スパニッシュ・オデッセイ

スペイン語のトリビア
コスタリカ、メキシコ、ペルーのエピソード
パプア・ニューギニア、シンガポールのエピソード等

マック・ザ・ナイフ

2024-02-24 11:37:59 | トリビア
 『マック・ザ・ナイフ』(邦題『匕首(あいくち)マック』)。物騒なタイトルである。歌詞も同様に物騒である。ボビー・ダーリンやエラ・フィッツジェラルド等、多くの歌手が歌っているが、歌詞は微妙に異なる。以下にエラ・フィッツジェラルド版の「マック・ザ・ナイフ Mack the Knife 歌詞の意味 和訳 ジャズ 」より引用する。

鮫はすごい歯を持ってる  その歯は真珠のように白く光る
まさにマックヒースが持ってた  鋭い刃のジャックナイフ
彼はそれを隠し持ってる 

鮫がその歯で噛みつくと  赤い波が広がり始める
マックヒースは洒落た手袋をして  一滴の赤い痕跡も残さない

歩道の上で  日曜の朝に
血まみれの犠牲者
曲がり角で誰かがこっそり逃げてる
あいつがマック・ザ・ナイフじゃないか?

川岸のタグボートから  セメント袋が降ろされてる
あのセメント袋とちょうど同じ重さ
中に隠れたマックが  町に戻ろうとしてるのかも

ルイ・ミラーの噂を聞いたか?  奴が姿を消したって
荒稼ぎした金をすべて引き出した後に 
マックヒースは船乗りみたいに過ごしてる
ウチの奴らが何か軽率にやらかしたのか?

ジェニー・ダイヴァー  スーキー・トードリ  ロッテ・レーニャ
ルーシー・ブラウン  ずらっとそろって
ついにあのマックが  町に戻って来た

 これはブレヒト作の『三文オペラ』の冒頭で殺人事件について歌われる歌である。歌うのは大道芸人である。
 ところで、『マック・ザ・ナイフ』はソニー・ロリンズの演奏バージョンでは『モリタート』というタイトルになっている。この「殺人事件を歌う大道芸人(艶歌師)」はドイツ語で Moritat と呼ばれているのである。この語は筆者の英和辞典には見当たらない。ラテン語に”Memento mori”(死を思え)という有名な警句がある。mori が「死」なので、Moritat の語源になっているのかもしれない。

 さて、歌詞について、2点、解説しよう。

 マックヒースは洒落た手袋をしているが、手袋には血の跡がついていないという。岩波文庫版『三文オペラ』によると、マックは真っ白のなめし革の手袋をしている。なめし革には撥水性に優れているものがあるようで、そのような手袋をしているので、血痕が残らないのであろう。

 ジェニー・ダイバー以下の人名について。ボビー・ダーリンのバージョンでは次の順に出てくる。
スーキー・トードリー(ジェニー・ダイバーを自宅にかくまう)
ジェニー・ダイバー(マックの愛人の一人。マックを裏切って居所を警察にたれ込む。演じた女優はロッテ・レーニャ)
ポリー・ピーチャム(乞食集団のボスの娘、マックの愛人)
ルーシー・ブラウン(警視総監タイガー・ブラウンの娘。マックの愛人。マックと警視総監は戦友で無二の親友)

 歌詞を見ると、マックは殺人鬼のように思えるが、実は、オペラの中ではマックはだれも殺していない。あらすじについては「ウィキペディア:三文オペラ」を参照されたい。ブレヒトのあとがきによると、マックは殺人を好まない。自分でも不必要な殺人は犯さないし、部下にもそう命令しているのである。
 
 さて、ポリー・ピーチャムを演じた女優ロッテ・レーニャは『三文オペラ』に曲を付けた作曲家クルト・ワイルと結婚、その後、離婚、そして、また結婚している。
 
 【クルト・ワイルとロッテ・レーニャ】
 
 【若き日のロッテ・レーニャ】
 若いころはなかなかの美貌である。その後、映画『007ロシアより愛を込めて』に出演、ソ連の女将校を演じている。
 
 【ソ連の女将校役のロッテ・レーニャ】



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白鯨「Moby Dick」の一等航海士スターバック(Starbuck)

2023-10-10 18:21:48 | トリビア
 ハーマン・メルヴィルの名作「白鯨」(Moby Dick)を読み始めた。エイハブ船長率いるピークオッド号の冷静沈着な一等航海士の名前がスターバック(Starbuck)である。あのスターバックス(Starbucks)の名前の由来になっていることは結構有名な話である。
 一等航海士スターバックの画像を検索してみたが、ヒットしない。岩波文庫版「白鯨」(上)(八木敏雄訳)301ページには Rockwell Kent による挿絵がある。挿絵の著作権登録は1930年で、その後、1958年に更新されている。この挿絵はピッツバーグ州立美術館の許可を得て使わせてもらっていると、訳書の目次の前ページに英文で書かれている。
 著作権について調べてみたが、死後70年間は保護されるとのこと。小説の方はメルヴィルの死去は1891年なので、勝手に引用しても問題はない。ただし、挿絵の Rockwell Kent の死去は1971年なので、まだ保護下にある。勝手に画像をアップすると、お縄を頂戴しなければならない。そういうわけで、ネットに画像が出てこないのである。
 挿絵を見ると、スターバックは陰気くさい痩せた男で、コーヒー・チェーンのスターバックスにはふさわしくないと思う。ここでは掲載できないので、興味のある方は、図書館にでも行って調べてみていただきたい。
 さて、岩波文庫版「白鯨」の第26章でスターバックについて次のように書かれている。

