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昧爽の迷宮へ(10) Ins Dämmrungslabyrinth (Novelle)

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ソウル 南大門

 

 茶山は不安でならなかった。

 “東方隠者の邦(くに)”を震撼させた忠清道「珍山」の天主教騒動から4年、邪教禁圧を求める声は日増しに高まっていたが、正祖王と側近たちは、不気味な沈黙をつづけていた。天主教の禁圧は、「西学」すべての禁圧を意味する。北京から使節を通じて伝えられてくる西洋の学問と文化に、並々ならぬ関心を抱いてきた丁家の若者たちにとって、天主教とは、将来性あるすべての知識と一体になった学知にほかならなかった。「天主デウス」とは、彼らにとって、儒教の「天」と同じものだった。天主教を採るか排するかは、神を信じるか、信じないかの問題ではなく、いかにして正しく信じるかの問題だったのだ。

 (みやこ)では奇妙なうわさが広がっていた。王(イムグム)は、いよいよ天主教と西学を全面的に禁圧するために、さきに「珍山」で天主教徒らの謀反が起きた背景を徹底的に調査する、調査のために「暗行御史アメンオサ」を派遣するというのだ。逆に、次のようなうわさも頻りだった。人徳高き正祖王は、「珍山」騒動の折りに連座した人々を赦免し、温情ある措置によって、道を逸れた人びとを正道に立ち帰らせるために、あらためて騒動の拠って来た縁由を調査するという。そして、「西学」の弊害を言い立てて私腹を肥やそうとする貪官汚吏を摘発し、民情に従って処罰するというのだ。

 茶山らがよく知る正祖王の進取の気性からして、最初の噂はありえないことに思われた。しかし、2番目のうわさは、あっておかしくはない予想だった。そうなればよいという気持ちがある反面、御史(オサ)の大役を仰せつかった者は、どれほどの危険に見舞われるかを思えば、茶山らは、けっしてこの噂を喜んではいられないのだった。

 はたして、丁家に、朝廷から暗行御史アメンオサ任命の内示が伝えられた。白羽の矢を当てられたのは、長子・若銓ではなく、弟の若鏞(茶山)だった。そこに、この任務の危険の大きさと、失敗した場合に長子を失う不幸を免れさせようとする王の慈悲深き配慮を見て、茶山は恐怖に震えた。

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 辞令書を受け取っただけでは、噂どおりに「珍山」の調査が命ぜられたのかどうかは、知るすべがなかった。辞令書は絶対機密であり、都邑の城門を出るまでは、けっして開披してはならぬとされていたからだ。

 茶山は、わずかな側近の従者を従えて、屋敷を出発した。都城「南大門」を行き交う旅人や商人は、賢王の仁徳に満たされた平穏な治世を謳歌するかのように楽しげだった。門をくぐると、従者を休ませて馬から降り、辞令書の封印を切って開披した。任地は果して忠清道だった。とくに珍山郡については、過去5年間の歴代郡主の治績を徹底的に調査せよとあった。勅命の本意がどこにあるかは、問わずとも明らかだった。

 茶山は、落雷を受けたようになったが、平常心が戻るや否や、もはや何の恐怖も感じることがなかった。われ只、天に従うのみ。

 この手勢では、保守派の襲来を防ぐ術(すべ)もないが、いったん城門を出た以上、任務を完遂するまで、都城内に戻ることは許されなかった。茶山は、行程を変更して、男寺党の本拠地として知られた安城邑に投宿し、従者らに命じて、新たな一座を編成するために座員を募らせた。旅回りの一座の首領に扮装して“敵”の目をくらまし、任地へ安全に向かおうというのだ。

 座員の選抜にあたっては、武芸の心得ある者、忠誠心の旺盛な者、剛毅屈強の者を優先した。20人ほど集めると、屋敷から連れて来た従者たちは都(みやこ)に帰らせ、単身、にわか編成の男寺党の首領として旅程に身を投じた。

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 筆談しているあいだに、どれほどの時間が経っていたことだろう。もう陽が落ちて薄暗くなっていた。茶山のぼくに対する疑いは、すっかり解けたようだった。もちろん、論理的には何も解決してはいない。ぼく自身、どうしてここに来たのか、ふしぎでならないくらいだから。しかし、この国の人間は、みな心底(しんそこ)人がいいのだと思った。

 茶山が合図すると、いままでぼくの脇でじっと見守っていたチャドルは、亭閣の外に下がった。茶山は、おもむろに服を脱いでぼくに手招きした。ぼくは恐る恐る彼に近寄った。誰かに似ていると思った。風貌よりも、彼の存在が放射している眼に見えない雰囲気が似ているのだった。彼の洗練された物腰が、そう思わせるのかもしれなかった。しかし、優雅でありながらも、彼は自分のまわりに近寄りがたい圏域を作り出していた。ぼくは、新宿の店でママに初めて会った日のことを思い出していた。
 脱いだ肌に触れてみると、茶山の身体は意外に引き締まっていて若々しかった。そういえば、ぼくは茶山の年齢も知っているのだった。もし彼の言うように、暗行御史を命ぜられて調査地へ向かう途上だとすれば、満33歳だった。

 茶山は、まるでできの良い生徒を誉めるようにぼくの頭をなぜたあと、後ろを向かせた。生真面目な筆談のあとで、師のような人に剥き出しの尻を差し出すのは、正直恥ずかしかった。ぼくは顔が熱くなるのを感じながら、後ろをされるがままにまかせた。

 茶山が終えたあと、ぼくはまた彼と筆談した。ぼくは茶山に、その服装は男寺党の首領には見えないし、目立ってしまうだろう。みなと同じ男寺党の衣装を着たほうがよいと進言した。

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