タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

配信アプリREALITYで知り合った友だちの紹介とアバターのイラスト。今回紹介するのはユウ/You さんです。普段はYouと呼んでいる、現在新高校一年生の女の子です(以下普段通りに呼び捨てで書きます)。

 

 

Youを紹介する前に、まず、ここ最近の小生の配信アプリREALITYでの近況について書きます。

3月12日の記事で書きましたとおり、休止宣言をしてから約1年半を経て新しいアカウントで、この4月1日から再開しました。新たなアカウントのアバターは下の画像の姿で、今までして来なかった毎日配信を、既に1ヶ月以上にわたって継続中です。

 

 

4月1日の新アカ初配信は3時間たっぷりして、視聴者15人とスタートとしては100点とは言えない結果になったこともあり、強化のために新アカウントでの枠まわりも再開。今回依頼をイラスト依頼を承けたYouさんはその枠まわりで知り合いました。Youさんの初配信に小生がお邪魔をして相互フォローになったのです。

その後、Youは小生の配信によく来てくれるようになり、小生もYouの枠に行くことも多くなり、小生にとって新アカで最初の、そして一番の親しい間柄になれたのです。Youの最初のフォローも初コラボの相手も小生となりました。

 

 

Youは関西在住(滋賀県)で、大阪在住の小生とコラボでしゃべると、普段小生はあまり使わない大阪弁がいっぱい出て、すごく気心が知れたって感じで話すことが出来ていいのです。

そんなYouさんですから、新アカウントで知り合った人最初のイラスト依頼もトントン拍子で話が進みました。

イラストはこれまで通り二枚かくことに。当初は実際に彼女が着ている学生服で描こうかなんて話もありましたが「学校から怒られるかも」ということも気になって、一枚目はベッドの上でパジャマ姿でまとまりました。パジャマはREALITYのデフォルト(初期標準)のこのパジャマで描くことになりましたが…

 

 

You談によると、彼女はリアルで愛用しているのも黒のパジャマなのだそうで、REALITYのパジャマをベースに、実際に彼女が着ているパジャマの再現を試みました。彼女の話によれば、アバターのような白い線は無くボタンも黒という、無地の真っ黒なパジャマだそうで、イラストはその話に則って描きました。

また、ベッドはREALITYのルーム機能のベッドをイラストに起こしました。Youの話によると、「上ふとんの色目は、REALITYと似ている」ということで、彼女のリアルな生活感を少しでも出せたらと思いました。

 

 

リアルの話はさらに進み、Youから「ミケムラさんの抱き枕をいつも抱っこしてる」という情報も。ぬいぐるみメーカー山二のマスコットということで、これもイラストに描きましたが、そのまま描いたら権利の問題とかいろいろあるので、いつも通り似て非なる感じにしました。

また、加えて「壁にアザラシの写真が掛けてある」という話も。どんな写真かをYouは、配信中にルームのキャンパスにイメージを描いて見せてくれました。

 

 

いっぱい提供したくれた情報を元に、描いたのが下のイラストです。リアルなYouの生活感出せたらという気持ちを持って描きました。

 

 

ちなみに、Youのアバターがかぶっているのはガチャで当たったウィッグ。彼女は初配信前にガチャを回してこのウィッグを当てたそうで、初配信時にはすでにかぶられていたのです。だから、デフォルトの髪型を誰も見たことが無いのです。

また、たまに黒縁メガネをかけてますが、リアルYouも視力が悪くて普段眼鏡をかけているということです。リアルを追求するとメガネをかけさせた方がいいんでしょうが、女子は「限界まで可愛くが鉄則」というのが依頼イラストのお約束なので、メガネは無しにしました。

 

そして、二枚目のイラストですが、新体操を題材に描く打ち合わせになりました。

Youは小中学生の時には新体操をされていたそうで、経験者として新体操には思い入れがあるというとのこと。イラストとしても映えると思って、面白そうと描かせてもらいました。

…と言っても、小生は新体操の知識は皆無で、小生がYouからいろいろ教えてもらうことになりました。まず衣装となるレオタードですが、小生の新体操のレオタードのイメージと言えばこんな感じだったのですが…

 

画像引用:YAHOO!フリマ

 

