【コロナの時間】コロナ禍で「集団」よりも「個」を希求するようになると思う。

「個」がもっと重要視される時代に

今年もそろそろ終わろうとしています。
2020年の1月頃でしょうか。
中国で新型コロナウィルスが発生したとのニュースが流れ始めたのは…。
振り返ればこの1年、買い物以外、ほとんど「コロナ禍」の影響で外出していないし、植物イベントも相次いで中止。
そうなると、新型コロナウィルスの影響でこれからどうなるか、いわゆる「アフターコロナ」について考えてしまうのです。

で、考え至ったこと。
それは、「集団」から「個」への分解、自分と他人の身体感覚から得られる協調性(共感性)みたいなものが得られなくなるような気がするのです、これから。
これって園芸、もとい農業に大きくかかわることなので、アフターコロナには欠かせない思考の材料になるのではないでしょうか。

オンラインは基本、画面越し

コロナ禍において徹底的に叫ばれたのは、「密閉」「密集」「密接」のいわゆる「3密」を避けよ、ということ。
ひとつの空間に多くの人が集まって、それぞれの意見を述べあう「リアル」な場が問題であるということが示されたのです…。
触れられるほど、近いリアルな他者が、ことごとくオンラインで画面越しにコミュニケーションを図ることを推奨される。
ある種、密集することで成り立っていたコミュニティが半ば強制的に解散させられたといっても過言ではありません。
そのうえで、仕事や授業、はたまた「オンライン飲み会」と言われるような、これまでは「集う」ことに重きが置かれていた行為が、案外、オンライン上でも成り立つことが分かってきたのです。

重要なのはその行為には基本的に、スマホやパソコンなどのデバイスを用いた、画面での交流となるということ。
もっといえば、画面越し以上のものは相手に伝わらないということでもあります。
上半身はスーツを着ていても、もしかしたら下半身はパンツかスッポンポンということもあり得る。
人と人とが対面してコミュニケーションを図ってきたときとは考えられないくらい、「個」の持つ、プライベートな一面が保持され、そして重要視される

視点を変えればそれは、画面の向こう側は他人のプライべート空間であるし、自らもプライベートを差し出してオンラインに臨んでいる、ともいえます。
相手が自分をどのように見ているのか、画面越しで可視化される。
要するに自分がどう見られたいかのコントロールが今まで以上に容易になり、今まで以上に重要視されると僕は思うのです。
だからこそ、これからは「自分の見られ方」に対するリテラシーが必要とされ、それらに関わる産業や文化が発展するように思います。

ますますプライベートが尊重される

そのうえで、カメラの前で皆と同じ制服で授業を受けることや、体育の講義だからと指定のジャージに着替える…というのもナンセンスに感じる。
オンライン授業を受けている空間はそれ自体が個人のプライベートな「私」の空間であって、「公」のうえで必要とされる服装を着る→誰がみても高校生だと分かるべき服を着るべき必要性がない。
なぜなら、「公」の姿を電車に乗り合わせた人や商店街の人に知らしめる必要性がないのだから。

そう考えると、制服を着ることに必要なのは「公」という空間であるのにたいして、授業を受けることになるだろう空間は一般的には「私的」なものとなるはずです。
もし「私的」な空間を「公」の空間として定める必要性があるとするのなら、住居に「学業専用」「仕事専用」の部屋を設けなければならないということにもなりかねません。
オンライン化が進めば、カメラに写っても問題のない「オンライン専用の部屋」を用意するとか、そういう空間の需要も増えるのかなぁ?とも感じます。

生活のなかで過ごす空間は「私的(プライベート)」な空間が増えるのだから、そんな空間を大切にするのは至極当たり前なハナシ。
「公」で着用していた制服は基本、夏服・冬服の2パターンであるのに対し、「私」では多様
そのことを理解しないとオンラインの利便性や意味を削いでしまうことになりかねません。

いっぽうで、自分がこうだから相手がこうという、共通した身体感覚が得られにくくなるとも思います。
例えばマラソン。
目の前に走っている相手を抜かそうとしても、なかなか抜かせずに苦しい。
自分も苦しいけれど、きっと相手も苦しいだろう。
そんな自分の感覚と相手の感じ方を想像するリアルな機会が減るような気もするのです。
だからこそ、すべてがすべてオンライン化することはないと思うし、する必要はないと僕は思うのです。

意識の差が拡大する

で。
話をまとめると、「集団」よりも「個」へ。
「公」よりも「私」への価値観の重要性が高まるような気がしてならないのです。

平易な言葉で言い表せば、他人と同じことをする強制力が弱まりつつある
同調圧力をかけて他人との違いを是正する意味が見いだせなくなるように思うのです。
オンライン化の普及で各人が「分散」し、協調して同じ作業を同じ空間で行う必要性が薄らいできています。
同じものを着る、同じものを所有する、同じ動きを強制することに、特別な意味がなくなる。
すなわち、前提条件としての「他人と自分は違う人間だ」という意識が、オンラインでの生活を享受する層に形成され、その意識感覚のズレがそうでない人(リアルを重視しる人)とのあいだに拡大していくのだろうと…。