 クエイカー教徒の家系である。背が高く、真摯な男で、寒冷の海岸に生まれたにもかかわらず、熱帯にもよろしく適応しているようで、二度焼きのビスケットのように引きしまった体をしている。

 ここで問題にしたいのは「二度焼きのビスケット」である。そもそもビスケット(biscuit)は二度焼かれるものなのである。一度しか焼かないビスケットがあったら持って来い、である。新英和中辞典(研究社)biscuit の項には【フランス語「二度料理された」の意から】とちゃんと書かれている。それをわざわざ「二度焼きのビスケット」と訳した翻訳者の意図は何であろうか。原文の直訳なのだろうか。メルヴィルはビスケットの語源に疎かったのだろうか。「二度焼き」を強調したいがために、メルヴィルはそう書いたのだろうか。サマセット・モームの「月と六ペンス」の Blanche 同様、悩みが尽きない。

 
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「月と六ペンス」のトリビア(3)女子名 Blanche 

2023-10-08 21:30:55 | トリビア
 「月と六ペンス」に Blanche という名の女性が登場する。
 岩波文庫版(行方昭夫訳、2005年)では「ブランチ」と表記されている。原文で読む場合は、どう発音しようと読者の勝手だが、日本語訳ではカタカナで表記しなければならない。
 Blanche はローマで住み込みの家庭教師をしていて、その後、パリに移っている。国籍は明示されていないが、フランス人かフランス系イタリア人だと思われる。それならば、Blanche はフランス語の女子名で、「ブランシュ」と発音される。blanche と小文字で始めると、「白い」という意味の形容詞 blanc「ブラン」の女性形になる。blanc に定冠詞 le をつけると、Le Blanc 「ルブラン」という姓ができあがる。ちなみに、Blanche のイタリア語形は Bianca 「ビアンカ」である。
 作者のモームはパリ生まれで、10歳の時にイギリスに移ったので、モームにとってはフランス語が第一言語であった。そうすると、モーム自身は Blanche を当然ながら、「ブランシュ」と読んだことだろう。
 原文にはフランス語の短文も頻出するので、訳者の行方昭夫氏もフランス語の知識があると考えるのが自然だろう。それなのに、なぜ「ブランチ」と表記したのだろうか。
 アルクのウェブサイト「英辞郎 on the WEB」で Blanche と入力したら、「人名 ブランチ 女」と出てきた。
 確かに英語読みすれば、「ブランチ」になる。フランス語の知識がなければ、そう読まれるだろう。Blanche というフランス語の女子名が英語圏にも取り入れられ、発音も英語風に「ブランチ」になって定着したのだろうか。それでも、やはりモームにとっては Blanche は「ブランシュ」だろう。まして、フランス人なら「ブランチ」などあり得ない。
 ちょっと目先を変えて、手元の新英和中辞典(研究社)に当たってみた。すると、blanche という語はなかったが、blanch という語があった。発音は「ブランチ」で、古期フランス語「白い」から、blank と同語源とあった。blanchが「ブランチ」なので、英語圏に渡った女子名 Blanche も「ブランチ」と発音されるようになったのだろうか。ちなみに、ブリーチ(bleach、「漂白剤」)は blanch の関連語だろう。
 「月と六ペンス」は映画・舞台・テレビドラマ化されているので、そこで Blanche がどう呼ばれているか確認したいものである。
 ところで、フランス語 Blanche のスペイン語形は Blanca「ブランカ」で、こちらもれっきとした女子名である。個人的にも Blanca という名の女性を知っている。
 Blanca の男性形は Blanco「ブランコ」だが、Blanco という個人名を持つ男性は知らない。ただし、姓として用いられ、日本でプレーしたプロ野球選手にもこの姓を持つ選手がいた。そういえば、White という姓の黒人選手もいた。中国や韓国にも「白」という姓がある。中国には「白」が男子名としても使われている。あの詩仙「李白」である。
 
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「月と六ペンス」のトリビア(2)

2023-10-07 20:39:08 | トリビア
 フランスの画家、ポール・ゴーギャンをモデルとしてサマセット・モームが書いたベストセラー小説は「月と六ペンス」というタイトルがつけられたが、それについて岩波文庫「月と六ペンス」の解説には次のように書かれている。

 「月」は夢や理想を、「六ペンス」は現実を表す。(中略)「月と六ペンス」では主人公は美の理想を追求し続け、そのために、世俗的な喜び、富、名声などを完全に無視し、投げ出す。(以下省略)

