シャボン玉の詩

前へ前へと進んできたつもりでしたが、
今では過去の思い出に浸る時間も大切にしなければ、
と思っています。

思い出の道 (18)

2019-01-27 14:40:39 | Weblog
父は紙袋に包んだ2房のバナナを飯台に置いて「さあ食べよう」と言ってドカッと座った。
当時バナナは高くて滅多に食べられないご馳走であった。
3人が黙々と食べ始めた。
「どうだ、彰ノ介、美味いだろ。もう一つ喰ってもいいぞ」
それは舌を溶かすような美味しさであった。僕はあっという間に2個食べて御飯に切り替えた。
3人での食事は幾カ月ぶりであろう。それはそれで嬉しいのであるが雰囲気はぎくしゃくしていた。僕はさっさと食事を終え、読みかけの本の続きを読むために大急ぎで布団の中にもぐりこんでうつぶせになった。
僕が一緒だとやりづらいだろうという配慮もあった。僕は僕なりに神経を使っているのである。
聞き耳立てて様子を伺っていたがどうやらお金の話ばかりであった。静かに話し合っていた。
僕は安心して本を閉じ、眠りに就いた。

僕は5年生になった。級長とか学校委員に祭り上げられて、それでもそれなりにクラスをまとめていた。5年生は1クラス40人位で7クラス位あったように記憶しているがこの記憶は自信がない。ただ僕にとっては大勢の仲間をそれなりに束ねていかなければならない立場であった。然し自身この事は嫌いではなかった。自己顕示欲、どうやらこの頃からこのような性格が垣間見えたようである。

クラスには暴れ者の不良が3人いた。腕っぷしがめっぽう強く真面目にやっている仲間の者たちに嫌がらせを言ったり持ち物を壊したり、皆困っていた。僕たちは彼等のことを「不良」呼び、出来るだけ取り合わないように難を避けていた。
ところが気の弱いある仲間がついに捕まった。その仲間の足に自分の足が絡まって転んだ。「不良」は怒った。
喧嘩の始まりである。この時の喧嘩は双方怪我もなくすぐに終わったが、その後も陰でいざこざが続いていた。
僕はとうとう堪忍袋の緒を切った。このまま放っておいたらクラスの団結が崩れる。
僕は彼に「1対1での決闘書」なる手紙を渡した。友人が「やるの」と聞くから「やる」と答えた。殴り合いの喧嘩は誰が考えても相手の方が強い。身体の大きさも顔つきも違う。この件は先生も知っていたようだったが知らぬ顔であった。「喧嘩するなら皆の前で堂々とやれ」主義の先生であった。
十数人が取り囲む中で互いに声をかけ合い殴り合い倒し合いの喧嘩が始まった。双方の服は土にまみれてどろどろである。僕は必死であった。明らかに押されていることは分ったが決して参ったとは言わず、鼻血で顔面を真っ赤に染めながら戦った。決闘であるから誰も手を出さない。遂に先生が現れた。誰かが知らせたのであろう。
「そこまでだ、止めろ」雷のような声が落ちた

思い出の道(18)

2019-01-22 15:04:33 | Weblog
月明かりの下でびゅんと風の吹く晩秋の道。
音のしないひどく静かな帰り道である。
カラン、カランと響く二人の足音だけが澄み渡った空気を裂く。
2人とも一言も発しない。
夫々が夫々に自分の置かれた立場とこれからのことを考えていたのであろうか。
それとも今の垣間見た現実を何度も何度も思い詰めていたのであろうか。
―――こんな家庭ってもう厭だ、と何度思ったことか。

