウィルスワクチンの3回目を接種しました。
それでワクチン打ってから、な~んか腰の右側が時々痛くてだるい感じになるんですよねえ……麦茶を飲むと悪化して排尿困難気味になるのが謎。
病院に行きたい気もするけど、引っ越してしまったので新しい医者を開発しなくてはなりません。
まず一番重要なのが歯医者で、その次が婦人科なんですけど、医者嫌いなんで、気分的に超絶面倒で何もやってません……
他にも引っ越しのお知らせを友人知人に送らなければならないとかあるんですけど、まだやってない。
何もかもめんどい。

というわけでそんな現在、やるべきことから逃避しようと最もどうでもいいことに着目した結果、コロナ禍が始まって以来まともに切っていない髪の毛を切りたいという欲求にかられ、以前からなんとなく気になっていたヘアドネーションをしてくれる美容院が近所にないものかと検索しました。
以下はその経緯と思ったことの話。
結論から言うと、かなり近所に4000円弱ほどでヘアドネーションをしてくれる美容院がありました。
ちょっとびっくり。
しかしながら、ヘアドネーションについて調べてみた結果、で?っていう脳内になっております。
やるかやらないかっつーと、経験としてはやってみたい気もするけど、うーん……って感じ。

初めてヘアドネーションというものを知ったのは、いつだったか忘れましたが、たしかテレビのニュース番組の特集でした。
私は子供の頃から長い髪で、大学の時に後ろでぎりぎりひとつにまとめられるくらいの短さに切ったのが、初めて髪を短くした経験でした。
それからは邪魔だなと感じるほど伸びるたびに肩くらいまで切るって感じで、美容院には半年に一回行けばいいほう、みたいな感じです。
使う美容院も11cutとか、安い早いを基準にしています。
指名があるような美容院には一度も行ったことがありません。
それでも切りに行くたびに美容師さんに「ほんとにそんなにバッサリいっちゃっていいんですか?」とか聞かれたりして、自分でも床に落ちた黒い犬のような髪の塊を見るにつけ、『賢者の贈り物』を思い出し、切った髪がただのゴミになってしまうのは、なんかもったいないような気はしていました。

そういう背景があって、小児がんの子供たちのためのウィッグに使う人毛の需要があると知った時は、少しだけ興味が沸きました。
ただ芸能人の方が寄付されたことを発信して知名度が上がりつつあるという紹介を見て、ああ偽善の押し売りの類ね~と思ってしまったのと、近所に協賛しているサロンがないならめんどくせえなというのと、そもそも美容院へ行くことについて、ただでさえ髪を失うというのにカネまで取られることに疑問を持つほどのドケチなので、寄付という部分で食指が動きませんでした。
売れるなら売りたい。と思いつつ、真面目に調べてみるまでは至らず。
しかしコロナ禍が始まってからは、自分で毛先を整える程度にしか切っていないので、今では腰まで余裕である状態。
ヘアドネーションは31㎝からなのですが、長ければ長いほどいいらしい……

非常に個人的な好みの話ですが、私はボランティアや寄付という考え方が嫌いです。
単純に自分がケチだから、というのはまずありますが、本質的な理由は『タダほど高いものはない』からです。
金銭を介さず労働と物品譲渡が行われている(あるいは一方的な金銭譲渡が行われている)現場では、必ず金銭以外の何かが同時に交換されています。
その非物質的な何かは、もらう側にとっては愛や絆かもしれないし、次の約束や相手から信頼されることかもしれないし、優越感だったり良いことをした気分、自己肯定感、そういうものです。
逆に支払う側(ボランティアや寄付を受ける側)が支払っているものは、多くの場合自尊心(プライド)という言葉で説明がつきます。
私は別に自尊心を支払うことが悪いとかダメだとは思いません。
むしろ施しで暮らしていけるならそれでかまわない性質ですので。
ただ、そういうことなのだと理解して自覚しておかないと、気づかぬうちに惨めさに精神を蝕まれると思うんですよ(専業主婦の人たちの扶養に対するコンプレックスの根源とかそれでしょ)。
特に自力では手に入らないものをタダで他人から恵んでもらうというのは、面の皮が厚さが必要です。
しかしながらボランティアや寄付の対象になる人たちというのは、たいていは自力で手に入らないものを与えてもらう立場にあります。
しかもする側には、される側がカネの代わりに自尊心を支払っているという感覚はないことが多いようです。
そこらへんの無自覚が気持ち悪いので、ボランティアや寄付が私は嫌いなのです。
まあそもそも『社会の役に立ちたい』という欲求自体が、自己肯定感の低さから発生してることもあるので、他人が支払ってくれる自尊心で自分の足りない自尊心を充填しているのかもしれません。
気の毒なことです。