 確かにそのとおりだが、イギリスでは、結婚式へと向かう花嫁の左靴の中に6ペンスを入れておくことで「経済的にも精神的にも満たされ、豊かで幸せな人生をもたらす」と考えられていて、現在もその習慣が続いていることから、「六ペンス」は豊かで幸せな結婚生活を表しているとも考えられる。
 ところで、「月と六ペンス」の中での夫婦またはそれに準じる関係は3組である。
 1.画家ストリックランドとその妻
  ストリックランドは証券関係の仕事につき、平々凡々たる生活を送っていたが、突然、画家になるべく家族を捨てて、パリに行く。
  この場合、「月」は芸術、「六ペンス」は平凡だが幸せな結婚生活を表していると言える。
 2.語り手の友人、オランダ人のダーク・ストローブとその妻 Blanche(翻訳書では「ブランチ」と読まれている)。
  ローマのある公爵家で住み込みの家庭教師をしていたところ、そこの息子にたらしこまれ、妊娠するが、結局、追い出され、自殺を図る。だが、ストローブに見そめられ、結婚する。 
 公爵の息子は Blanche とは身分が違い、Blanche にとっては手の届かない「月」のような存在であろう。そんな公爵の息子と結婚するという夢が「六ペンス」といったところか。
 3.画家ストリックランドと Blanche
 Blanche は夫を捨てて、ストリックランドのもとへ走るが、ストリックランドはまるで狂気に取り憑かれたかのように絵のことしか考えず、Blanche は結局、捨てられ、自殺する。
 「月」(スペイン語 luna)は人の気を狂わせると考えられていた。その luna から派生したスペイン語 lunático(英 lunatic)は「精神異常の、気違いじみた」という意味である。
  この場合には、ストリックランドが「月」で表され、男を家庭に縛り付けておきたい Blanche が「六ペンス」で表されていると言えるだろう。 

 
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「月と六ペンス」のトリビア

2023-10-07 11:16:27 | トリビア
 今回はスパニッシュとは関係のない話である。
 1919年にサマセット・モームの小説「月と六ペンス」が刊行され、世界的な人気を博した。日本語にも翻訳されている。
 まずはタイトルの一部の「六ペンス」についての考察である。 
 6ペンスというと、現代の感覚では何とも中途半端な額である。
 イギリスの通貨はポンドだが、1971年に1ポンド=100ペンスに改定され、現在に至っている。現在のイギリスのペンス硬貨は1ペニー、2ペンス、5ペンス、10ペンス、20ペンス、50ペンスの6種で、当然ながら6ペンス硬貨はない。
 1971年以前は12ペンス=1シリング、20シリング=1ポンド、つまり240ペンス=1ポンドという、複雑な体系であった。
 ペンス硬貨には1ペニー、2ペンス(「タペンス」と発音される。ミュージカル『マイ・フェア・レディー』でイライザが歌う歌に「タペンス」が出てくる)、6ペンスがあった。1971年以前は6ペンス=半シリングなので、中途半端な額ではなかったのである。
 ところで、英語圏の童謡である『マザー・グース』の一編に「6ペンスの唄」( "Sing a song of sixpence") というのがある。数ある『マザー・グース』の中でも五指に入るほど愛唱されている唄で、通常愛唱されている唄は4連で構成されている(ウィキペディア「6ペンスの唄」より)。 
 このように6ペンス硬貨はなじみのある硬貨だったのである。
 6ペンス硬貨は、イギリスで1551年から1971年まで製造されていて、コインには歴代の王や女王が刻印されてきた。しかしながら、1971年に製造が中止され、幻の6ペンスとも呼ばれているようであるが、日本でも手ごろな価格で入手可能である。
 
 イギリスでは、童謡のマザーグースに出てくるサムシングフォー(“Something Four”和製英語)の歌の歌詞が由来となり、結婚式へと向かう花嫁の左靴の中に6ペンスを入れておくことで「経済的にも精神的にも満たされ、豊かで幸せな人生をもたらす」と考えられ、現在もなお、結婚式のラッキーアイテムとして人々に愛され続けているそうである。唄の詳細はリンクを参照されたい。

 
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プンタレーナスは2000年に消滅するはずだった!

2023-01-23 18:08:53 | コスタリカ
 コスタリカの太平洋側の港町、プンタレーナス(Puntarenas ⇐ Punta arenas「砂州」の意。チリには Punta Arenas という町がある)はプンタレーナス州の州都である。乾季(大体12月から3月まで。「夏」と呼ばれている)はからっと晴れていて、海水浴にはもってこいの季節である。日がカンカン照るので暑いが、摂氏35度以上の猛暑日になることはまずない。

 1980年頃、首都サンホセに住んでいた。コスタリカの学校は乾季になると休みになるので、筆者も勤務先の大学も休みになる。最近の日本の学校は学生・生徒が休みでも教員は学校に行かなければならないようだが、当時のコスタリカではそんなことはなかった。たぶん、今でも同様だろう。
 そういうわけで、筆者がプンタレーナスに行くのは「夏」に決まっていた。それが、2017年には雨季(4月から11月。「冬」と呼ばれる)に行く機会があったのである。「冬」とはいえ、太陽の位置が高いので、やはり暑いだろうと思っていたのだが、予想は見事に裏切られた。寒くはないが、全然暑くなかったのである。気温は摂氏25度を下回っていたかもしれない。
 さて、コスタリカ在住時には全然知らなかったのだが、このプンタレーナスにまつわる伝説があった。伝説によると、西暦2000年にプンタレーナスは消滅することになっていたのである。消滅といっても水没の意味のようだった。よくあるタイプの世紀末伝説の一つである。
 どうして水没するかというと、ペルーの首都リマの外港カリャオ(Callao)に関係しているのである。