父は反応しなかった。

4日目、学校から帰ってみると置手紙が置いてあって母はいなかった。
「しばらく留守にしますが、よろしく頼みます」と書いてあった。
宛先もなければ、いつまでの一言もない。
多分母は一寸働きに出たか、急な要件で止むを得ず出かけたものだろうと推測した。
僕は急に寂しくなってきた。さてどうしようかと考える。
父の帰りは恐らく夜中の2時か3時頃になるだろう。
朝は早く起きて御飯の準備もしなきゃいかんな、そうだ、父の分も要るな、などと考えながらとに角ご飯を炊く準備をし始めた。
僕は御飯も炊けるし、一通りのおかずも作れる。
胃を痛めて何もできなくなり丸くなって寝ている母代わりを何度も家事を務めた経験がある。
当面生活自体に困るようなことはないと思ったが1人ではやはり寂しくて怖い。

僕は母と父は一体どうなっているのであろうと少し真剣に考えるようになった。
母が居なくなって2日の日曜日、急に父が「うどんでも食べるか」と言い出した。
其処のうどん屋にはこの間見かけた割烹の女性が居た。
「我が息子だよ」と紹介されたが僕は何の挨拶もしなかった。余りの仏頂面に相手の女性もあっけにとられて「あ、そうね」と言ったきり押し黙った。
父は罰の悪そうな顔付で、それでも3人音を立ててうどんをすすった。

母が帰って来た日、父は久しぶりに8時ごろ帰宅した。

思い出の道(17)

2019-01-15 15:53:51 | Weblog
11時と言われても眠ってすぐのことである。僕はその時間が来るまで眠らないことにした。
今、僕は夕食を終えて後片づけを手伝ったのちすぐに布団の中にもぐりこみ、うつぶせになって本を読むのを唯一の楽しみにしていた。偶然友達から借りた雑誌や貸本屋さんから借りた本が面白くて毎日9時ごろまでこれを読んで眠くなったら眠る習慣になったていた。

兄は三重県の大学、父とは滅多に言葉を交わさない今、事実上母との二人暮らしみたいなものだ。静かな毎日であるが夫々が夫々の家事や仕事を受け持って何とか生活は成り立っていた。ただ、兄への送金が大きな負担になっていることは母の表情から読み取れる。母からの頼みごとに否やのあろう筈はないのであった。
僕は母に声を掛けられる前にはもう本を閉じ、何時でも起きる心の準備が出来ていた。何処へ、何しにまでは分っていない。母も言わなければ僕も聞きもしないのである。
30分近く歩いていると向うの方に「割烹」と書いた看板がぶら下がっているのが見えてきた。「あそこだな、あそこに父が居るのだな」と僕は直感する。
「あの中にお父さんがいるはずです。連れて帰ってきてください。私が行けば問題がこじれます」と母は悲しそうな顔して言う。
僕は黙ってその飲み屋の玄関を開けた。
父とそこの中年の女性が差し向かいで話し込んでいるところであった。
中年の女性はびっくりしような顔付をし、殆ど同時に父が振り向いた。
僕と目が合った。
「おお彰ノ介か、ま、此処に座れ」
父はおでんを1皿注文し「食べて御覧」と言う。
僕は恐る恐る1切れのこんにゃくを端の方から少しずつ口に入れた。
それにしても何という薄暗く気持ちの悪いところだろうと思った。早く逃げ帰りたかった。
僕はあの時のぞっとするような雰囲気を今でも覚えている。子供にとって妖怪の出そうな雰囲気のものであった。
「お母さんが待っているよ、早く帰って」
やっとそれだけ伝えて僕は外に飛び出した。母は木陰に身を寄せて幽霊のように立っていた。
「有難う」
母は一言言って帰路についた。これが父を取り戻す母の最善の策であろうことは僕にもようやく分った。しかしあの雰囲気はただ事ではない。2度と行きたくないなと思った記憶がまだ新しい。恐らくお金はあそこに全部つぎ込んでいると想像できた。
然し未だに当時の父を憎んでいないのが不思議といえば不思議である。その根源は何れ文脈の中で理解できるだろうと思いながら書き綴っている。

思い出の道(16)

