2014年08月29日
2014年08月09日
長崎は晴れだった
2014年08月01日
2014年05月13日
長期滞在の山形
2014年05月11日
あなたと再会したい
ブログ更新休止中でしたが、しんどくならないぐらいで再開することにした
休止中は、
大阪・千葉・東京・山形・福島・秋田・青森・北海道とかもろもろ行ったんで、そんな思い出話をこの機に記して行きたいような気がしてます。
ムリしないんで短編でグダグダしますんで、おつきあいください。
休止中は、
大阪・千葉・東京・山形・福島・秋田・青森・北海道とかもろもろ行ったんで、そんな思い出話をこの機に記して行きたいような気がしてます。
ムリしないんで短編でグダグダしますんで、おつきあいください。
2014年01月02日
2014年のこんにちは
2013年09月04日
私の2011年3月11日金曜日
NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」で東日本大震災のシーンがあり、それを視て、私の2011年3月11日〜12日にかけての記憶を掘り起こしておきたいと思ったので、ここに記す。
2011年3月11日(金)は公休日。当時の私は、岡山〜小豆島を結ぶフェリー会社に所属していた。この3日前にそんな会社を退職する意思を、伝えたばかりだった。花粉症でしんどかったこともあり、休みとは言えど、気持ちのいい休みではなく、10時に目が覚めた。
11時に生命保険の外交員の定期訪問の約束があり、保険の勧誘は適当にあしらった。
12時、フジテレビの「笑っていいとも」のオープニングで新宿を映しているのを見て、「東京は曇りか」と思いながら、外出。
海を見ながら、ゆっくりしたいなと思いながら、大学時代の先輩を誘って、岡山県笠岡市の寄島の海岸へ。
海岸へ着いた頃、14時46分東日本大震災が起きていた。
岡山は震度1、揺れには気づかなかった。
地震に気づくのは、「岡山に津波注意報が出た」という母親からのメール。
当時は港で仕事をしていたので、心配して送ってきたようだった。
即海岸を出て、車のテレビで災害情報を仕入れる。とんでもないことが日本に起きたことを感じた。小学生の頃に「津波ものがたり」という本で読書感想文を書いた事から、過去の三陸での津波災害の壮絶さは、人より分かっていた。また、高知など太平洋岸にも大きな被害を及ぼすことも分かっていた。どんな事が起きる可能性があるのかが、どんどん頭の中に出てきた。
山陽マルナカ新倉敷店の家電売り場のテレビで、仙台平野の川を遡る津波の映像を見て、これはヤバイと思った。
港の職員に電話をして、港の状況を聞く。フェリーは運休していた。
当日、ある自社船が東京に向かって航行中で、地震直後は伊豆半島の近くを航行中であった。
その安否が気になって、会社へ行くことに決めた。
会社へ行く途中、家に寄り、毛布数枚とマットレス・水・明日の着替えを持って、会社で夜を明かすことを考えた装備を持って、会社へ。
17時前、会社へ行くと、フェリーは運休し、運航情報を求める電話が相次いでいた。
その時点では、最終便は運航するという案内をしていたため、旅客や車輌が港へ滞留。
想定外だった。この言葉で逃げることは簡単だが、判断できない状況だった。
分からないとは思ったが、岡山の気象台に電話して、津波注意報の解除の見込みを電話したりした。結局分からなかったけど。
その後、11日中は運航しない方向に変わるが、このため旅客1名と車輌数台のお客様が港で夜を明かすことに、心あるパートさんが、おにぎりをコンビニで買ってきてくれたので、滞留した方におにぎりを配った。
旅客1名のお客様には、失礼なことをしたが、3月の寒い中一旦外に出てもらった。その後、フェリー乗り場建物内に戻ってもらい、持ってきた毛布を使ってもらった。