簡単にいえば、身体的な共感は減り、精神的な共感は増加する。
ゆえに肉体的な共感を求める行動が、未来を生きる若者には通じなくなる。
野球の練習後、合宿所でみなで食べたカレーの味も、分からなくなるのです。

生産すべき商品も然りで、ますます価値観が多様化する

デバイスを通じてパーソナリティが誘導される

なぜ、園芸の品種が多様化しているのか、その一因を捉えられていますか?
僕も「ネットの技術が発達したから」とか「SNSで流布する速度が速まったから」と考えていましたが、実は答えはもっとシンプル。
それは、デバイスによって「個」が形成されるから。
いまや、ひとりひとりが個別に所持するスマートフォンなどの端末によって、個別な広告宣伝がされるようになっています。
たとえば検索した内容によって、その人の年齢や性別など、あらゆる個人情報を統計的に予測して、その人に適した広告を表示する…という「パーソナライズド広告」というものが一般化しています。
そんな個人情報に補足されたデバイスに、個人個人にマッチした、ちょうどいい広告が舞い込んでくる。
はたまた、検索結果に適合した、ちょうどいい商品が目に飛び込んでくるようになるのです。

結果、個人という枠が変容すればするほど、あらゆる情報に触れれば触れるほど、商品の多様性が拡大していく。
「私」をカスタマイズする選択肢が拡大するのです。
拡大するがゆえに、同じものを大量に生産する時代は終わりに近づいていると考えています。
ゆくゆくは多くのラインナップを大量につくることが必要となる
大きな工場で同じものを大量につくる、のではなく、大きな工場で多様なものをたくさんつくることが求められる。
人と同じものを所持することにたいした意味がなくなる(というより、同じものを売る販路が無くなる)ので、それぞれの身体や価値観に適合する商品をつくることが求められる

よって、あらゆるオンライン化が極まれば極まるほど、デバイスを利用する頻度も増え、パーソナリティの属性も拡大されていくのです。

小学生のドリルをみて驚いたこと

ここで閑話休題。
先日、職場にやってきた従業員のお孫さんの「国語ドリル」を拝見しました。
驚いたのはそのドリルの問題には「答え」がないのです。
いや、答えがないというのではなく、どんな答えを選んでも良いという設問だったのです。

木の上には鳥がいて、茂みの中にはライオンがいる。
遠くにはキリンが顔を覗かせ、池の中にはカバがいる…。
森の中には多数の動物が存在して、そのうちのどれかひとつの名前を書けば、「正解」というものでした[*01]。
自分が見つけやすい動物を選べば良いし、もっとじっくり探さないと見つからない動物を選ぶのも良し。
そんな、自分なりの答えを見つける能力を、いまの小中学生は培おうとしていると、素直に驚きました。

けれど僕らはすべてには「答え」があるものとして教育を受けてきました
もっといえば、その「答え」に従わない者は「協調性がない」とか「そんな問題も分からない非常識めが」と陥れられてきたのです。
だからこそ、自分なりに考えて、自分なりの答えを出すことが非常に困難。
苦手。
答えに沿って、空気を読みながら、答えに「忖度」する形での理解は得意なのですが…。
でもそれって、ただの模範解答の詰め込みだから、模範解答以上の解答へ「正解」が広がらない
思考を飛躍させることができないのです。

「正解」はひとつじゃないという意味

そう考えると今の子供たちと僕らでは、根底から答えの導き出し方が違うといこと。
「正解」が多様なのだから、多くの可能性を考慮する訓練をしているのであって、柔軟な思考が育てられる。
もっといえば、無数にある「正解」を選択する能力が問われる
ゆえに個人の考えが強烈に判断に関わってくるし、自己の基盤がしっかり確立していないと判断に迷いが生じる。
つまり、僕らの世代よりも自らの価値観に強く太い芯があって、その強い芯に従って判断するので良いものは良い、ダメなものはダメと明確になる。
だからこそ、選択肢を多様にしておかなければ選ばなれない
もう少しフレキシブルな思考に慣れておかないと、これから来る世代の思考に追いついて行けない。
コロナ禍以前に「正解」への導き方の過程に変容が起きていることを知り、僕らオトナは認識を改める必要があることを、このとき強く思ったのです。

結論

話を戻すと、そんな子たちへはきっと、「個」への親和性が高いはず。
自分なりの正解を導き出す訓練を幼少期からしているので、答えはひとつと叩き込まされた世代よりも「自分なり」という意識は強く持っているはずです。
だからこそ。
農業という業種ももっとフレキシブルな働き方を志向したほうが良い
とくに園芸業界は、嗜好品という「個」の属性が強い商品群を取り扱うために、もっと「個」とか「オリジナリティ」への理解を進めたほうが良い
というより、進めないと「AIのチョイス」という前提条件に乗れない可能性もある。
でないと、わざわざ広告表示をしてまで売る必要もない、そこらへんの畑で作る「きゅうり」や「ミニトマト」のような扱いを受けてしまう。
コモディティ化し過ぎて、差別化しようにもできないまでに商品価値が落ちてしまう。

結論。
「人材」も「労働」も「商品」も限りなく「個」を希求するようになり、「公」よりも「私」を尊重するようになる。

  1. ディティールはこんな感じ。正確にはどこにどんな動物がいたのか覚えていません []

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。