秘境・上海情報 

上海の歴史、租界 戦跡巡り 只今日本に滞在中

四川北路 内山書店が生まれ変わりました。

上海虹口・四川北路は私のホームグランド・帰ってきました!この地区は戦時中に共同租界があり(通称・日本人租界)最多で十万人の日本人が住んでいました。道しるべにはその歴史を物語る、日本人の歩みを象徴する虹口公園(魯迅公園)があり、1930年代魯迅を中心に繰り広げられた交流の地・日中文化人ゆかりの多論路街や上海事変の激戦地の閘北・東宝興路が点在している。時代を駆け巡る。時計屋のおじさんが「久しぶり、俺だよ」ってマスクをずらし顔を見せてくれた。5年ぶり、まだ私を覚えてくれる人がこの街にはいる。四川北路の北のつきあたりはかつて四川路底といわれていました。多くの日本人が暮らし、租界と中国側の華界が入り込んだ複雑な地、その地の利を活かし革命家のアジトが点在した。混沌を極めた時代にこの地に店を構え日中文化交流の窓口といわれた内山書店 現在の様子をお伝えします。 先ずは内山書店の店主・内山完造の紹介をします、1885年岡山県後月郡芳井村出身です。1913年キリスト教徒の彼は牧師の紹介で大学目薬の海外出張員となり上海へ渡航したのが上海生活の第一歩、1916年 ( 大正 5)31歳の年に日本で 井上美喜 (24歳 ) と結婚。同年上海呉淞路義豊里に間借りの新居を構える。北四川路魏盛里に移転 自宅玄関先を利用し妻の美喜子名義で小さな本屋を開く、日本から送ってもらった聖書や讃美歌集などキリスト関係の書籍100冊を並べた。これが内山書店の始まりでした。後に書店を広げ一般書の取次、円本ブームにより業務が拡大し、中国における日本文化や西洋文化の伝播の役割を果たしました。1927年に広東の中山大学で文学を教えていた魯迅が国民党政府の弾圧により広州脱出、上海に移ってきた。内山書店に書籍を求め立ち寄り、以後完造と魯迅は深い絆、友情で強固な関係築く。1929年内山書店は北四川路底に進出友好の架け橋 内山完造は1923年に中国の文化人、日本の作家、ジャーナリストや画家など交流の場『文芸漫談会』を設け日中両国知識人交流の窓口となった。魯迅も常連となっていきました。漫談会は機関誌・萬華鏡を発行(いつから発行されていたのか不明)この写真の年1930年(昭和5年)4月に発行された一冊だけが現存し東京神保町の内山書店に保管されているそうです。悪化しつつある日中関係、上海での国民党の左派弾圧も日増しに強くなり、若手作家が逮捕、処刑された。作家連合の代表となった魯迅に危機が迫ったとき、内山は惜しみなく協力し庇護した。魯迅は亡くなるまでの10年間で内山書店を500回以上訪れて購入した書籍は1000冊を超えました。その一冊、一冊の書籍名を日記に残しています。それは哲学書から洋書、日本の浮世絵や画集まで多様多彩な文学に触れ、彼の思想、哲学にどれほどの影響を与えたかが想像できます。内山書店との出会いは第二の日本留学に匹敵するほど大きな価値があったのではないでしょうか・・・内山書店で育んだ日本人と中国人の友好は暗い時代にひとすじの光をさし今も語り継がれています・・・四川北路2048号の内山書店の旧跡は「1927・魯迅内山記念書局」としてリニューアルし、たくさんの学生たちで賑わっていました。あの時代 内山完造氏が目指した日中の交流の架け橋、文学から新たな英知を創生し、次の世代へ継承していく 魯迅と内山完造の思いが現実となりつつある。抗日宣言が発表された1935年 混乱を極めた世相の中で、上海に来て20年を過ぎた内山完造氏は、中国の風土 中国人の心に触れ、みたままの支那の姿を描いた処女出版『生ける支那の姿』を刊行。魯迅が序文を付しました。1936年 魯迅死去 自宅で病床についていた魯迅は死の直前、内山に医者を手配してくれるように手紙を書き妻に渡した。これが魯迅の絶筆となる。医者が駆けつけたが及ばず 魯迅55歳にて持病の喘息で生涯を閉じる。宋慶齢、蔡元培、スメドレーらとともに内山完造も葬儀委員に選ばれ、埋葬式で追悼演説を行なった。翌年1937年に第二次上海事変が勃発、戦闘は拡大し日中全面戦争に発展した。1945年日本は敗戦 内山書店の二万冊あまりの書籍は国民政府に没収され、永住を願った内山完造は1947年に「国民政府転覆団」というありもしない汚名を着せられ強制送還される一軒の書店が数々の歴史的ドラマを生みだした・・内山完造は帰国後日本各地を廻り中国との友好を熱く語り続けた。1950年日中友好協会を結成し理事長になった。1959年地方巡回講演の激務がたたり病に伏す、病気療養のため中国人民対外文化協会の招きで訪中したが、9月20日に脳溢血のため北京協和病院で死去 最後の一枚となるこの写真、彼が微笑んでいるように私には見える、死を覚悟をしていたのではないかと・・人生を駆け抜けた中国でその波乱に満ちた一生を閉じました。 今は上海の宋慶齢陵園の一角に静かに眠っています 同22日北京で追悼式が行われ彼の死を悼んだ。11月には東京の日比谷公会堂で、日中友好協会主催の日中友好葬行なわれる。翌年9月に自伝『花甲録』が刊行されました。改革開放後に跡地が上海市文物保護単位に指定され、名もなき日中の有志たちが魯迅と内山の友情の歴史の保存に努め、陳列室を開設するなど中国工商銀行が惜しみない協力で後押しした。そして入念な修復と拡張を経て当時の面影を色濃く残し今に至る。決して砕かれないその強い絆、両国の歴史を刻んだ書店内の内部は3階構造に拡張され喫茶スペースや自習スペース、臨時展示など様々な催しが開かれている。四川北路の突き当りにある過去の記憶と繋がる未来・・生まれ変わった内山書店は今も日中両国の民間友好のシンボルであり続けています。


上海を歩くと近代史が見える・・・次回も日本人街、旧正月間近の虹口地区から お楽しみに!