最多期で十万人に達した上海日本人街 虹口租界のことをたくさん調べ歩いて、友達もいっぱいできましたが、再開発の立ち退きで知り合いも減り寂しくなりました。私が頻繁に訪れたのは魔都の歴史がつまった提籃橋 戦中に日本租界無国籍難民限定地区(上海ゲットー)に指定されナチスから逃れてきたユダヤ人が居住した街です。上海ユダヤ難民紀念館(摩西会堂)には当時の記録、写真や資料などが展示されています。長陽路62号。
西洋から二万人以上が押し寄せ異国情緒が溢れたユダヤ人街も 戦争が終わりユダヤ人は次第に他国に移住していきました。その後に中国各地からたくさんの人がこの街に住んで賑やかな場所でしたが、立ち退きが進み静まりかえっていました
船山路59号 1977年1月から1979年8月までアメリカ合衆国財務長官を務めたマイケル・ブルーメンソールがナチスの迫害を逃れるためにソビエトを経由し1939年に上海にたどり着き1947年まで住んだ家です。
これは以前、訪ねたときの写真です。そこに私の友人が住んでいました。
一階は洋服お直しやさん、二階に上がると天井が高い立派な居間や寝室がありました。
外国人ツアーが頻繁に彼女の家を見学に来ていました。今は区画一帯が再開発に指定され彼女は実家に帰ると連絡があり退去済み、小路は静まり返り誰もいませんでした。
百老匯大戯院 米オデオンの投資で1928年建造 1930年に劇場が開業 霍山路57号
夏には屋上のロイ・ルーフガーデンレストランをユダヤ難民に開放し、真夏の憩いの場として提供していました。
霍山公園 第二次世界大戦期間中ユダヤ人難民居住区の記念碑があります。
2013年 中国訪問中のイスラエルのネタニヤフ氏は上海ユダヤ難民記念館内で行われた、ユダヤ難民が開いた大西洋咖啡館(CAFE ATLANTIC 1940年開店)が復元された記念式典に出席している。また同胞のユダヤ人に避難所を提供してくれた上海市に『不会忘記』忘れませんといい感謝を示しました。
リトル・ウィーン 無国籍難民収容地区といえども通りにはドイツの店の看板やオーストリア風のオープンカフェが並びリトル・ウィーンと呼ばれ華やかな賑わいを見せました。1939年にユダヤ人の奥さんが開店させた白馬珈琲館はコーヒーの他に自国の軽食なども提供して繁盛していました。復元され現在はカフェとして営業しています。長陽路67号
混沌を極めた時代 迫害を受けてたどり着いた。だが今も世界は新たな難民をつくり続けている・・・
1933年に仏反戦活動家の呼びかけで遠東反戦大会が行われた家もユダヤ人街にあります。宋家の三姉妹 次女の宋慶齢が大会主席に選出されました。以前訪ねた時は大勢の人が住んでいましたが全員引越済みです。登記不可移動文物なので改装し後世に残すのでしょう。 霍山路102号
近代史が蘇る あの家々で 出会ったひとたちはどこへいったのでしょう・・
租界時代は麦豊里・マグノリア・テラスと呼ばれた集合住宅 戦中大半が日本人の住居になりました。また中国左翼の創造出版部の活動拠点もありました。金子光晴著『どくろ杯』にここで起きたエピソードが書かれている、秩序と無秩序が交差した時代を感じる・・以前は何度も訪ねて知り合いが住んでいましたが、もう中にも入れません。
隣にはヘレンテラス・赫林里と呼ばれた建物が残っています。このふたつは北四川路で欧米の不動産開発業者が開発した最初の集合住宅です。
老朽化した歴史遺産を古い家屋をカフェ街として蘇らせる都市計画が遂行されることになりました。
虹口新天地へ 変わる町並み、
四川北路 あの時、日本の商店が軒を連ね、日本租界のコミニュティーが時を刻んだ虹口(ホンキュウ)・・ 新天地を目指すのだろうか。
街の再開発は、私にとって友人と会えなくなり、耐え難い寂しさが溢れました。
その時 とっても親切に話しかけてくれたガードマンさん、心がぽっと温かくなりました。やっぱり人情味のある虹口はいいなぁ~ 謝謝你的笑容 笑顔をありがとう・・
さよなら私の友達、後半編へ続きます。
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