そんなわけで、今回検索してみて『ヘアドネーションという罪。「いいこと」がもたらす社会の歪みについて』などという記事を見つけても、なんら驚きもない、さもありなんでした。
ちなみにこのNPO法人JHD&Cというところ、私が見つけた近所の美容院が協賛しているところっぽいのですが、正直言うとこの法人への寄付になるなら、やめておこうかなと思いました。
もうひとつの関連記事『無意識の差別をなくすことはできるのか?ヘアドネーションがいらない社会を目指して』のほうも読んだのですが、なんていうのかな……「ヘアドネーションという活動がなくなることが私たちの目標です」っていう考え方は私は嫌いですね。
子供食堂でも同じことを言っている運営者を見たことがあるのですが、あとなんかプラスチックゴミからアクセサリーか何かを作る会社を立ち上げた話でも聞いた台詞なんですが、最近の流行表現なんですかね?
おそらく自分の意識に鈍感な人たちに衝撃を与えるために極端な表現をしているのだと思いますが、前記事の「ここは、髪の毛がある人がほとんどの社会なんです。(中略)髪の毛があることを意識している人はほとんどいない。」というのも的外れだなと思いました。
実際にハゲている人は確かにマイノリティーではあります。
でもハゲることに怯えている人は男女共にすごく多いですよ。
髪の毛がなくなる恐怖なら、めちゃくちゃ意識しながら生きている人、けっこういますよ。
自分がハゲを晒すのは耐え難いと思っているから、ウィッグをかぶる選択肢に疑問を持たないんですよ。
それは無自覚なマウンティングというよりは、ネガティブな価値観の押し付けです。
その意識を押し付けではなく善意に分類しているのは傲慢で滑稽ですが、ヘアドネーションがトレンドのようになっていく世の中であるなら、髪の毛の有無について無意識な人はむしろマイノリティーのはずです。

また、ヘアドネーションは子供に関するものですが、自分なら惨めに思うであろう状況を子供も同様に感じるに決まっているという前提で、かわいそうがる人ってなんか多い気がします。
私が強く意識したのは2年前、コロナ禍で子供たちが黙って給食を食べることについて、不幸である前提で語る意見をSNSで多く見かけたことでした。
私は子供の時、祖母から食事は黙って食えと躾けられたのですが不幸なんですかね。
そういえば子供の頃(今もですが)私は手足の体毛が濃いめで、母がかわいそうだと言って脱毛クリームやら脱色やら色々施してくれたのですが、娘に幸せになってほしくて纏足を施す母の心理ってこんな感じかなあと思っていました。
大人になってお節介がいなくなったので、処理をするかどうかは服装次第です。
ストッキングを履くときは剃ったほうが綺麗だなとか、赤や青に染めてみたら面白そうとか考えますが、常に無毛の状態を保たねばならないとは全く思いません(着物なんか着るなら無処理のほうが色っぽいとすら思います)。
最近ムダ毛を無駄と呼ぶなとか、ムダ毛を剃らない選択みたいな主張があるらしいですが、上記の記事の「女性にもはげる権利が欲しい」っていうの、同じ発想だなと思います。
別に最初から、誰しもはげる権利ありますけど?って感じ。