2019-01-12 10:05:54 | Weblog
その日、授業が終わって雁首揃って校長室でこんこんと説教を受けた。
「他人が懸命に育て上げたものを勝手に取るなんてことは盗人である。取った柿を玄関に並べたことについては情状酌量の余地があるとはいえ夜中に断りもなしのこの行為は泥棒である」
ビシビシと追及され、さすがに足が震えた。
さほどに悪い事とは認識せずにやったことではあるが。大変なことをしてしまったと後で気がついた。
その日の晩、仲間たちとその家へ謝りに行った。
「やったのは君たちか。それにしても大胆なことをしたものだ。然しいたずらの枠を超えているぞ。悪にならないように勉学に励んで下さい」
お爺さんは怒った表情で、目が笑っていた。僕らはほっとした心地で帰ろうとしたら「持って行きなさい」と言われ、柿を2個ずつ手新聞紙に包んだ。僕らは深々と頭を下げて帰った。以来そのお爺さんとは逢う度に挨拶を交わし、励まされたものである。

その頃、我が家は少しづつ暗雲が立ち込め始めていた。僕はかなり前からそのことを察していたが何も聞かず、何も言わず、しかし家の中は何となく厭な気分が立ち込めていて面白くなかった。経済的にかなり追い詰められてきていたようである。
「せめてお父さんが多少なりともお金を入れてくれたらねえ」と母の愚痴を初めて聞いた時、父に何かが起こっていると察したことを覚えている。然しそ以上のことは聞かず、母の命に従って黙々と家事を手伝った。
畑の仕事量が格段に増え、作った野菜を売り歩くだけの仕事であった僕の仕事はもう1人前の百姓の子倅である。更に朝4時半に起きて新聞配達をやり家計を助けた。
兄が大学を卒業するまであと2年である。
今にして思えば母は鬼のような形相で頑張っていたのであろうと察する。
産休などが出たとき臨時教員として歩いて1時間、高知港の近くの「みませ」というところまで時々働きに出たりしていた。その間の野良仕事や家事は僕が学校から帰って来てからの仕事である。
僕は友達と遊ぶ時間がなくなっていた。遊ぶ時間は専ら学校である。ひょうきん者の僕は皆を笑わせるのが得意で常に目立ちたがり、あの「柿の事件など忘れたかのように腕白ぶり発揮していたようである。

急に母が妙なことを言いだした。
「今日から2,3日夜中の11時ごろ起こすからね。私と一緒にお父さんを迎えに行ってちょうだい」
このところ父の帰りがぐんと遅くなっていた。明け方になることもあった。いつも酔っ払っていた。当時僕はまともに父と話した記憶はない。
何かあるな、と直感したが、未だその時は何もわからぬ小童であった。

思い出の道(15)

2019-01-04 13:43:41 | Weblog
その頃、小学生の生徒が5,6人のグループを作って「火の用心」、つまり火災の安全運動をやっていた。もう3年にもなろうか、3年生から5年生までの子供らが拍子木を持ち寄って集まり、「火の用心、火の用心」と大声を出しながら約30分ほど近所を回り、呼びかけるのである。空襲の恐怖もやっと終わり、戦後の所謂平和への象徴の一環として「火災撲滅」を子供たちに託して平穏を祈ったのであろう。
僕らはそれはむしろ楽しみの一つであった。日が暮れてからの外での団体行動である。蛍を追いかけ、走り競争したり、「缶蹴り」を楽しみながら家から離れて自由の気分であったからである。
ある日、リーダー格になった僕は「今度あそこで忍者ごっこしようか」と持ち掛けた。
学校の北側の塀を挟んで大きな家がある。その塀沿いに大きな木が3本見事な枝を張って伸びている。あそこなら暗くて誰にも見つからないだろうし、ロープでつないだりしながら枝から枝へと飛び移ったり色んな遊びができる。それにあそこの家はお爺さんとお婆さんの2人暮らしである。よもや気づかれる心配もないと思った。
「どうだい、明後日の晩呼びかけ当番が終わったら2,30分やってみようか」
皆はすぐに賛同した。
その日の晩、皆それぞれに縄やロープを手にもって集まった。
ひとつの枝にそれを括り付け振り子のように忍者の真似事をしてそれなりに遊びは始まった。
ふと見ると柿の木が目に入った。背に低い柿の木で目に入らなかったのだ。
「あの柿を取ろうか」
僕は早速提案した。取って食べるつもりなどさらさら考えていない。小枝の先にある柿をどうやってとるか、それを楽しもうとしたのである。
「泥棒は厭だよ」誰かが言った。
「そんなことするものか、あそこはねお爺さんとお婆さんの2人暮らしだよ。取ってあげるんだ、きっと喜ばれるぜ」
「そうか、それならいいや」ということになって全部の柿を無事に取り終えてその柿を玄関にきれいに並べて帰った。