Youが拾って来てくれたサイトで見せてくれた、レオタードはこの二枚の画像でした。

肌色のレオタードの上からスパンコールや花飾りいっぱいの、ドレス調というコスチュームに最近はなっているんですね。新体操も進化しているのだなと感心してしまいました。

 

 

 

画像引用 左:Mash Leotard 右:オリンストーン

 

Youからは「どっちもかわいい。どちらにするかタクヤさんのセンスで選んで」と言われまして、結局どっちか一つでは無く、両方のいいところをミックスしたオリジナルのレオタードにしました。強い色も欲しかったので、紫と青に加えて赤も入れてみました。

 

そしてどんなポーズを取らせるかですが、Youからは「今は出来るかどうかだけど、バックルでリボンの演技」という指定が。もちろん小生は知らない用語で、Youから詳しく教えてもらいました。バックルとは…

 

片足で立ったまま、もう片方の足を後ろから受け止めるボディワーク要素の一種(スカイ・グレースHPより)

 

画像引用:スカイ・グレースHP

 

これまで描いたイラストとは全然違うポーズに、苦戦しながらも楽しんで描きました。ただ、ポーズもそうですが、もっとこだわりたかったのはYouのアバターの身体のプロポーションです。彼女のアバターは、背も高く胸のサイズも割と強調されていまして、小生からは「アバターの姿を再現するけど、イラストもそれでいいの?」とYouに聞いてみたところ…

 

 

Youが言うには「私は身長170cm、リアルのバストサイズもこのアバターくらいよ」と、朗報が。それならレオタード姿ということもあり、徹底的にグラマーに描いてみようかなと決めました。ただYouからは「腕は足先は細いから、そこはちゃんと描いて」という注文も入っています。

そこで取ったのはまず着衣の無いヌードでアバターを描いてから、後から服を着せるという方法です。ヌードのままで彩色まで完成させた後、レオタードを着せたのです。なので作業途中の絵はここには載せられませーん。

 

 

このやり方は昨年12月19日に記事をアップした猫咲みあさんのブラジリアンビキニのイラストでも取っていますが、この時は水着を着せるときにボディラインが隠れるようにしています。

それに対して今回のYouの新体操イラストでは、裸の上からボディペインティングのように衣装を重ねるという感じで、レオタードの下のボディラインがそのまま残るような描き方をしました。ネットで調べたセクシーレオタードのイラストでこのような技法が取られているのを見て、小生もやってみました。

 

そうして仕上げたのが下の画像です。どんな評判が来るか楽しみであります。

 

 

ちなみにユウ/Youというのは後から改名した名前で、彼女が最初に付けていた名前は『ユウカ』でありました。…そう、このブログで何回か紹介をしている現在事実上の相方の 大橋ゆうかと同名だったのです。「自分はよほど“ゆうか”という名前の女子と縁があるなぁ」とこの偶然の一致に感慨深くなって、現在二人のゆうかのために、曲のタイトルに『ゆうか』と付けた歌を書く予定をしています。

今回は意を決して作った新アカで最初に親しい仲になったYouを紹介しました。前アカでは過疎状態が続いて意を決しての新アカでしたが、そのスタートでYouと出会えたのはとても幸運なことだったと思います。

自分としてはこういう出会いを大事に大事にして行きたいですね。

 

 

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今回紹介するのは、京都府木津川市山城町の蟹満寺(かにまんじ)で4月18日に行われた『蟹供養放生会』のレポです。

蟹供養放生会は4月18日のことでしたが、実は蟹満寺へは昨年11月3日に参拝を一度させていただいていたのです。木津川市の蟹満寺はいわゆる南山城の古刹寺院で、昨年7月26日に鑑賞をし、8月17日の記事で紹介をした奈良国立博物館での特別展『聖地 南山城』で地域ナンバーワンの名宝・白鳳時代造の銅造釈迦如来坐像のことを知り、早々と南山城の白鳳仏を拝みたいと拝観をしたのです。

本当ならももっと早くに紹介すべき蟹満寺でしたが、その拝観の折りに4月の蟹供養放生会のことを知りまして、「蟹満寺のことは蟹供養放生会のレポをして、その時にブログで紹介をしよう」と、ここまで拝観レポを留保していました。この記事では今年4月18日の蟹供養放生会を中心に、併せて昨年11月の参拝の模様を併せたレポをしていきたいと思います。

