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縄文の道.鹿児島【知らされざる縄文農耕】縄文封印の謎その②

2022-12-02 | 縄文の道

鹿児島霧島市【上野原遺跡】

鹿児島県、霧島市に上野原遺跡という最大最古級の遺跡がある。

一万年前〜弥生時代、古墳時代、
そして江戸時代まで時代を超えた遺物が発掘された、言わばアカシック・タイムレコーダーの様な場所だ。

厳しい氷河期の後、私達の祖先は土器や漆塗りを発明し、食糧の備蓄や調理法の範囲を広げていた。

世界では『新石器時代』と呼ばれるが、日本では縄文時代という。

(約一万6000千年前〜2300年前)

青森県大平山遺跡で16500年前の世界最古の土器が発見されたが(欠片は中国が最古🙃)、

縄文人は石器だけでなく、早い段階から氷河期文化を抜け出し土器を使う生活をしていた。

縄文漆塗土器(※漆も日本が最古🙃)


南九州の縄文遺跡群は草創期〜早期にかけて、約1万年前〜6500年前の縄文遺跡が多い。旧石器時代4万年前からの遺跡も連続し、先月も馬毛島で4万年前の遺跡が発掘されたばかりだ。


《夫婦土器》

日本で初めてとなる7500年前の土器が完全な形で見つかった。

一つは円形、もう一つは方形の口をしていて並べて埋められていた。


上野原台地の祭祀場と思われるエリアの台地の中心に埋設され、それを囲む様に周囲には土器と土器片が埋められていた。

口の広い「鉢」だけでなく、首のある「壺」=水や醸した液体を保存する器も発見されている。

6500年前の早期になると、鬼界カルデラ海底火山の壊滅的な噴火があり暫く人が住めない時期がやってきた。

縄文早期・草創記(一万3千年~6000年前)は縄文遺跡は九州に多く、海底火山噴火後、

縄文中期は、(5000年前)
日本アルプスの火山周辺の高原が中心地帯となり、

縄文中期〜後期は(4000〜3000年前)
東北の十和田湖カルデラや岩木山火山周辺に遺跡が集中する様になり、

次第に東日本へ縄文の中心地が移っていった様子だが、

縄文晩期になると、

また九州に縄文文化が登場する。

😮それにしても何故、火山周辺を選ぶのか?

【種子島】

鹿児島県の東側・大隅半島の南にある種子島は

標高282mのゆるやかな台地の島で黒潮海流の中に位置し、鉄砲だけでなく

米伝来の地だ。白米を北端でウガヤフキアエズが、赤米を南端で玉依姫が撒いた伝承が残っている。(初代神武天皇の父母神)

赤米は、陸稲としても育てられる貴重なお米で、ジャパニカ米に近いという。

白米は、今の私達が食べている水稲で「ジャポニカ米」という。

興味深い事に、種子島では弥生式の土葬から、縄文人の特徴である抜歯の跡がある身長153㌢という低身長の遺骨が発見されたらしい。🤔

縄文晩期=2400前〜3000年前から弥生時代2300年〜にかけて
縄文人と弥生人の同化の時代があったと思われる。

種子島には、ともかく古い遺跡が多く密度が高い。


縄文時代より前の、35000年前の遺跡『立切遺跡』と『横峯遺跡』もあり

最古級の落とし穴(獣道に仕掛ける)
肉の燻製工房と石蒸し調理施設の跡も見つかった。

出土品も豊富なせいか中種子歴史民俗資料館では、

ナント😮

触っても良い👌黒曜石や土器片、石器がある

《縄文サラダバー》(上野原縄文の森)

ここから先は、「縄文農耕の謎」について

↓↓

長文ですが興味のある方はご覧ください。🙏✨

何故、縄文人は火山近くの高原に住むのかも

後で詳しく


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【消された一万年前の稲作の謎】

「縄文人は狩猟採集民・獣を獲り栗を拾って食べていた」

といった決まり文句のイメージが定着して久しい🤔

この半世紀、次々に新しい発見があったのにも関わらず、

相変わらず縄文人を狩猟採集民族と言うときの

【枕言葉】の様に使われている。

稲作どころか、農耕さえもなかったと信じてる方もまだ多いだろう、、🤔

種子島は9000年前(縄文時代早期)の遺跡が多く、三本松遺跡の土器からからは約一万年前の世界最古級のコクゾウムシが見つかっている。

画像CT

コクゾウムシは、別名「米食虫」と言い🌾米を主食とする虫で、稲作はそれまでコクゾウムシが発見された縄文晩期(2500年前)からという認識を覆す大発見だった。

古いと食材そのものは見つけ難く、こうした痕跡で見つけるしか手段がない。

しかし、何故かこのコクゾウムシは栗を食べていたことになっている😅

明確な根拠は、、ない。

謎だ。


【500匹のコクゾウムシの謎】

北海道で500匹のコクゾウムシを練り込んだ縄文土器が発見された。

《米を食べ繁殖するコクゾウムシさん》

素直に考えれば、
(コクゾウムシ=)米食虫が大量に発見されたという事は、
主食である米があったのだろうとなるが、やはり縄文の稲作はとことん否定され半世紀前の「栗拾い獲物捕り」説に寄せているせいか