12日夜中。専務から気にかける電話があった。ワンセグで気仙沼が燃えているのと、仙台市若林区の荒浜地区で数百人の遺体を発見したという情報を仕入れた。東京に向かって航行中だった自社船は、津波に遭遇したが無事だった。
12日早朝。津波注意報発令中ながら、危険になったら即欠航をするという条件つきで時刻表どおり運航をするということで、通常運航開始。
12日は、朝から小豆島へ上陸。小豆島は、日本を揺るがす災害の最中というのに、普段通り平穏だった。みんな平穏に過ごすしかなかったのだろう。
2011年3月11日(金)は公休日。当時の私は、岡山〜小豆島を結ぶフェリー会社に所属していた。この3日前にそんな会社を退職する意思を、伝えたばかりだった。花粉症でしんどかったこともあり、休みとは言えど、気持ちのいい休みではなく、10時に目が覚めた。
11時に生命保険の外交員の定期訪問の約束があり、保険の勧誘は適当にあしらった。
12時、フジテレビの「笑っていいとも」のオープニングで新宿を映しているのを見て、「東京は曇りか」と思いながら、外出。
海を見ながら、ゆっくりしたいなと思いながら、大学時代の先輩を誘って、岡山県笠岡市の寄島の海岸へ。
海岸へ着いた頃、14時46分東日本大震災が起きていた。
岡山は震度1、揺れには気づかなかった。
地震に気づくのは、「岡山に津波注意報が出た」という母親からのメール。
当時は港で仕事をしていたので、心配して送ってきたようだった。
即海岸を出て、車のテレビで災害情報を仕入れる。とんでもないことが日本に起きたことを感じた。小学生の頃に「津波ものがたり」という本で読書感想文を書いた事から、過去の三陸での津波災害の壮絶さは、人より分かっていた。また、高知など太平洋岸にも大きな被害を及ぼすことも分かっていた。どんな事が起きる可能性があるのかが、どんどん頭の中に出てきた。
山陽マルナカ新倉敷店の家電売り場のテレビで、仙台平野の川を遡る津波の映像を見て、これはヤバイと思った。
港の職員に電話をして、港の状況を聞く。フェリーは運休していた。
当日、ある自社船が東京に向かって航行中で、地震直後は伊豆半島の近くを航行中であった。
その安否が気になって、会社へ行くことに決めた。
会社へ行く途中、家に寄り、毛布数枚とマットレス・水・明日の着替えを持って、会社で夜を明かすことを考えた装備を持って、会社へ。
17時前、会社へ行くと、フェリーは運休し、運航情報を求める電話が相次いでいた。
その時点では、最終便は運航するという案内をしていたため、旅客や車輌が港へ滞留。
想定外だった。この言葉で逃げることは簡単だが、判断できない状況だった。
分からないとは思ったが、岡山の気象台に電話して、津波注意報の解除の見込みを電話したりした。結局分からなかったけど。
その後、11日中は運航しない方向に変わるが、このため旅客1名と車輌数台のお客様が港で夜を明かすことに、心あるパートさんが、おにぎりをコンビニで買ってきてくれたので、滞留した方におにぎりを配った。
旅客1名のお客様には、失礼なことをしたが、3月の寒い中一旦外に出てもらった。その後、フェリー乗り場建物内に戻ってもらい、持ってきた毛布を使ってもらった。
12日夜中。専務から気にかける電話があった。ワンセグで気仙沼が燃えているのと、仙台市若林区の荒浜地区で数百人の遺体を発見したという情報を仕入れた。東京に向かって航行中だった自社船は、津波に遭遇したが無事だった。
12日早朝。津波注意報発令中ながら、危険になったら即欠航をするという条件つきで時刻表どおり運航をするということで、通常運航開始。
12日は、朝から小豆島へ上陸。小豆島は、日本を揺るがす災害の最中というのに、普段通り平穏だった。みんな平穏に過ごすしかなかったのだろう。
2013年09月03日