 

蟹満寺とはユニークな山号の寺院ですが、実際にその由緒はカニと深い関わりがあります。それについては後述します。海の無い南山城で“蟹満寺はカニの寺”という触れ込みを地元ではされているようで、最寄り駅であるJR奈良線 棚倉駅にはカニのレリーフが。カニのお寺の里として地元を上げて盛り上げているという感じでした。

 

 

棚倉は最寄りの駅ですが、蟹満寺へ行くには棚倉駅からは1.5kmほど歩かないといけません。昨年11月には岩船寺や当尾の石仏群にも行ったので自家用車で行きましたが、4月18日は蟹供養放生会だけが目的だったので、電車を使って行ったのです。

 

 

途中、車と人がすれ違え難いような細い道もある中を、ダブルカメラをぶら下げて歩くこと30分、蟹満寺に到着しました。

決して広い境内を持たない蟹満寺ですが、本堂には五色の幕が張らていたり『蟹供養放生會』と書かれた登りが掲げられていて、すっかり法要の華やかな雰囲気となっていました。

 

 

 

 

ちなみに、下の画像は昨年11月3日の普段の日に撮影した蟹満寺の本堂です。ここから少し蟹供養放生会から離れて、蟹満寺というお寺について昨年の参拝レポと併せて書いてきます。

 

 

小生が参拝をした秋は『木津川市2023秋の特別公開』として、九相図などが公開されていると聞いて、白鳳仏の釈迦如来像と併せて拝観しようと訪れました。今年の蟹満寺は曇って日差しの無い一日となりましたが、昨年の蟹満寺は日差しがまぶしい快晴でした

 

 

山門の脇には鎌倉時代後期の十三重塔がひっそりと立てられていました。

 

 

蟹満寺は江戸時代初期に真言宗智山派の寺として再興され、厄除けの寺として信仰を集めて来ました。十三重の塔を横目に正面参道を通って、本堂に入ります。

本堂で特別公開されていた九相図ですが、九相図については図録もパンフレットにも解説は無く、現地に特に説明はありませんでした。ここで画像も説明もここでは省くことになります。『九相』とは複数の経典に書かれている、死体が腐り朽ちてゆく様を説いたもの。現世の肉体が不浄な物体であり肉体に執着する生への固執を諭すための教えです。本堂は江戸時代初期の建立ですが、平成22年に新築同様の大改築がされ、見た目にはピカピカの新築。堂内の須弥壇も無垢の白木が真新しくてきれいでした。

 

画像引用:KYOTO SIDE

 

本尊は『釈迦如来坐像』、像高240cmのいわゆる丈六仏(立った丈が1丈6尺(485cm)、座った丈が8尺(243cm))です。

年代は1300前の白鳳時代造とされ、かつて白鳳時代には多くの寺院の本尊として作られた銅造丈六仏でしたが、完全な形で現存するのはここと薬師寺の薬師如来しか無いという貴重な古仏。その芸術性もあり、国宝に指定されています。特別公開があるということで選んできた蟹満寺ですが、奈良国立博物館の特別展『聖地 南山城』でも出展されなかった、南山城の名宝中の名宝である釈迦如来坐像がお目当で参拝したというのが本音です。

 

画像引用:奈良国立博物館『特別展 聖地 南山城』図録

 

平安時代に罹災した後が痛々しく残っています。この仏像がいつどこでどういう目的で造像されたのかは記録が無く、現在も諸説議論が行われています。

 

画像引用:古寺巡礼 京都南山城の仏たち(京都 南山城古寺の会編・東京美術刊)

 

平成17(2005)の発掘調査で本尊の台座は白鳳期のものという調査結果が出たので、現在のお寺の由緒にも「白鳳時代からの本尊、不動の旧仏」と書かれています。しかし、平成20(2008)年の再調査で本堂下から江戸時代の地盤が発見され、不動の旧仏の可能性は薄くなりました。

また、蟹満寺に伝わる由緒の多くは観音菩薩の霊験にまつわるものばかりであり、元の本尊は観音菩薩だったようです。…となると、いつから白鳳時代の釈迦如来像が蟹満寺の本尊になったのか、この釈迦如来像は元はどこにあったのか。新たな謎となっています。