【Callao】
 史実によると、1746年にカリャオは津波に襲われ、壊滅状態になったそうである。これがコスタリカにも伝わってきたのだが、伝説では、カリャオの町は腐敗しきっていたので、天使の軍団が滅ぼしたということになっているのである。腐敗したカリャオの町にも善良な一家がいて、彼らがプンタレーナスにやって来て、町を作ったという。
 しかしながら、神様の気まぐれでカリャオを水から引き上げると、その代償としてプンタレーナスが水没しなければならないのだとか。それが西暦2000年だという話である。
 出っ張ったところを押さえつけると、他の場所が盛り上がってくるというコントがあるが、そのような感じだろうか。実際は、カリャオは水没したわけではないが、そう信じられていたのだろう。
 雨季の寒々しい夜、漁師たちはそんな話をしていたとか。詳しいことは「コスタリカ伝説集」(国書刊行会)をご覧いただきたい。
 ところで、筆者は1989年にはリマに在住しており、仕事でカリャオにもたびたび行っていた。税関から荷物を引き取る業務だが、税関は年中ストライキをやっていたような印象であった。

 

   
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スルキの伝説

2023-01-22 16:47:07 | コスタリカ
 
 ここはスルキ(Zurquí)トンネル。コスタリカの首都サンホセとカリブ海の港リモンを結ぶ幹線道路(autopista)にある唯一のトンネルである。サンホセから北に向かうと峠があるが、その峠を越えて少し行ったところにあるトンネルである。この写真の上の方にトンネルの出入り口が見えるが、トンネルを向こう側に抜けると峠があり、サンホセに至る。
 道路の左側には谷があり、川が流れている。谷の左側の山に潜んで、狙撃したのがゴルゴ13である。ゴルゴ13のことだから、不可能なことはないのだろうが、どうやって人跡未踏(たぶん)の山に入っていったのだろうか。
 それにここはよく霧が出る。狙撃の時には霧は出ていなかったようだが、ゴルゴ13には天も味方するようである。
 さて、スルキ(Zurquí)というと、筆者はまず、このトンネルを想起する。サンホセから女房殿の実家のあるグアピレス(Guápiles)に行くときに通るルートである。
 しかしながら、このトンネルから数キロ西に行ったところにスルキ山(Cerro Zurquí)という標高2259メートルの山がある。この辺りは火山も多いが、これは火山ではない。
 
 【スルキ山(Cerro Zurquí)】
 しかしながら、このトンネルから数キロ西に行ったところに、このスルキ山を舞台にした伝説が「スルキの伝説」で「コスタリカ伝説集」(国書刊行会)の冒頭の第1話に収められているのである。
 コスタリカというと、熱帯地方に位置するのであるが、標高が2000メートルを超すと、かなり涼しく、時期によっては寒いこともある。「スルキの伝説」は先住民の伝説で、スペイン人が入ってくる前からある伝説のようである。
 
 【Gold figure of Sibú with the head of an eagle. Museo del Oro Precolombino, San Jose, Costa Rica(鷲の頭をしたシブー像。コスタリカ、サンホセ、先コロンビア時代博物館蔵】
 スルキ山は最高神シブー(Sibú)の住処になっているそうである。この神様が追手から逃げるお姫様たちをチョウチョにして助けたというのが、この伝説のあらましで、この辺りにチョウチョ蝶が多いのはそういう理由だそうだが、詳しいことは「コスタリカ伝説集」をご覧いただきたい。 


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キリストってスペイン人? Sólo Cristo es español

2022-09-26 20:43:23 | スペイン語
 カルメン・リラの作品"Cuentos de Mi Tía Panchita”(パンチータ伯母さんのお話)を読んでいると、次のような一節に遭遇した。

sólo Cristo es español y Mariquita señora...

 文法的には何の問題もない、易しい文である。Mariquita と señora の間には動詞 es が省略されていると解釈される。 
 Mariquita は María の愛称で、手元の「西和中辞典」(小学館)にもちゃんと記載されている。
 mariquita と小文字で書くと、「テントウムシ、インコ、マリキータ(二人が組になって踊るクリオーリョの踊り)」という意味になる。当然、女性名詞だが、これが男性名詞になると、「ホモ、おかま」という意味にもなる(「西和中辞典」)。
  señora は「奥様」だが、Nuestra Señora (「私たちの女主人」の意)となると、「聖母マリア」の意味になる。

 さて、この文の全体の意味は文字どおりには「キリストだけがスペイン人で、マリア様が聖母である」ということだが、何のことか訳が分からない。
 この文の直前に書かれている文を見ないと何とも解釈できない。直前の文の大意は次のとおり。

 玉座に座っている者の方が粗末なベンチに座っている者より偉いと、みんな思っているようだ。

 そうすると、sólo Cristo es español y Mariquita señora の意味は「みんなより偉いのはキリストとマリア様だけ(神の前では王も乞食も同じ)」ということになりそうである。女房殿に聞いてみると、その解釈でいいようであった。