モンテディオ山形さん
2013年09月02日
8月8日緊急地震速報を受信して何をしたか
2013年8月8日夕方の緊急地震速報の時どう行動したか。
そのころ私は、車の運転中。
車通りの少ない県道を走っていると、ラジオとスマホから緊急地震速報同時発令。
後方を確認しつつ、ハザードランプを点滅させ停車。
揺れに備えようとしたが、目の前に電柱、しかも土手に停車。
電柱倒れる。土手崩れる。万が一を想像した。
周りの車は普通に走行。歩行者は携帯やスマホを見ながら事態がどうなっているのか気になっている人が居た。
3分くらい経っても揺れは来ないので、車を発進。
誤報とわかって安心したが、災害はいつ起きるか分からないし、どこで遭遇するか分からないことを改めて認識できた。
南海トラフで地震が起きれば、このような緊急地震速報が発令されるだろう。
その時、どう行動するのか考える防災の日の次の日。
2013年09月01日
呉市交通局を懐かしむが、新居浜市営バスが気になる
四国・中国地方で公営バス(交通局)が残っている都市は、
【徳島県】徳島市交通局・鳴門市企業局運輸事業課・小松島市運輸部
【島根県】松江市交通局
【山口県】岩国市交通局・宇部市交通局
過去には、新居浜市(1965年迄)・倉敷市(1989年迄)・尾道市(2008年迄)・三原市(2008年迄)・呉市(2012年迄)・山口市(1999年迄)が公営バスを運営していた。
財政難やら諸々の理由で解散したり、民間バスへの移管が行われ、それぞれの都市から公営バスは姿を消した。
広島県では、私が広島に住んでいる間に呉市交通局が無くなった。
広島市まで乗りいれてきていたので、時折見れる青いバスは新鮮だった。
でも車両は広島市内のバスに比べて、ボロかったような。
今は呉市を走るのは、広島電鉄の緑のバス。
こんな記事を書こうと調べてる間に、気になったことがある。
戦後の新居浜市の公営バスは、1948年〜1952年まで電気バスなるものを導入していたこと。
推測ではあるが、住友財閥の礎となる別子銅山が、新居浜市にあり、住友系に電気バスを作れそうな企業があり、そういう関係で導入しそうな気がする。(あくまで私の仮説です。)
但し、当時の電気バスは、ガソリンバスより遅かったようで、新居浜市おいては、ライバル瀬戸内運輸のガソリンバスに、新居浜市の電気バスが追い越されるという事態が起きていたらしい。
時代を先取りしすぎたようだ。
【徳島県】徳島市交通局・鳴門市企業局運輸事業課・小松島市運輸部
【島根県】松江市交通局
【山口県】岩国市交通局・宇部市交通局
過去には、新居浜市(1965年迄)・倉敷市(1989年迄)・尾道市(2008年迄)・三原市(2008年迄)・呉市(2012年迄)・山口市(1999年迄)が公営バスを運営していた。
財政難やら諸々の理由で解散したり、民間バスへの移管が行われ、それぞれの都市から公営バスは姿を消した。
広島県では、私が広島に住んでいる間に呉市交通局が無くなった。
広島市まで乗りいれてきていたので、時折見れる青いバスは新鮮だった。
でも車両は広島市内のバスに比べて、ボロかったような。
今は呉市を走るのは、広島電鉄の緑のバス。
こんな記事を書こうと調べてる間に、気になったことがある。
戦後の新居浜市の公営バスは、1948年〜1952年まで電気バスなるものを導入していたこと。
推測ではあるが、住友財閥の礎となる別子銅山が、新居浜市にあり、住友系に電気バスを作れそうな企業があり、そういう関係で導入しそうな気がする。(あくまで私の仮説です。)
但し、当時の電気バスは、ガソリンバスより遅かったようで、新居浜市おいては、ライバル瀬戸内運輸のガソリンバスに、新居浜市の電気バスが追い越されるという事態が起きていたらしい。
時代を先取りしすぎたようだ。