戴いた御朱印も釈迦如来でした。

 

 

本堂では本尊の銅造釈迦如来坐像の他、聖観音菩薩像や如来型坐像などを拝観することが出来ました。聖観音菩薩像は像高141cmの木彫像。元の本尊とされ、昭和前期までは独立した観音堂が建てられていましたが、現在は本堂須弥壇右が安置場所となっています。この像は平安時代造ですが、当初から残るのは頭部のみで、ほとんどが後補となっています。

 

画像引用:蟹満寺パンフレット

 

如来型坐像は脱乾漆像を木彫で表現しようとした、あまり他に類の見ない技法で造られた像。奈良時代後期~平安時代初期の作と推定され、市の指定文化財となっています。昨年の奈良国立博物館での特別展『聖地 南山城』に、蟹満寺からはこの像が出展されました。

 

画像引用:蟹満寺パンフレット

 

蟹満寺の文化財を紹介すると以上となりますが、それよりもこのお寺の寺号『蟹満寺』こそがこのお寺の名物。「カニのお寺」それが蟹満寺の評判となっています。

海の無い南山城で何故蟹満寺か。学術的には蟹満寺がある綺田(かばた)という地名が古くは「かにはた」「かむはた」と読まれ、それが訛ったとするのが有力と言われています。しかし、寺はその縁起として「カニの恩返し伝説」というのを伝えています。以下、蟹満寺の縁起である、カニの恩返し伝説を紹介します。

 

昔むかし、南山城のこの地に観音信仰の深い父母と娘の三人家族がおりました。ある日その家族の娘が村に出掛けていると、村人がカニをいじめていたので、信心深い娘は命をいたわるようにと村人を諭し、家の糧を差し出してカニを助け逃がしてやりました。

その後日、家族の父が農作のために田に出ていると、ガマガエルを咥え、今にも飲み込もうとする蛇に出会いました。信心深い父もガマの命を救おうと蛇に命乞いを求め、その想いの末に「ガマを救えば、我が娘をおまえの嫁にやろう」という約束することに。ガマの命は救うことは出来ましたが、一家は蛇に娘を嫁がさねばならなくなってしまったのです。

家に帰った父は家族に打ち明け、蛇に備えて厳重な戸締まりをすることに。日没が近づいた刻を迎えて正装の貴公子が一家の家に。田での約束を果たすように一家に迫りますが、一家は厳重な戸締まりで対抗します。

すると貴公子は正体を現し、大蛇になって家を壊そうと激しく攻撃を繰り返して来たのです。絶体絶命の一家は家に閉じこもり、一心に祈ると観音菩薩が出現。「慈悲の心深く善良なそなたたちには、救いがあるだろう」と一家に告げました。

すると、大蛇が暴れていた家の外が、謀らず静かになったのです。恐る恐る一家は家の外に出ると一家がそこで見たものは…。

何万ものカニの死骸と、そのカニに切り刻まれた大蛇の亡骸がありました。いつか娘が救ったカニが、一家を助けるために加勢をして戦い一家を救ったのです。

観音菩薩の功徳と身を挺して一家を守ったカニのため、一家は観音菩薩を崇め一家を守ったカニの供養をするための寺を建立しました。それが蟹満寺の始まりです。

 

蟹の恩返し挿絵 引用:蟹満寺パンフレット

 

この奇譚は平安末期頃に編纂された『今昔物語集』の巻第十六に書かれているエピソードで、平安時代には既に蟹満寺がカニの奇譚の伝説を持つ寺であったことがわかります。

「カニの恩返し伝説の寺」として知られる蟹満寺は、とにかくカニの寺として有名。軒瓦や賽銭箱に見られる蟹牡丹の紋や、手水や蟇股に彫られた彫刻など、境内のいたる所カニ、カニ、カニ。カニをモチーフにしたデザインでいっぱいなのです。

 

 

 

 

話を今年の4月18日に戻しますが、そのカニの恩返し伝説にまつわる縁起を讃え、観音菩薩の功徳と創建の伝説にまつわるカニの供養を目的として行われるのが、毎年4月18日に行われる『蟹供養放生会』ということです。