あくる日学校に行っていつもの「お早うございます」の挨拶が終わって先生から話があった。
「このクラスにはそんな生徒はいないでしょうが、昨夜のうちにこの学校の近くの家の庭に実っていた柿が全部取られていたそうです。苦情が入っております。もし係わった人が居るなら手を挙げて下さい」
僕はびっくりして真っ先に手を挙げた。

思い出の道(14)

2018-12-22 15:05:13 | Weblog
4年生になったころから僕はガキ大将の片鱗を見せ始め、クラスの中ではひょうきん者の「彰ノ介」言われるようになった。これは僕自身がそのDNAを先祖の誰かに頂いたものではないかと思っている。兄もそのような傾向があったようで、大学祭の時漫才をやって喝采を浴びたという話を聞いている。
最早覚えているものなど居ないと思うが、音楽の授業の中であっと驚くようなハプニングがあった。先生には叱られ、クラスの大勢の仲間から指さし笑われしばらくは話のネタになった。

その日、先生は3拍子の拍子の取り方についてトライアングルという楽器を使って教え始めた。先生は3拍子の音楽をピアノで弾いている。それに合わせてツン、タ、タと打つのである。前端に腰掛けている2,3人の生徒に順に教え始めた。2,3回練習して上手にできるようになった。僕はその時、友とふざけ合ってその光景を全く見ておらず聞いてもいなかった。
「岡野さん、じゃあ一寸やってごらん」
急な名指しである。僕が授業に全然実が入っていないことを見ていたのだろう。
突然呼ばれて僕はどぎまぎした。一瞬どうしようかと考えた。
「さあピアノに合わせて拍子をとって下さい」と言う。
この曲は勿論みんな知っている優しい曲である。僕は存分に僕のイメージ通りの拍子をとり、どうだと言わんばかりの顔をして続けた。
余りのチンプンカンの拍子の取り方に仲間の生徒が笑い出した。そして一気にドット来た。
「岡野さん、あなた何やってるんですか、拍子になっていませんよ。先生の言う事、何も聞いていなかったのですね」
それは認める。が、どうして判で押したようにツン、タ、タ、でやらなければならないのかそのことがこの授業が終わるまで疑問で、起立させられて授業が終わるまで先生の顔を睨み付けていたことを思い出す。
一般の、普通の音楽を聞いてごらん。3拍子の音楽にいつも同じ調子でツン、タ、タ、は入ってはいないでしょう。もっと雄大で複雑な響きを奏でながら音楽は成り立っているじゃありませんか、と僕は言いたかったのである。タの代わりにタタと短く刻んでも良いのではという素朴な疑問である。ラジオから流れてくる音楽はそのように決まりきった拍子でなくむしろそれが目立たないように静かに複雑に音を奏でているように感じていたからである。その感性をそのまま授業にぶっつけたものだから、これはただでは済まされない。
起立したまま授業を受けていた僕に「あとで職員室に来なさい」と命じられた。
其処で又こっぴどくやられたことを鮮明に覚えている。
その後、しばらくは大人しくしていたが常に何かと騒がれる少年であったようである。

もう一つ、大きな事件を引き起こした。これは一時学校全体の問題になった。

思い出の道(13)