 ただ、「キリストだけがスペイン人」というのがまだ疑問として残る。スペインはカトリックの代表国といってもいいので、このような表現が生まれたのだろうか。
 それにしても、「キリストだけがスペイン人」を逆に言うと、「キリストにあらざれば、スペイン人にあらず」ということになる。そうすると、スペイン人はだれもいなくなってしまうのだが。「キリスト教徒にあらざれば、スペイン人にあらず」なら、まだわかるけれども。

 気を取り直して、スペイン語版の yahoo で検索してみることにした。
 Cristo es español ではヒットしなかったが、Dios es español とやってみたら、ヒットしたのである。
 ABC España というサイトである。
 記事のタイトルは«Dios es español», la frase que retrató la hegemonía militar del Imperio español。
 フランドル戦争におけるスペイン帝国軍の強さを表したフレーズである。
 この記事の中に以下のような記述がある。
  «Tal parece que Dios es español al obrar, para mí, tan grande milagro».
 «Dios es español y está de parte de la nación estos días».
 大意は「神はスペインの側についていた」ということである。

 Cristo es español は Dios es español のもじりのようであるが、意味の上では全く関係がなさそうであった。ただ、「パンチータ伯母さんのお話 」の中の当該のお話の舞台は明言されていないが、スペインを連想させる。そうすると、Cristo es español は「キリストは我々スペイン人とともにある」と解釈できるのではないだろうか。



 
 


 
  
 
 
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蟻とキリギリス

2022-09-21 09:06:55 | トリビア
 カルメン・リラの“Cuentos de Mi Tïa Panchita”(パンチータ伯母さんのお話)の著者前書きにイソップの「蟻とキリギリス」の話が言及されていた。イソップの寓話は世界中に広まっているようである。
 イソップはギリシャ語で「アイソーポス」というそうで、英語では Aesopである。スペイン語では Esopo となる。
 イソップはかなりの醜男だったらしい。
 
 【ディエゴ・ベラスケスによって描かれた肖像画】
 イソップの寓話はポルトガル人宣教師によって日本にもたらされ、17世紀初めに仮名草子『伊曾保物語』が成立した。これには伊曾保(イソップ)の略伝も収められているが、やはりかなり不細工だったということである。挿絵もあるが、だいぶ日本化している。
 ちなみに、略伝の部分を読むと、まるで一休さんの話のようである。


 前置きはこれくらいにして、「蟻とキリギリス」の話に移る。
 実は、元の話は「キリギリス」ではなく、「蝉」なのである。
 
 絵を見ると、蝉だかハエだかわかりにくい。蝉ではなく、ハエであるという説もあるらしい。
 
『伊曾保物語(岩波文庫、武藤禎夫校注)付 絵入教訓近道(抄)』より
 左の男の頭には蝉が、その右のキセルを咥えている男の頭には蟻が見える。

 『伊曾保物語(岩波文庫、武藤禎夫校注)』には「蟻と蝉との事」として記述されているが、その中の「注一」には以下のように書かれている。

 地中海沿岸の温暖な所では蝉だが、寒冷の中欧以北では蝉が生息せず、代って多く蟋蟀(キリギリス)を出す。

 同 p. 341 の解説には次のように書かれている。

 徳川幕府が瓦解した御一新後は、欧米からの文明開化の波が押し寄せ、江戸期の国字本伊曾保物語は影をひそめ、英語を主体とした外国語によるイソップ物語が盛んに紹介された。すでに幕末時の新聞にも数話見られるが、時代の先覚者福沢諭吉は、イギリス人チェンバーズの道徳書を翻訳した・・・(中略)・・・第13章「倹約の事」の項に「蟻とイナゴの事」などを載せ(以下省略)

 以上が「蝉」から「キリギリス」に置き換えられた経緯である。

 ギリシャからスペインを経由してコスタリカに伝わったイソップ物語では「蝉」はオリジナルの「蝉」のままである。カルメン・リラの“Cuentos de Mi Tïa Panchita”(パンチータ伯母さんのお話)の著者前書きに言及されているイソップの「蟻とキリギリス」の話も、当然ながら、オリジナルの「蟻と蝉」なのである。


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アヴェ・マリア

2022-09-19 10:08:16 | スペイン語
 キリスト教徒でなくても「アヴェ・マリア」(スペイン語では Ave María)の語句を知らない日本人はいないだろう。しかしながら、「アヴェ」(Ave)の意味を知っている人はそう多くはあるまい。スペイン語には ave という普通名詞がある。意味は「鳥」だが、「アヴェ・マリア」が「マリア鳥」では訳が分からない。
 「アヴェ・マリア」とはラテン語で直訳すると「こんにちは、マリア」または「おめでとう、マリア」を意味する言葉だそうである(ウィキペディア「アヴェ・マリア」)。 
 Ave には「こんにちは」、「おめでとう」等の意味がある言葉ということだが、ハワイ語では Aloha に相当するだろうか。まさか、ハワイ語で「アヴェ・マリア」の祈りが「アロハ・マリア」になっているわけではないだろうが。
 
