三浦胤義の解説~承久の乱で運命が分岐した三浦義村の弟

太田先生

三浦胤義とは

三浦胤義(みうら‐たねよし)は、13人の合議制に参画した三浦義澄の末子(九男とも)として生まれました。生年は定かではありませんが、伊藤祐親の娘を母としている事と、同母兄弟には北条義時の従兄弟にあたる三浦義村がいる事が判明しています。

胤義が歴史の表舞台に登場するのは元久2年(1205年)に勃発した畠山重忠の乱、並びに牧氏事件の時で、それまでの間に元服すなわち出陣できる年齢になっていた可能性があります。建暦3年(1213年)の和田合戦では猛将・和田義盛の一族と戦って勲功をあげ、その5年後に源実朝が左大将を拝賀した際には衛府のひとりとして“平九郎右衛門尉胤義”として名前が記されるほどに名高い武人となったのです。

他にも、時期は不明ですが京都で検非違使判官に任ぜられた時期もあるなど、胤義は有力御家人・三浦氏の一族として精力的に活躍していました。また、胤義は源頼朝の右筆として仕えた一品房昌寛の娘で、かつては源頼家の側室だった女性を妻として愛していましたが、それは後述する大事件の一端になったとも言われています。

討幕計画に加わる

このように胤義は在京することが少なくなかったらしく、軍記物『承久記』によると上洛していた彼と、鎌倉討伐の志を抱く後鳥羽上皇の家臣・藤原秀康が出会って謀反について語ったとされています。文学作品なので完全な史実とは言い切れませんが、『承久記』慈光寺本によると、胤義が三浦や鎌倉の地を捨てて京都で宮仕えしている訳を秀康に述べるのですが、抄訳すると以下の通りです。


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“自分の妻の前夫である頼家公は北条時政、その子供である若君・禅暁殿も義時に殺されており、自分と再婚した後もそれを嘆いて暮らす妻をかわいそうに思っていました。どんなに金を積もうとも命より尊いものはなく、断ち切れぬ宿縁にあったからには命も惜しくはありません”

つまり、胤義は愛する妻を苦しめた北条が支配する鎌倉に一矢報いるべく京都にいたとされており、一方では京都で御所などを警備する大番役で在京していたとする異本(古活字本)もあり、『承久記』の記述だけでも胤義が討幕計画に加担した背景は明確ではありません。いずれにしても藤原秀康らと共に後鳥羽上皇の倒幕に加わることになった胤義は、朝廷軍の軍議にも参加するようになっていきます。

倒幕に対して胤義は容易に達成できるとみていたらしく、朝敵となった義時に味方するものは1000人にも満たないであろうと発言し、兄の義村に対しても“嗚呼ノ者(おろか者)”と述べて愚兄扱いし、かつては源頼朝も任ぜられた日本国惣追捕使の位を与えれば味方になる、と豪語しています。

しかし、その計画は義村が弟の使者を追い返し、院宣を持った押松と言う人物を捕えて院宣を義時に通報したため、失敗に終わりました。そればかりか、義時の姉である北条政子は胤義を秀康と並ぶ逆臣として糾弾、名を惜しむならば彼らを倒して鎌倉を守るべきであると演説し、鎌倉勢の士気向上を図ったのです。

政子の演説、そして上皇が兵のみを送るならば全力で戦うことを決めた義時と泰時に味方する諸国の武人達は幕府に味方し、19万騎もの大軍で京へと攻めのぼります。藤原秀康や大内惟信、大江広親、そして胤義は朝廷軍を率いて戦うも衆寡敵せず、朝廷軍は瓦解しました。


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京の地で兄と対峙、そしてはかなく果てた義胤

更に不運は重なり、後鳥羽上皇の裏切りで乱を引き起こしたと逮捕の院宣を出され、今度は自分が追討される身となった胤義は東寺に立てこもります。生き残った京方の武士らと鎌倉勢に抵抗を試みるも敵わず、武運尽きた胤義は西山の木嶋(京都市右京区太秦)で2人の子と共に自害したのでした。享年は不詳、東国に残してきた子供達も長子以外が処刑されたと伝わります。

『承久記』慈光寺本によると、自害する前に東寺で胤義は兄の義村と再会したと記されており、
「自害しようとしていましたが、私は兄さんに会いたくてここに来たのです」
と呼びかけますが当の義村は、
「おろか者と話しても無益なことだ」
と突っぱねて立ち去ったと言います。一方、前田本では胤義の最期を知った義村はその首を抱いて泣き、生き残った妻子を招いて慰めてやり、僧侶を呼んで仏事を行ったと記されており、いずれの異本も胤義と義村の兄弟愛、肉親の情が敗れゆく者の悲哀と共に描かれています。

三浦胤義は活躍した時期こそ長くはないものの、鎌倉幕府の初期における内戦の数々、とりわけ承久の乱に関わるキーマンのひとりであり、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも兄の義村(演:山本耕史さん)、父の義澄(演:佐藤B作さん)とともに三浦氏を支えた胤義を、岸田タツヤさんが演じられます。陰ながら時代を動かす一因となった坂東武者の活躍に期待したいところです。


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参考サイト

吾妻鏡を読む

承久記の三浦胤義 

(寄稿)太田

大田先生のシリーズを見てみる
大江親広の解説~幕府に反旗を翻した大江広元の長男

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