円海の解説~比叡山と東北をつなぎ不滅の法灯を守り続けた天台僧

太田先生

円海とは

戦国時代と切っても切れない寺社の一つに比叡山延暦寺がありますが、織田信長による焼き討ちを受けた際に、建物だけでなく重要なものを失っています。それは、最澄(伝教大師)が本尊の前に灯して以来、ずっと絶えたことがなかった“不滅の法灯”で、戦で法灯を失した延暦寺は、苦境に立たされました。そんな延暦寺の窮地を救ったのが、本項で紹介する天台宗の僧侶・円海(えんかい)です。

円海は生年も出自も詳細にはわかっておらず、村山定顕と言う人物の子として生まれたこと、立石寺の貫主である実雄に師事した事がわかっています。研究者の山口博之さんによると、天文13年(1544年)に彼の書いた置文に当時27歳だったことが記されたことから、永正14年(1517年)の生まれとして計算されています。

師僧の一字をもらって実範と名乗っていた若き円海が歴史の表舞台に現れたのが、天文12年(1543年)に延暦寺から立石寺への再分灯が行われた時のことです。大永元年(1521年)、伊達氏に加勢したかどで立石寺は天童氏による兵火を受け、開山である慈覚大師・円仁が延暦寺から貰い受けた法灯が消えたままでした。


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不滅の法灯を求めて

それを嘆いた円海を助けたのが最上義守の母・春還芳公尼(義母説もあり)で、彼女の助力を得て比叡山に馳せ参じ、めでたく根本中堂の法灯を貰い受けることに成功したのです。その帰路も多難であったらしく、荒れる日本海を越えての旅路でした。

こうして立石寺の法灯を蘇らせた円海でしたが、彼の名が再び仏教史に記される事件が28年後の元亀2年(1571年)に起こりました。覚恕法親王が座主を務める比叡山が、対立した織田信長によって焼き討ちを蒙り、その法灯が失われてしまったのです。その後、豊臣秀吉が復興の許可を冷えいざ院に与え、正親町天皇後陽成天皇も綸旨を賜るなどして、一度は衰微した比叡山の再興が進む中、根本中堂の御本尊と法灯を外部から移す企画も立ち上がります。

その法灯を復活させることに白羽の矢が立ったのが立石寺で、かつて分灯された恩に報いようとしたのでしょう。円海は法灯を比叡山に“返還”するように要請された際にそれを快諾して準備に取り掛かるものの、うち続く戦乱や城下町の火災で立石寺の事業は遅々として進まず、天正17年(1589年)に円海が比叡山の根本中堂に灯火を届けて完成しました。

遅れはあったものの不滅の法灯を再興させる偉業を成した円海と立石寺に対し、最上義光は田畑の寄進や納経堂の修造、比叡山からは執行法印・豪盛が立石寺繁栄を祈念した置文をしたためるなど、多大な恩恵を以て報います。

その足跡は法灯と共に

円海の活躍は不滅の法灯復活のみにとどまらず、法灯を納める事に先立つ天正12年(1548年)に最上氏の攻撃で天童頼久が敗走してその家臣が立石寺に亡命した折にも決して彼らを義光へ引き渡さず、50騎はいたと言う将兵の命を救いました。また、最上氏に代わって山形藩主となった鳥居忠政が元和9年(1623年)に領内の検地を行った折に立石寺の領地を冒したことに円海が抵抗しています。

先述した伊達市への加勢に加えてこれらの事績をみると、本願寺や延暦寺とその指導者達に及ばずとも円海と立石寺が武将達にも屈しない勢力を持っていたこと、一方で敵対した天童氏の家臣であろうとも窮すれば匿い、救済する度量の大きさを持っていたことが伺えます。


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山形藩主との一件から20年後の寛永11年(1634年)、円海はその生涯を終え、弟子達によって荼毘に付された遺骨は開山堂千丈岩窟に納められました。享年は118歳と言われています。円海の肉体は滅びましたが、彼が戦国の乱世に残した業績は、不滅の法灯と共にこれからも輝き続けていくことでしょう。

参考文献・サイト

天台僧一相坊円海の時代
山形県ホームページ
宝珠山立石寺

(寄稿)太田

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