2018-12-13 09:53:19 | Weblog
こうして戦争の激震はこんな片田舎の果てにまでひたひたとその影を落としているのであった。が、小学校低学年の僕らにはそんな事には皆目気付いていない。
汚い身なりでイモ食っていてもみんながそうだからこんなものかと気にも留めないのである。
むしろ空襲警報や爆撃の恐怖などすっかり忘れてしまったかのように伸びやかに現状を受け入れているのであった。矢張り伸び盛りの子供である。
当時田舎にいたのも幸いしたと思う。
棲み処、食べ物、親兄弟の消息等悲痛な思いに明け暮れた都会はその数知れず、津波のように悲惨な人々の群であったろうと想像するからである。
此処新屋敷は静かである。規模が小さいから何とかやっていたのだろうと想像する。
それでも時々進駐軍の兵隊さんの見回りがあった。
「来たぞ、来たぞ」と言って皆に知らせ大切なものは取られないように隠したものである。米国軍人はこの辺一帯の地域を未開の土人村ぐらいにしか見ていなかったのであろう。
然し実際にずかずかと入り込んで火星人のような青い目で辺りを見回す姿は子供たちにとって怖かった。

2、3年もすると大分学校にも慣れてきた。
僕は授業が好きではなかった。遊びを楽しむために学校へ通っているようなものであった。
10分の休憩、60分の昼食の時間を知らせる鐘の音が鳴り始めるや否やどっと教室から生徒が飛び出して思い思いに仲間と遊んだものである。
1番の人気は高知の方言であろう「ドンマ」遊びである。
これは先頭のものが正面を向いて立ち、その太ももの間に頭を突っ込んで馬のような形を作りそれから次々と10人ぐらいが同じような格好をしてくねくねと蛇のような畝を作り、最後尾のものが立ち上がって飛び箱を跳び越す要領で連なった者の背中の上に跨ぐように乗るのである。飛距離を争いながらいかにうまく友の背に乗るかを競う遊びである。
失敗したものが馬になり崩れた馬も馬に戻る。
相当危険な遊びである。今だったら恐らくこんな遊びは許可されないであろう。
それからコマ回し鬼さん遊びである。金属の蓋を利用して左手にそれを持ち、右手で独楽を回してそれを上手に受け止め、独楽が回っている間に逃げる相手を捕まえるゲームである。勿論独楽が回転を止めたらそこでストップ。紐を巻き直して1からやり直しである。速さと正確さを競う単純なゲームであるがこれに熱中した。恐らくかなり流行した遊びではないかと思う。
数年前、孫の保育園でこのコマ回しの技を披露する機会に恵まれてやってはみたがへっぴり腰の恐る恐るで、それでも何とか成功した。拍手喝采であった。70年以上前のことがまだ出来るとは。やれやれであった。
それからビー玉遊びである。方言で「アナポコ」と言う。ビー玉が丁度入るぐらいの大きさの穴を5,6つ作り、順に入れていく遊びであるが相手のビー玉に直接ぶっつけて遠くに弾き、次の手を難しくさせる手練の技が楽しかった。勝てば相手からビー玉1個頂戴できる約束事になっていた。

思い出の道(12)

2018-12-05 09:59:01 | Weblog
3つ目はあの薬である。
錠剤であったか、粉末であったか全く覚えていないのであるがあの薬のことはきっと死ぬまで覚えている。腰を抜かすほどに驚いた事件であった。
「回虫が皆さんのお腹の中にたくさんいるかもしれません。それを退治するための薬です。必ず飲んで下さい。明日一人一人に確認しますからね。ズボラは許しませんよ」
先生はそんな恐ろしいことを言って脅し、全員がもれなく飲むように指導した。
僕は何をそんな馬鹿げたことを言ってるんだと殆ど耳を傾けず、友達とワイワイガヤガヤやりながら然し大切に持ち帰った。
母に話しても「そんな物知らないね、ただの虫下しじゃない」と言ってそっけない。
然し学校の先生からあれほどきつく言われた薬である。
僕は夕食後忘れずそれを飲んで寝た。

