一橋大学 小林一久 | 金メダリストを育てたコーチが教える夢のかなえ方

金メダリストを育てたコーチが教える夢のかなえ方

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明治初期の体育 39 明治初期の体育 (1) 一生理学的体育観の確立一 小 林 一 久

 

明治初期の体育  39 明治初期の体育 (1) 一生理学的体育観の確立一 小 林 一 久 

まえがき  明治19年4月初代文相森有礼によって帝国大学令につづいて学校 種別の諸法令が公布され(小学校令,中学校令,師範学校令),学校 制度は面目を一一新する・体育についてみると,兵式体操が大きな位置 を占め,兵式・普通の2本立てとなって後の学校体育の原型が作られ たとみなされる.兵式体操は師範教育の中核に据えられ,その訓育的 意義が重要視されることになる・そこではじめて,体操が教育的要件 として取りあげられるのである.  本稿ではその教育的要件が何を意味するかは問わない。それに至る までの過程を,主として普通体操の側から見ていくのがねらいであ る, 1・r学制」時代の体育  まずr学制」の時代の体育の実態からみていくことにする,  明治新政府がとった諸施策のひとつとして近代的な学校制度の確立 と・それによって,近代統一国家としての出発にふさわしい新しい人 材の養成が急がれたことは言うまでもない.明治5年8月のr学制」 は欧米(特に仏・米)に範を求め雄大な構想をもって領布されてい る1)・欧米の学問を教育の内容として全面的に取り入れながら,その 根底には実学主義の理念が横たわっている2)。極めて実際的な教育の 効果がうたわれているわけであるが,こうした考えは,体育を問題に する際にも,それを受け入れる基盤としては好都合であったと言える であろう。なぜなら体育が直接には,’日常的・現実的な身体にかかわ るものだからである.  40  一橋大学研究年報 自然科学研究10  「学制」の教科の規定のなかには下等小学(6-9歳)上等小学(10 -13歳)とも「養生法講義」「体術」が含まれている3). (1)初等教育における体操  r学制」の学校制度史的な最も大きな特色は,小学校6年の就学義 務を定めたことであろう.第21章でつぎのように言う、「小学校ハ教 育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス」4)・ また,「当今着手ノ順序」として第1に「厚クカヲ小学校二可用事」5) として学校教育の「初階」としての小学校は極めて重んじられている。 これを,徴兵制度の制定による国民皆兵主義の実現の方向と結びつく なかで,「富国強兵」「殖産興業」の推進力としての人民への期待が寄 せられていると解すべきであろう.  ところで小学校の体操を制度史的に見ると,明治5年9月8日,文 部省布達番外「小学教則」には,「学制」の規定にもかかわらず何も ふれられておらず6),同年11月の「小学教則概表」も同様何も述べ ていない7).  はじめてやや具体的な内容が明らかにされるのは明治6年5月19 日の「改正小学教則」においてである.その教則末尾・伯書にはつぎ のように記している.  r毎級体操ヲ置ク体操ハー日一二時ヲ以テ足レリトス樹中体操法図 東京師範学校板体操図等ノ書ニテナスヘシ」8)。  謝中体操法図は明治5年6月,D.Sc五reberの“Arztliche Zimmer- Gymnastik”1855.の附図の翻訳として南校より出されたものであ る9),その内容は徒手体操が大部分を占め,2,3の手具体操が含まれ ている.この体操の依拠する立場はシュレーバーの書名が示すように 医学的・保健的であり,そういう意味では後に述べる生理学的体育観 の確立の一助ともなったと思われる10〉。  また,東京師範学校板体操図はアメリカのメースンの“Manual of gymnastic exe「cises,for school a且d{amilies”1871年。