2020年10月4日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(5) -竇皇后(iii) 薄氏(追補)

 竇皇后関係ではまだ偉くなった人がおります。竇皇后の従昆弟(小竹さんの訳では“いとこ”と振り仮名されています。)の竇嬰(トウエイ)で、魏基侯に封ぜられています。外戚としての竇氏から侯になれたのは竇氏の兄弟二人と従昆弟一人の合計三名です。

もっとも竇嬰の場合は、初めは竇太后に疎まれて遠ざけられていました。疎まれた原因は合伝である竇田灌韓伝第二十二に出ています。なおこの竇田灌韓伝第二十二では竇嬰は竇皇后の従兄弟の子と書かれています。

さて竇太后は景帝の母ですが、景帝の弟である梁の孝王をとてもかわいがっていました。景帝がまだ太子を立てていなかったころ、景帝は酒宴で気まぐれに、自分のあとの位を譲ろう、と言います。これは専制君主としては非常に軽率な発言というものです。でも竇太后はこの景帝の言を喜びました。

しかし竇嬰はこれをとがめて、天下は高祖のものであり、父子相伝が漢の決まりであります。どういう根拠で梁王に伝えることができるのですか、と言いました。このことで竇太后は竇嬰を憎んだのだそうです。

さて、呉楚七国の乱が起こったとき景帝が宗室、外戚の人材の中で竇嬰が優れているとみて大将軍に登用しました。竇嬰もこれにこたえて人材を登用し、乱の鎮圧に功により魏基侯になったので、あながち皇后の血筋だけで侯になったというものでもないです。

竇嬰は武帝の代になっては丞相にもなりましたが政治上の争いに巻き込まれ結局誅殺されています。

 

以前呂氏が滅ぼされた時に皇帝として代王が選ばれ文帝として立つことができたのは、母の薄氏の実家が勢力家ではなく、薄氏自身も影の薄い人だったということからでした。しかしその影の薄い薄氏(薄太后)も自己主張をしたのです。文帝の子供の景帝(薄太后から見れば孫)の妃に実家の薄家の女を選ぶことを強く望んだのです。薄氏は自分の実家から皇后を出したかったのです。

しかしこれは不幸な結果を生みました。その選ばれた女性は皇后に立てられたのですが、景帝に寵愛されることもなく、子供もできませんでした。後ろ盾の薄太后が亡くなると、皇后を廃せられてしまいます。彼女には外戚家のメリットなどなく、みじめな運命を負わされたのではないでしょうか。




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