あくる朝、いつものようにトイレに入ってウンチした。何気なくのぞき込んだら大きなミミズのような長い虫がお尻からぶら下がっているにに気がついた。
何だこれは。これが先生の言っていたお腹の中の虫のことかと思った。このままではどうにもならないので思い切って紙でこの虫を掴んでお尻から引っ張り出した。虫はぬるぬると出て来た。ミミズ以上に長い。僕はびっくりして母を呼んだ。「こんな虫が出て来たよ」と大声で叫んだ。
「あら、凄いねえ」と言って母は淡々と家事を続けている。知っていたのであろうか。
もう厭だ、と思いながらもう一度お腹に力を入れて残りを出し切る。又1匹その虫は出て来た。今度は一発でずるっと出た。
こんな虫がお腹の中に2匹もいてよくぞお腹が痛くならなかったものだ。
予想外の出来事にどぎまぎしてぞっと背筋を冷たくしたあの光景は忘れようにも忘れられない。

学校へ行って早速友達に聞いて回った。数人の人が「僕も出たよ、大きな奴だね」と言う。
「何も出なかったよ」と言う人の方が多かったように記憶しているが、実際はどうであったろう。
僕は何だか恥ずかしくなってその話を言うのを止めた。あまり良くないものを食べている人だけに虫が棲み付いているかもしれないと思ったからである。

後で先生から話があって「この虫は人糞等を使って野菜などを育てているから虫の卵が身体に入ってくるのです」と言う。日本のような農耕民族は大昔から人糞などを使ってこのような寄生虫と共に暮らしてきたのであろうが、子供たちにとってはまさかお腹の中でこんな大きな虫に成長しているなんて思ってもいない。

我が家は正にそうである。野菜を植え付ける前に畝の真ん中をかなり深く穴を掘り、そこに人糞を流し込み枯れ草などを敷き詰めて生育の栄養源にしていたのである。この辺りでは何処の農家も皆そうしていた。

それにしても学校から強制的に薬を飲まされるなんて初めててのことであったのではないか。


思い出の道(11)

2018-11-29 16:20:16 | Weblog
僕は未だ小学校に入ったばかりである。
貧乏というものがどのようなものであるかを理解するには幼すぎる。
頭脳も知識も事の善悪すら判断できない程の未熟児童集団であったからである。
貧乏をある程度理解でき始めたのはこれから2年ぐらい経ってからである。
つまり友達との比較において、他との比較において自分はどうかという意識が芽生えて来てからのことである。一般的に誰だってそうであろう。
従ってこの頃の僕の記憶というものは殆ど学校内でのことに集約されている。
特に我が家の場合、何だかばらばらで、親子4人が揃って食事などのコミュニケイションが乏しく特段の事がなくずるずると低学年時代を過ごしてきたせいでもあろう。思い出そうとしても出ない。

一方学校というところは遊びに行くところぐらいにしか捉えていなかったもののとに角楽しいところであった。
入学して間もない頃、そこは沢山の同学年、先輩が居てそれまでに経験したことがないような面白い遊びを次次に経験し覚えていくことが何よりも面白い事であったようである。
当然厭な思い出もある。そうだ、嫌な思い出、忘れないうちにどうしても書き出しておかなければならないことが3つある。
1つはお昼の給食である。これはある日突然始まった。
全員が必ず全部食しなければならなかった。
これが僕らにとって我慢できない程「厭」なことであったのだ。
殆どの子供たちは今まで食したことの無い何とも言いようのない拙い食感に閉口したのである。慣れるまでに2週間ほどかかった。中には途中でこっそり吐き出す生徒もいた。僕は何とか頑張って食したがあの「臭み」は今でも忘れない。
コップ一杯のミルクと肝油2粒である。重要な栄養源とか称して先生がかなり詳しく説明したようであるが子供たちの口には全く合わない。児童はかなり厳しく監視されながらこれを食したものである。
特に肝油。これをかみ砕いた時に出る腐った油のようなものはみんな鼻をつまんで呑み込んだものである。日本では全くなじみのない代物であったから戸惑ったのも無理はない。
これらの物は恐らくアメリカからの温かい支援の栄養食品であったであろう。