 さて、スペイン語では Ave María は間投詞としても使われる。驚き、おびえ、不快の念を表し、「おやおや、まあ、おお怖い、嫌だな」という訳語が充てられる。Ave を小文字にして ave María とも綴られる。avemaría と一語になると、「アベマリアの祈り、天使祝詞:キリスト受胎の秘儀に対するラテン文の感謝の祈りの最初の言葉」、「ロザリオの小玉」、「アンジェラス、お告げの祈り」という意味の普通名詞になる。
 
 さらに、Ave María は「ごめんください」という意味でも使われていた。さすがに現在ではこの意味では使われていないようだが。Ave María だけではちょっと寂しいので、「純粋無垢の」の意味の purísima という語を付け加えて、Ave María Purísima とも言っていた。
 
 ところで、マリア様はいろいろな所に現れたようで、ラテン・アメリカではメキシコの Guadalupe に現れたマリア様が有名である。カトリック教会公認で、Virgen de Guadalupe(グアダルーペの聖母)という名前で親しまれている(ウィキペディア「グアダルーペの聖母(メキシコ)」参照)。
 
 絵を見てもわかるように、グアダルーペの聖母は「褐色の肌の聖母」として親しまれている。
 Guadalupe という名前は女子名としてよく使われるが、男子名としても使われることがある。やや長いので、愛称として Lupe という形になり、これに縮小辞がついて Lupita (女子名)や Lupillo (男子名)になったりする。
 筆者は Lupe という形は高校2年生のとき、ライチャス・ブラザーズ(Righteous Brothers)の「リトル・ラテン・ルーペ・ルー(Little Latin Lupe Lu)」という曲の中で Lupe という語を知った。歌詞の内容からすると、女子名だろうとアタリをつけていたが、後日、正解だったことを知る。
 それはともかく、コスタリカで「ごめんください」の意味で使われる”Upe”ということばは、このグアダルーペのマリアに由来するそうである(「コスタリカ再訪(194)Upe」参照)

 さて、1920年刊行のカルメン・リラ著“Cuentos de Mi Tía Panchita”(パンチータ伯母さんのお話)の中の一話に、ある男が地獄に行って悪魔どもを訪問する話がある。そこで"Ave María Purísima"と声をかけるわけだが、この挨拶は悪魔どもには「この野郎」とでも言われているように感じられたという一節があった。同じ男が天国に行って、ある場所で"Ave María Purísima"と言ったら、たまたまそのあたりにマリア様ご本人がいて、自分のことを呼ばれたものと思い、出てきたという一節もあった。
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スレイマン1世

2022-09-08 12:49:18 | スペイン語

 このお方、カルメン・リラの作品 “Los Cuentos de Mi Tía Panchita”(パンチータ伯母さんのお話)に収録されているお話にも登場する。
 日本語名は「スレイマン1世」。オスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年 - 1566年)である。トルコ語表記では Süleiman で、英語表記では Suleiman である。
 ウィキペディア「スレイマン1世」によると、「46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた」とのことである。
 「1521年からは外征に乗り出し、ハンガリー王国からベオグラードを奪い取り、翌1522年のロドス包囲戦で聖ヨハネ騎士団からロドス島を奪うなど活発な外征を行った」、また、「ウィーン攻略には失敗するもののヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた」との記述もある。ヨーロッパ人(キリスト教徒)にとっては恐るべき敵として認識されていたであろう。
 『パンチータ伯母さんのお話』には悪魔のように恐ろしい人物の譬えとして登場するのである。

 「スレイマン」の英語形は Suleiman だが、筆者はこの語から slay (殺戮する)という語を連想する。slay する人が slayman になってもよさそうなものである(実際には slayer であるが)。
 さて、このお方の名前のスペイン語形は Solimán である。筆者の手元の『西和中辞典』(小学館)には掲載されていない。ただし、solimán という普通名詞は掲載されている。「塩化第二水銀」が原義だが、そこから転じて、比喩的に「毒、毒物」という意味にもなっている。
 「スレイマン1世」はヨーロッパ人には「毒物」と言ってもよさそうな人物であるから、スペイン語圏の人間は Solimán という固有名詞を聞くと、普通名詞 solimán を連想するのだろうか。
 
 「スレイマン」の名前については、ウィキペディア「スレイマン1世」にさらに次のような記述がある。

名前のスレイマン(Süleyman)とは、ユダヤ教やキリスト教と共にイスラム教でも聖典とされる旧約聖書に記録された古代イスラエルの王、「ソロモン王」(英 Solomon)のアラビア語形である「スライマーン」(アラビア語: سليمان‎, Sulaymān)のトルコ語発音である。

 ちなみに、スペイン語形は Salomón であるが、この名前を持つ人物は筆者の知り合いの中にはいない。



 
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コスタリカのこぶとり爺さん

2022-05-17 16:39:17 | スペイン語
 "Salir con un domingo siete”は日本昔話の「こぶとり爺さん」とそっくりだったが、日本の爺さんのこぶはほっぺたにある。