の挿絵 をまとめたものといわれている11).  なお当時の書物として見落せないものにベルギュ著石橋好一訳の 明治初期の体育  41 r体操書」がある12).上に並ぺたように図解程度のものに頼っていた 状況のなかで,ともかく学校向けの指導書が出たことは画期的であっ たと言えよう.一部では徐々に,「体操図」から「体操書」への移行 がみられるようである13).  その内容を概括すれば,秩序運動,徒手体操,手具体操,跳躍,器 械運動,教練等であるが,例えばつぎのような目的の記述や方法的配 慮も加えられている。  r体操の目的は筋経を伸し其他諸機関をして次第に強くせしめ又こ れを柔軟ならしむる為のものにして此目的を達成するは生徒の備ふる。 力量に応ぜる器械を用いて適宣の運動を行はしむるなり,若し生徒の 力量と其為すべき業との規合を得せしむることに著意せざるときはそ の達せんとする目的と全く相反し且力量を暢発せずして却って体の疲 労を生ずるに至るぺし」14)・したがって9歳から11歳までの生徒は1 キログラム以上の「ハルテール」を用いるのは不可としている,  しかしいずれにしても器械運動に重点を置いた,かなり鍛練的な, いわゆるHeavy Gymnasticsであるというべきであろう. 以上のような限られた手引書に頼らざるを得なかった当時の体操実 体  操 幼稚園 庭内ヲ遊歩セシム 第8級体操図二因テ第1ヨリ4迄ヲ授ク 第7級 ”  第5ヨリ入迄 第6級 ”  第9ヨリ12迄 第5級 ”  第13ヨリ16迄 第4級 ”  第17ヨリ20迄 第3級 ”  第21ヨリ24迄 第2級 ”  第25ヨリ28迄 第1級 ”  第29ヨリ32迄 明治8年r飾磨県下等小学科凡例」より 42  一橋大学研究年報 自然科学研究10 施の状態につきさらに若干の考察を加えておくことにする.  文部省第3年報(明治8年)によると,千葉県の小学教則には体操 が見られるが,東京府,埼玉県,神奈川県では見当らない.前の表の ように具体的な内容を示しているのは非常に希な例と思われる15).  ここに言う体操図は東京師範学校板体操図であろうと思はれる(謝 中体操法図は1-45まである)。これによってみても当時の体操が如 何に内容の乏しいものであったか推察できるであろう.  こうしたなかで一部の先駆的な人々によって体操の改革・発展が見 通されていたのは注目する必要がある.  例えば伊沢修二はr将来学術進歩二付須要ノ件」としてr唱歌嬉戯」 の必要性を述べてつぎのように言う.  「唱歌嬉戯ヲ興スノ件.(前略)唱歌ハ精神二娯楽ヲ与へ運動ハ支体 二爽快ヲ与フ此二者ハ教育上井ヒ行レテ偏廃ス可ラサルモノトス而シ テ運動二数種アリ方今体操ヲ以テ必行ノモノト定ム然レトモ年歯幼弱 筋骨軟弱ノ幼生ヲシテ支体ヲ激動セシムルハ其害却テ少カラスト是レ 有名諸家ノ確説ナリ故二今下等小学ノ教科二嬉戯ヲ設ク……」16)とし て具体的に唱歌遊戯3種(「椿」,「胡蝶」,「鼠」)を示している.すで に伊沢はフレーベルの影響を受けていたと思われるが,彼の後の音楽 取調掛,体操伝習所主幹としての活躍を示唆するかの如き興味ある建 ’言である.  さらに当時の実状を述ぺたものとして文部大書記官西村茂樹のr第 二大学区学事通覧」の中の最後の一節をあげておきたい.  r諸県共二其教育スル所ハ知ヲ第一トシテ徳之二次キ身体ノ教育ニ ハ敢テ意ヲ用ヒサル者ノ如シ教員ノ能ク教授二勉強スル者ハ頻リニ生 徒二暗記暗算等ヲ教へ込ミ生徒ノ脳カノ疲労ハ顧ミス又体操揚ノ如キ ハ諸県ノ学校多ク樹木ノ遮蔽ナク生徒等皆炎日ノ下二立テ体操ヲ行フ 其ノ深ク健康二注意セサル■以テ見ルヘシ」17).  ここにはr学制」下の主知主義的教育へ反搬する彼の儒者としての 一面がのぞいていると見るぺきであろうが,ともかく,細々ながらで はあっても何等かの形で体操が行なわれていたとは言えるであろう,                    明治初期の体育