『これは栗を食べたコクゾウムシで、栗を入れる土器を守るため呪術的な意味で土器にコクゾウムシ練り込んだ』

とされている。

😅まじか、


栗には『栗シギゾウムシ』というコクゾウムシの何倍もある大きい害虫がいて栗を主食としているので、栗を守る意味ならクリシギゾウムシを塗り込むべきと思うが、、😅

《栗を食べるクリシギゾウムシ》さん、、

は付け難い😅

幼虫はたまに甘栗で当たるとトラウマになる、、😭

米びつで出会うコクゾウムシより

栗を守るならまずこっちを封じ込めたい!!

ゼッタイこっちやろ〜😖

栗を守るならクリシギゾウムシを封じこめ

米を守るならコクゾウムシを封じこめだ。

そもそも、このゾウムシ業界のボス

クリシギゾウムシを、小さいコクゾウムシさんが駆逐して栗を主食としていたというのもマユ唾ものだ。

そして、、土器に塗り込んだのも呪術的な意味ではないかもしれない。

虫は死ぬと『死の匂い』といわれる脂肪酸の匂いを残し、触角があり嗅覚が非常に優れている虫達はゼッタイこの匂いに近づかなくなる。

この習性を活かし、米を入れる土器に米食虫の防虫用にコクゾウムシを塗り込んだのかもしれない🤔

何れにしろ、コクゾウムシも栗は食べるとしても

コクゾウムシの🌰栗主食説までは流石に

『獲物捕り・栗拾いのイメージどおりにしなければ』という

意識が強すぎの様に感じる。
😅

では、実際の

縄文農耕のイメージはどうなのか?


◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【縄文のシラス台地農耕】
縄文人は火山の周囲に祭った聖都を中心に住んでいた『火山の民』高原文化の民族だ。

(テフラ大地・シラス台地=火山灰の地)

『九州』鹿児島の桜島の上野原

『日本アルプス』八ヶ岳の諏訪盆地

『東北』岩木山、十和田・八甲田山など火山周辺の台地に中心集落を造り、
小中規模コロニーを各地へ展開していたと思われる。

諏訪では、世界最古の神殿といわれるトルコの古代遺跡「キョべクリ・テペ」の様に高地に聖都となる中心祭祀場を設け、連なる山々にも同じ標高に拠点を造ってトレイルを形成する。

生産と拡散は重要な位置づけで、その集達エリアは広範囲に及び、各地集落の総和により巨大な共同体を形成していた。

衛星的な各コロニーを回遊する男達は黒曜石、塩、食糧などを運び、黒曜石の流通は1000㌔圏に及ぶ広さを持っている。


縄文時代の稲作は、水稲でなく陸稲であり、粟稗キビなどの雑穀類と一緒に稲も撒かれて収穫される。

縄文晩期の水稲と違い、陸稲は雑穀類の中のひとつでしかなかった。

現代では、縄文土器と共に縄文時代の稲作も発見されている。

しかし、稲作=弥生時代と言いかえられるせいか?弥生時代がどんどん昔に伸びていってる気もしなくもない😅かつて2300年前と言われた弥生時代の始まりは、今は3000年前と言われているが、縄文後期・縄文晩期とも言われ明確な区分もないまま渾沌として、
「諸説あります」状態が続いてる。


縄文人は、狩猟だけでなく農業やパンを作ったり等いくつもの食源を効率良く管理していた食彩豊かな人々だった。

縄文時代の鋤・鍬など農具

縄文人たちが時代を超えて火山地帯の辺縁のシラス台地(火山灰土壌の台地)を中心に、集落を作っていたのは農耕目的の為と思われる。

火山土壌は粒子の大きな堆積物で水ハケがよく、粘土が必要な水稲には不向きだが、巨大な桜島ダイコンで知られる様に水ハケの良さと通気性を好む農作物には適している。

特に稲科の粟、ヒエ、キビ陸稲など縄文人が食べていた雑穀類などは湿気を嫌う為、水捌けの良い土地に適していてしかも年に二度も収穫てきる。

まさに五穀豊穣の地だった。

《火山灰台地の桜島ダイコン》

火山は

山の中腹より高いほど雨が降り、溶岩に吸水された地下水や湧水が豊富となり

山自体が天然の巨大貯水タンクで浄化槽のようなもので、

雨が頼りの(天水型)農業と違い、水源に困るという事がない。

山の斜面などでは、地下を流れる水だけで耕作が可能で、水撒きなどの手間も掛からない。 

噴火のデメリットはあるにせよ、平地の水稲栽培の日照り旱魃リスクに比べれば遙かにリスクが少なかったのではないだろうか。

水稲が主食の農耕民族に侵略される事がないと言うメリットもあったかもしれない、、🤔

調理場や🍪クッキーやパン状のものを練って焼いた跡も見つかっていて、上野原遺跡以外でも南九州では掃除山遺跡・栫ノ原遺跡などで1万年ほど前の調理施設が確認されている。