まあなんか、この2記事を読んだ感じ、髪の毛の寄付は多すぎてウィッグの制作が追いつかないレベルのようだし、「今はやりがいも見出せていません」とか「正直続けていくことは、ただただしんどい」とか言っている活動に加担する必要はない気がしました。
そのいっぽうで、どうも髪の毛って買い取り業者があって、10歳未満の52㎝の髪の毛で6000円とかで売れることもあるらしいんですよ(髪の毛を売ると値段はいくらか見積もり比較した!高値で売る方法も徹底紹介!!)。
ヤフオクとかに出せばもっと高いこともあるみたいです。
私の髪はヴァージンヘアですがもう40歳なので買い取り業者は無理そうですが、どうせなら『良いことをした気分』よりはカネが欲しいですねw
それに大事なことはそのカネで何をするかであることは、『賢者の贈り物』でもう語られていることです。
なのに『よいことをした気分』になるために、数千円の価値をタダで見知らぬ他人に押し付ける人がいて、それを苦しみながら仲介する人がいる。
なんだか不思議です。

ちなみに実は前述のNPO法人JHD&Cへのインタビュー記事、見積もりの記事を出してくれている方の他の記事から飛んだのですが、ブログ主のhanamanamiさんはすごく純粋で善良で健全な方に思えました。
彼女のような精神で行えるなら、ボランティアも寄付もまあ気色悪くない気がします。
JHD&Cの代表理事の方も「隣の美容室と違うことができないか、何か髪の毛を通じて、髪の毛に恩返しができないか」「「困っているお子さんを救いたい」とかではなく、美容師として髪に携わっているからこそ、髪の毛を活用した取り組みができないか」という動機で始めたそうなので、その精神のまま、ただ髪の毛のために活動したらいいじゃないかと私は思うんですけどね。
脱毛症の子供にだけでなく人毛の需要があることは、買取業者の存在からして明らかなのですから。

ていうか自分のしていることが誰かを苦しめる結果になる現実に悩むのって、『よいことをしたい』という発想が根底にあるから起きる心理ではないでしょうか。
あの記事の中にある代表理事の方の発言は、私には矛盾しているように見えます。

ところでよく欧米は自然体でチャリティーをするという話をする日本人がいるけど、25年前まではしょっちゅうアメリカに行っていた私は、その自然体のチャリティー参加というのを感じたことがないんですよねえ……がっつり商売の世界にいたせいなのかなあ。
おそらく日本人にとってボランティアや寄付は『徳を積む行為』で特別な善行なんですよ。
放鳥するために鳥籠に入った鳥が売られているタイのタンブンと同じ発想です。
たしかに欧米人のチャリティー精神にそういうお仕着せがましさはない気はします。
しかし、ボランティアや寄付がよいことか悪いことかといったら、当然よいことだと思うからしている点は変わらないのではないでしょうか。
例えば朝起きて顔を洗うのを、それがよいことだから、あるいは人として当然の身だしなみだからしているように、彼らはボランティアや寄付を行うように私には見えます。
ノブレスオブリージュの類ね。結局傲慢じゃんw

てか本当に善いことでしょうか?
アメリカでは、コロナ禍にともない高齢者の買い物をボランティアで代行する若者が現れたせいで、低所得者の仕事が奪われているという告発を見たことがあります。
マジかどうかは知らないけどありえなくはないと思う。
世の中塞翁が馬です。
自分の行いが誰かの役に立ってほしい、善い行いであってほしいというのは、人間の捨てられない欲求かもしれません。
もはや原罪あるいは煩悩と言ってよいもの。
個人的にはその欲求は、明らかに悪い結果になることが分かっている時、それでも自分がしたいからするのかどうかを検討するために発動するべきで、原則第一に持ってくる行動動機は『自分がやりたいから』という我儘でいいような気がします。
顔を洗うのも、気持ちいいから洗うのよ。

私にとってヘアドネーションは経験としては気になる程度。
そもそも髪を切りに行くのも面倒くさい。
そんな感じです。