【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タイタニック号の処女航海_06/20 ; 歴史深層(006)

2022-05-19 05:35:46 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年05月19日<ⰧⰊⰧ

☆★ 地球にお星さまが衝突(861年)。この時は神様の授かりものとして歓迎されるが、1000年以上も後にハレー彗星が毒ガスを放出しながら異常接近した際には全世界が恐慌状態に陥った。デマでパニックに1910年)。☆★ 豊国天皇、不敬なる臣民を「朕ハ タラフク食ッテイルゾ ナンジ人民 飢エテ死ネ」と強く戒める(1946年=食糧メーデー)。☆★ 数々のスパイ映画や推理小説の舞台となった豪華国際列車が、1977年のこの日を限りに店仕舞い。即ち、オリエント急行の最終便がパリを出発。

本日記載附録(ブログ)

「絶対に沈まない」といわれていた豪華客船タイタニックが沈没した

---そのタイタニックに1人の日本人が乗っていた。細野正文さんである---

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ 引き揚げ遺品で汚名返上 1/2 ◆◇

――RMSタイタニック社に正文さんの手記を預け、その調査によって新たにわかったのは、どのようなことだったのですか。

 実際はどういう集団か、得体の知れないところがあったのですが、調査はしっかりしたものでした。学者もそろっていましたしね。

 当時の証言や資料をいろいろ集めてくれて、それでわかってきたことがいくつかあるんです。

 たとえば、それ以前は祖父がどの救命ボートに乗っていたのかが、はっきりしませんでした。そのせいで「他人を押しのけてまで」といった風評が立ったところがあるようです。しかし、RMSタイタニック社の調査で、祖父が10号ボートに乗っていたことが判明しました。

 10号ボートの船員が、乗っていたのはアルメニア人が2人だと証言したために、祖父の存在が不確かだったのです。ところが、そのアルメニア人が後に回想録を出していることがわかって、日本人と一緒にボートを漕いだと書いていたんです。祖父はアルメニア人と間違われたのでしょう。

当時のヨーロッパ人には、東洋人の区別がつかなかったでしょうし、日本人に対する偏見もあって、誤解が生じたんだと思います。

 その調査結果は当時、手記の存在とともに新聞や雑誌でとりあげられました。

――一気に汚名返上ですね。頭の上の暗雲が去った。

 ええ、ずっとタイタニックにつきまとわれている感じでしたからね。

 僕ばかりではなく、親戚一同が同じ気持ちでしたから、皆が一堂に会してお祝いをしましたよ。「ああ、これで終わった」と。

 でも、まだつきまとわれていますね。こうして取材を受けるんだから(笑)。

――タイタニック沈没から100周年ですからね。

 しかたないかな。

 そういえば当時、RMSタイタニック社に預けた祖父の手記が行方不明になるという事件などもありましたね。

・・・・・・明日に続く・・・

…… 参考資料: タイタニック(客船) =6/11= ……

脱出・救命

沈没が差し迫ったタイタニックでは、左舷はライトラー二等航海士が、右舷はマードック次席一等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは一等船客の「女性と子供を優先する」ことを遵守したが、マードックは比較的男性にも寛大な対応をした。

しかし、当時のイギリス商務省の規定はタイタニックに比してはるかに乗客の少ない1万トン級船舶が主流だったころに作成されたものだったため、定員分の救命ボートを備える義務がなく(規定では978人分。規定が改定されたのはタイタニックの沈没後)、もとより短時間で沈没するような事態を想定していなかったこともあり、1,178人分のボートしか用意されていなかった。これにはタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故の影響も指摘される。この事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。

また、乗員が定員に満たぬうちに船から離れた救命ボートも多い。ライトラーをはじめとする多くのクルーがボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊るした状態で船が沈んでしまうことを最大の恥辱としていたため、できるだけ早く海面にボートを降ろし、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、クルーの多くがボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに不慣れであり、乗員の重さでダビットが曲がることを恐れたためともいわれる(事前に行われたテストで定員65人のボートに70人を乗せて充分な成果を得ていたが、周知されていなかった)。事実、降ろされたボートには乗員が定員の半数にも満たないものもあり、結果として1,500人もの乗員乗客が船に取り残される状況となってしまった。

沈没

浸水の影響でタイタニックの船首は海没していき、反対に船尾が海面から高く持ち上がっていった。その結果、設計時の想定をはるかに超える負荷が船体にかかり、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音とともに船体は2つに折れてしまった。検証によれば、折れた個所は構造上比較的弱かった後部大階段付近(第三煙突前方)であり、引きちぎられるように折れた。デッキが多い客船は、沈没の際早期に転覆するのが常であり、タイタニックのように最後まで転覆せず、船尾が空中高く持ち上がり、あまつさえその負荷により船体が折れる事例はきわめて珍しい。電気系統は船体が折れる直前まで稼働していた。

2つに折れたタイタニックは、船首側がまず沈没し、残った船尾側はやや遅れて沈んだ。混乱の中で救命ボートの転覆を恐れたクルーの逡巡の末、救助に向かったボートはわずか1艘だった(左舷14号ボート)。このボートはハロルド・ロウ五等航海士が艇長を務めていたが、準備を整えて救助に向かったとき、沈没からすでに30分が経過していた。4月の大西洋はまだ水温が低く、人々が投げ出された海は零下2度の冷たさで、乗客の大半は低体温症などで十数分 - 20分程度で死亡したか、または心臓麻痺で数分のうちに死亡したと考えられている。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。

2時間半後、到着した客船カルパチアが救助挺を出し、海に浮かんでいた2人の生存者を救出した。そのうちの1人は、浮遊していたドアによじ登り、水に浸かっていなかったため体温低下の進行が遅かったものと見られている。驚くべき事例はもう1人の者(チャールズ・ジョーキン、パン職人)で、全身が水に浸かっていたにもかかわらず生存していた。医学的検査の結果、内臓や血管などに特殊な所見はなく、唯一の違いは「酒に酔っていた」ことであった。しかし、今日の医学ではアルコールはむしろ低体温症のリスクを高めるとされているし、救助されたあとに亡くなった犠牲者の中にも同じように酔っていてアルコール血中濃度の高い者がいた。この生存者は、平均して20分程度で死亡した遭難者の中で2時間も生存した稀有な例である。

 /・・・・・・明日に続く

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= Sinking of the RMS Titanic real footage : https://youtu.be/5qKtxpHbtyE  =

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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