連穴土坑内からは狩猟獣であるシカ・イノシシに由来する残留脂肪酸が検出され、食料の保存加工のための燻製施設とみられ住居跡が桜島火山灰で埋まっていたことから、これらは約9500年前の縄文時代早期に存在していたことが確認された。貝塚など海の幸もあり

漁・農・猟とバランスのとれた食生活だった事が伺える。

人間は雑食性だが、本来私達の歯は草食でも肉食動物の歯でもなく

「果実食」動物の歯で、

分解酵素も機能もその方が負担なく消化される様になっていると言われている。

堅果類、種子や雑穀類などの消化に向いている歯だそうだ。

縄文人の食生活は肉も食べるが、バランス的にも理にかなってると思われ

もしかしたら縄文人が犬歯を抜く謎の習慣は、

単なる通過儀礼だけではなく

氷河期にマンモスばかり食べていた獲得形質を除く意味もあったのかもしれない🤔

(😅ちょっと飛躍しすぎでわ)


最後に、

15,000平方メートルの遺跡で暮らす彼らの胃袋を満たした、

漁・農・猟による食材を
実際に縄文土器に盛り付けしたメニューが、上野原縄文の森で展示されていたので紹介したい。

縄文の水差しと、

ベンガラや漆で着色された朱色は縄文ならではの粋だ。

貝とイノシシの縄文鍋 

縄文団子 縄文クッキー

まるで居酒屋メニューか
懐石料理のメニューの様😮、、

しかし、考えてみれば縄文人達が

普通に食べていた物だ、

マンモスで飢えをしのぐしか無かった氷河期時代ならいざしらず、

「とったどー 」等とよゐこの無人島生活の様なサバイバル生活で、
人類が一万年も生き延びられる訳が無い。😌そして、

一万年も、獣を獲って栗を拾い続けるなんてとっても退屈すぎる生活だ。

材質こそ鉄やプラスチックは無いけれど、子供に作ってあげた

おままごとセットやオモチャの意匠からも、

私達と同じ愛情が伝わってくる様だ。


ファニー❣️なご先祖さま✨

終わりに、、😌

なんとなく浮き彫りになってきた縄文間違えイメージをざっくりと振り返ると
、、😌☝️


①文明とは=農耕と定住であることが必須条件だが、イノシシを獲っていたという事だけで縄文は「狩猟民族」とされてしまった。

②狩猟民族は農耕と違い定住性が無いので=文明ではない=原始的な人々ととして弥生人の稲作文化より劣ってるという偏見が生まれた。

③後々の発見により、縄文の農耕は濃厚になったが「獲物を獲って栗を拾ってた」という定説を今さら変えることが出来ず、

④稲🌾を神聖視する日本人独特の信仰や国史観も相まって、
縄文農耕=特に稲作は徹底的に否定され続け

⑤ピラミッドより古い世界的にも貴重だと思われる遺跡群も、日本では全くパッとしない😔、、


⑥氷河期明け、16000年前〜6000年前の日本の縄文は当時のユーラシア大陸の遺跡文化とも共通することが見受けられる、世界的にも貴重な財産の様だ

⑦縄文は、農耕だけに頼らず、

漁・猟・農とバランスよく食糧を管理した民族で、

政治的な意味でも食糧バランスがよく

農耕民族の様に剰余生産による価値を生み、奪い合いや貧富の差、身分の階層性を生み出すこともなく

シェアリング能力に優れたサステイナブルな文化を持った人々だった。



約5000年前〜
中心地にストーンサークルを造りサークルを囲む様に住居や工房、集会場、納骨地を配する都市デザイン形が主流となり、

800年で800棟の住居が造られた跡も見つかっている。(定住性あるやん😅)


住居や集会場も3回は建直しがあったとみられ、定住性のあるサステイナブルな民族だが、千㌔圏という広い流通範囲の中で、千年スパンでの中心の移動が行なわれた。

点在する日本列島各地の遺跡を周り、

縄文とは文明の条件である=農耕や定住はなく『獲物を追い栗を拾って食べていた人々』という誤ったイメージは完全に払拭された。

あちこち周って見て良かった。


次は、スポットの紹介はせず

縄文人の『死生観』について綴ってみたい。

宗教観が発生する前の

宇宙の根源に繋がる様な生き方だ。✨

🌌
『アインシュタインの宇宙と縄文人』

興味のある方はご覧下さい👉👉



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