2つ目は頭、首のあたりからDDTとか称する白い粉を全身に振りかけられたことである。これをかけて体に寄生している蚤やシラミ等の恐ろしい虫を退治してしまわないと大変危険な病気が発生すると先生は懸命に説明する。然し児童生徒は大変だ。ぎゃあぎゃあ言いながら首をすくめて皆逃げ回ったものである。爆撃で空気や水は汚れ、食べ物の少なくなっていく中で衛生状態を極度に心配したアメリカの必死の援助であったろう。もしも相手がもっと野蛮な国、例えば日本だったらここまで手厚く処置したであろうかと思う。相手がアメリカで良かったのである。そんなことを中学校に入った時綴っている。


思い出の道(10)

2018-11-22 10:36:41 | Weblog
終戦直後のことである。誰もかれも貧乏である。食べていくのが精一杯,必死の時代である。
「ここまで追い詰めた責任者は一体何者だろうね」とささやき合っていたおばさん達の
声が今でも耳に残っている。余程憤懣やり方ない大変な時期であったろうと想像する。
食べ物は殆どが配給制であった。
何でもアメリカでは家畜の餌に使っているとかのトウモロコシの粉などまでもが配給されて「これ美味しいね」と言ったら母がそのように説明してくれたことを覚えている。
焼け跡は畑に変わった。此処で芋や野菜を作り我が家の食料の足しにし、売って得るお金が生きていく資金にになることを知った始まりである。売るという役割が僕の日課になって行ったからである。竹で編んだざるにこぼれるようにいろんなものを入れて近所20件ぐらいを1軒1軒声を掛けて売り歩くのである。朝早くから母が収穫したものを学校に行く前に売り歩くのであるから新しいさにかけては何処の誰にも負けない。ましてや可愛い子供が大きなざるを持っての商売であるから売れるに違いないと踏んだ母の作戦はまんまと当たった。近所の人ばかりであるから顔見知りの人が多い。「頑張っているね」声を掛けられ、同級生に逢っても
元気を振りまいていた。

間もなくして僕は小高坂小学校に入学する。親が付き添って入学式を祝うなどという昨今の時代とは違って殆どの者は一人で学校に行き「式」を済ませたように記憶している。
起立して真面目に校長先生の話を聞いた記憶は全くない。
「廊下を走るな。喧嘩をするな。どうしても喧嘩したければ先生の前で堂々とやれ」位のことは記憶しているがそのほかの話は全く面白くなかったのであろう。記憶は空っぽである。
そんな状況であったから「式はどうだったかね」「こうだった」などの話の微塵もない。

ただこの時代、ひらがなを初めて習ってそれを家に持ち帰って母に見せ、何度も何度も練習したことははっきり覚えている。僕にとっては字を読む、字が書けるということが本当に真新しい出来事であり嬉しかったのである。

暫くして9歳年上の兄が再び旅立った。
その時は何が何やらさっぱり分らなかったが、想像するに又遠くに旅立ったようである。
広島から帰ってどのような過程で1中に編入し、卒業し、三重大学に入学したのかその頃の僕が知る筈もない。
学区制度が大きく変わる時代である。
調べれば分ることであろうが、今となっては所詮無関係であり詳細を詰める気はない。
ただ当時周りからは京都大学を目指せと言われていたようだが我が家は伝統的に農家である。農学部では三重の方が勝っていると判断して決めたとずっと後で聞かされた。

又一人っ子の時代に遭遇することになる。同時に腕白坊主の時代に入る。
一番の節目はやがて訪れるクラスでも1,2を争う貧乏家庭の誕生する前兆期に入った事であろう。