 ところが、コスタリカの昔話"Salir con un domingo siete”に登場する男(「年寄り」とは書かれていない)のこぶはほっぺたではなく、喉にあるのである。
 この話の中で「こぶ」を表すスペイン語は‟güecho”(グエチョ)であるが、この語は小学館「西和中辞典」には掲載されていない。‟güegüecho”ならある。意味は「甲状腺腫を患っている」の他に「愚かな」という意味もあった。「こぶ」とは書かれていないが、調べてみると、甲状腺腫を患うと喉にコブができるようで、昔は喉に大きなコブを持つ人がかなりいたようである。


 ところで、岩波文庫の「ラテンアメリカ民話集」(三原幸久編訳)には、コスタリカの民話が3編取り上げられているが、いずれも‟Los Cuentos de mi Tía Panchita”に収録されているものである。この話もその中の一つである。参照してみたら、「コブ」と訳されていた。
 ちなみに、タイトルの "Salir con un domingo siete”は「あらずもがなのことば」と訳されていたが、「余計なことをするな」とか「要らんことをすな!」の方がインパクトがあるかと思う。
 それはともかく、解説も丁寧に書かれているので、一読をお勧めする。

 
 前回、 "Salir con un domingo siete”には「思いがけず妊娠する」という意味もあると書いたが、「コブ」がお腹にできたという解釈なのだろうか。

 【お知らせ】
 2022年5月25日に国書刊行会より拙訳本「コスタリカ伝説集」‟Leyendas Costarricenses”が刊行されます。ちょっと値は張りますが、よろしくお願いします。


      
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Salir con un domingo siete

2022-05-16 18:18:36 | スペイン語
 1920年に出版された “Los Cuentos de mi tía Panchita” (パンチータ伯母さんのお話)を読んでいる。著者は Carmen Lyra(本名 María Isabel Carvajal Quesada)。詳細についてはウィキペディア‟Carmen Lyra”を参照されたい。スペイン語だが、機械翻訳をかければ大意はつかめるだろう。
 この書籍の中の一つに“Salir con un domingo siete”という話がある。
 タイトルを英語に逐語訳すれば、“Go out with a Sunday seven”になる。「7日の日曜日に出かける」のかと思うが、そうではない。「7日の日曜日」ならスペイン語では“el domingo siete”で、定冠詞を使わなければならない。本文を読むと、“un domingo siete”は「日曜日で7つ」という意味だということがわかる。 話の一部を紹介する。

 魔女たちがパーティーをやっていて、その中で単調な歌を歌っていた。
“Lunes y martes y miércoles tres"(月曜日と火曜日と水曜日で3つ)というフレーズを繰り返すだけで、それが延々と続いていた。
 そこへ、道に迷ったコブ男が迷い込み、盗み聞きをしていたが、退屈のあまり、‟Jueves y viernes y sábado seis”(木曜日と金曜日と土曜日で6つ)という歌詞を付け加えた。魔女たちはそれを聞いて、大いに喜び、男の喉からコブを取り、さらに褒美として金貨を数えきれないぐらい取らせて、家に返してやった。 
 家に帰ると、強欲な隣人(こちらにも喉にコブがある)も金貨が欲しくなり、魔女たちの家に出かけていく。魔女たちはパーティーをやっていた。歌は例の歌で、‟Lunes y martes y miércoles tres. Jueves y viernes y sábado seis”という歌詞をひたすら繰り返すだけだった。そこで、この男は‟Domingo siete”(日曜日で7つ)という歌詞を付け加えたのだが、魔女たちは喜ぶどころか、怒り狂って、この男を踏んだり蹴ったりして、さらに、先に切り取ったコブをこの男の喉にくっつけて、追い払った。

 全く、コブ取り爺さんそのもののお話である。
 さて、何で魔女たちが‟Domingo siete”(日曜日で7つ)に怒り狂ったのだろうか。「月、火、水、木、…」とくると、「日曜日で7つ」とくっつけるのは当たり前ではなかろうか。意味の上では確かにそうなのだが、韻の点から考えると、これではぶち壊しなのである。
 ‟Lunes y martes y miércoles tres” で、音節数は10。[es]音で韻を踏んでいる。“Jueves y viernes y sábado seis”で、音節数は10。韻は完全ではないものの、sábado 以外は[s]音で韻が踏まれている。
 これに対して、強欲男が追加した‟Domingo siete”は音節数が5。さらに韻が全く合わない。それで魔女たちが怒ったのである。
 ここから、‟salir por un domingo siete”は「余計なこと、頓珍漢なことをする(言う)」等の意味の成句になった。さらに「思いがけず妊娠する」という意味も持つようになった。ただし、この成句はラテンアメリカでしか通用しないそうだ。
 You Tube にアニメがアップされている(ただし、スペイン語)。

 【お知らせ】
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映画『誰が為に鐘は鳴る』

2021-12-03 17:26:38 | スペイン語
  昨日、テレビで『誰が為に鐘は鳴る』を見た。以前見たような気がしていたが、実は初めてだった。
 原題“For whom the bell tolls”は16~17世紀のイギリスの詩人ジョン・ダン(John Donne)の詩からとられていることはあまりにも有名だが、 ここでは触れない。
 『誰が為に鐘は鳴る』の舞台はスペインなので、当然スペイン語についてのトリビアについて述べる。
 主人公ロバート・ジョーダンの個人名のロバート(Robert)のスペイン語形がロベルト(Roberto)なので、映画でもそう呼ばれていた。この程度のことでわざわざ記事を書くには及ばない。
 山賊パブロ(Pablo、英語形は Paul)の女房のピラー(Pilar、スペイン語読みはピラール)がロベルトに呼びかけるときの言葉について述べる。その前にピラール(Pilar)について一言しておく。ウィキペディア「ピラール」には次のように記述されている。

 ピラールはスペイン語圏、ポルトガル語の女性名、また姓。原義は「柱」で、ピラールの聖母にちなんで人名に用いられるようになった。

 ピラールの愛称は Pily という形が一般的なようである。
 
 さて、映画の中でピラーがロベルトとの会話の最後に「イングレス」と言っていた。エディ-・マーフィーが「~、man」というようなものである。日本語字幕では“man”は訳されないが、「イングレス」も日本語字幕には訳語は現れなかった。
 「イングレス」というのは「イギリス人、英語」という意味のことば “inglés" である。ロベルトはイギリス人ではなく、アメリカ人なのだから “inglés" ではなく、“americano” でなくてはならない。しかし、イギリス人にしろ、アメリカ人にしろ、英語 “inglés" を話すのだから、細かいことは気にしなかったのだろう。

 次に「エルソルド」または「ソルド」という登場人物について述べる。これは本名ではない。スペイン語表記すると、“El Sordo”、“Sordo” で、英語にすると “(The) deaf” で、「聴覚障碍者」という意味である。当然映画の中でも耳が遠い人物として描かれている。
 で、日本語字幕はどうなっているかというと、翻訳しないで、カタカナで「エルソルド」、「ソルド」となっていた。映画の本筋とはあまり関係がないので、それでもかまわないのだが、日本での公開当時(1952年)は今では差別用語とされている「つ〇ぼ」と訳されていたのではないかと推測する。字幕としては「聴覚障碍者」よりは「エルソルド」の方がましであろう。
 
 原作者のヘミングウェイはキューバともゆかりが深いので、ヘミングウェイ研究者にとってはスペイン語学習は必須であろう。『誰が為に鐘は鳴る』に限らず、西部劇でもアメリカ先住民(昔は「インディアン」と言っていたものだが)がスペイン語を話す場面がある。英語学習も大事だが、ある程度英語を習得したら、是非簡単なスペイン語でいいから、学習してほしいものである。   


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ドゥエンデ(duende、小人) 

2021-08-17 13:13:20 | コスタリカ
 メキシコ時代の友人が書いた作品をご紹介します。さまざまな資料を基に再構築した武蔵です。是非ご一読ください。『巌流島の決闘』はあっと驚く結末です。
   
 コスタリカの昔話にはドゥエンデ(duende)というコビトもよく登場する。コビトといっても、『借りぐらしのアリエッティ』ほど小さくはない。アリエッティのサイズだと、英語では fairy, elf などと呼ばれるようだが、コスタリカのコビトはもっと大きい。ディズニー・アニメ『白雪姫』に出てくるコビトと同じぐらいのサイズである。これは英語では dwarf と呼ばれるようだが、スペイン語では duende となる。

 【wiktionary: duendeより】

 小学館『西和中辞典』によると、ドゥエンデは以下のように記述されている。

 1 お化け、小悪魔、(家つきの)小鬼、座敷わらし、小妖精
 2 いたずらっ子、腕白小僧
 3 魔力、デーモン、抗しがたい〔妖しい〕魅力
 
 語源は古スペイン語「家長」(duen de casa)とのこと。duen は今では dueño(主人)という形になっている。
 コスタリカの duende はだいたい、「(家つきの)小鬼」である。
 物語に登場する duende は男ばかりで、大体が中高年である。『白雪姫』に登場するコビトと全く同じである。 
 ドゥエンデについては、大阪大学の池田光穂教授による記事『いのちの民俗学(10)』に詳しいので一読をお勧めする。その中で、 duende の女性形は duenda と書かれているが、筆者はこれまで duenda という語にはお目にかかったことがない。
 記事の中で、ドゥエンダが人間の男に惚れ込んだ話が紹介されているが、池田教授は青年海外協力隊員としてホンジュラスに派遣されていたので、この話の舞台はホンジュラスだと思われる。似たような話はコスタリカにもあるだろうが、筆者の知る限りでは、人間の男に惚れ込んだのは幽霊または魔物で、ドゥエンダとは呼ばれていない。
 ところで、ドゥエンデは日本の座敷わらしのようなものらしいので、なかなか人目には触れないが、小さな子供には見えることがあるようである。
 女房殿も子供のころ、コビトが部屋の中を通り過ぎていくのを見たと言っている。そのことを母親に話すと、それはドゥエンデだろうと答えたそうである。しかし、コビトを見たのは後にも先にもそのときだけとのこと。
 また、女房殿の妹が幼いころ、ほかに誰もいないのにあたかも誰かと話していたような様子をよく覚えている。それが子供の想像によるものなのか、はたまたドゥエンデと話していたのかは、わからない。
ドゥエンデについての話は「コスタリカ伝説集」(国書刊行会)にいくつか収録されているので、そちらをご覧いただきたい。
  


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