放生会(ほうじょうえ)とは狩猟で捕獲した鳥獣を野に放ち、不殺生を戒めるという儀式。このブログでは奈良の興福寺一言観音堂の放生会を2015年4月16日の記事で紹介したことがあります。興福寺の放生会は金魚を猿沢池に放流するのですが、蟹満寺では境内南東隅に立てられた蟹供養塔と石造観音菩薩像にある手水鉢にサワガニを放流します。

 

 

蟹供養塔の所に立てられたのぼり旗をよく見ると、大阪の有名なカニ専門店『かに道楽』施主の文字が。

蟹供養放生会にはカニ業者をはじめ漁業関係・宿泊飲食業者など、全国のカニに関わる業者の協賛があり、参道や本堂の周囲には多くの関係業の奉賛のぼり旗が立ち並ぶのです。

 

 

蟹供養当日は本堂正面の扉が開放され、普段は拝観料を払って拝観をする本尊釈迦如来像を前庭から拝むことが出来ました。貴重な機会です。

…と言っても、この日だけは旧本尊だった観音菩薩が、事実上の本尊として法要が行われます。蟹満寺の聖観音菩薩は厄除け観音として家守りの霊験があると信仰を集めています。

 

 

 

本堂前には毛氈縁台が並べられ、さながら茶席のような雰囲気で参拝者を迎えられていました。以前は尺八演奏や抹茶接待も正午過ぎくらいからあったそうですが、コロナ禍以後は規模が縮小され午後2時からの本堂内の護摩法要の後、蟹供養塔での放生会だけとなっていました。

 

 

講の方には記念品もあったようですが、小生のような一般参加者には茶菓子のキットカットが配られました。

 

 

 

午後2時からの法要は堂内で行われます。法螺貝が鳴らされ厳粛な雰囲気の中、僧の列が正面から入堂されます。

 

 

蟹供養の法要は、本尊釈迦如来横の聖観音菩薩像前で真言宗らしい護摩法要が行われます。堂内に入れるのは招待された講の方のみなので、小生は前庭から法要の模様を伺うことになりました。

 

画像引用:KYOTO SIDE

 

30分ほどで法要は堂内での護摩法要から、蟹供養塔での放生会へと進行します。そして、このタイミングで放生会の主役、カニさんの登場。

場内にはカニを放生するためのプラスチックのカップは早くから置いてありましたが、ここでカニの入ったガラス水槽が持ち込まれ、中には何百匹ものサワガニが。持ち込まれたカニは一匹一匹、放生用のカップへと移されて行きます。

 

 

 

 

蟹供養塔の前には供え物として、立派なタラバガニが供えられます。(カニの供養に供え物がカニとは…)

 

 

 

そして、護摩法要が終わった僧侶の皆さんが本堂から出て来られて…

 

 

本堂前から山門前の席までのお練りとなります。法螺貝を鳴らし読経をされながら練り歩かれます。

 

 

そして、山門前で散華が撒かれます。

 

 

 

僧侶のみなさんは山門前の席に着席し、読経をして放生を迎えます。放生するのは一般の参拝者で、蟹供養塔の観音像の前に列を作ります。

 

 

放生をする参拝者は、列の最後尾に置かれた長机で受け取ったサワガニが一匹入った放生用のカップを受け取り、蟹供養塔前の水受け鉢に放すのです。

 

 

 

小さな手水鉢はたちまちサワガニで一杯に。池に放流すると生態系に影響すると思われてか、放生はこの小さな手水鉢ということですが、ここでは水槽と何ら変わらないということで、カニたちはみんな鉢の外に逃げようとゾロゾロと出てくるのでした。

 

 

観音菩薩の使いのように恩のある親子を大蛇から救ったという、カニたちを供養するという『蟹供養放生会』。「カニの恩返し」というユニークな伝説がこの行事を生み出したと考えると、この法要が語り部のように伝説を後世に伝える役を担っているのでしょうか。

去年の秋からずっと行きたかったこの法要、よい思い出となりました。

 

 

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當麻寺の『聖衆来迎練供養式』、奈良時代の伝説上の人物 中将姫が宝亀6(775)年旧暦3月14日に、西の空から出現した阿弥陀如来と二十五菩薩に導かれ、極楽浄土に旅立ったという伝承を菩薩面を被った演者による野外劇の形式で行う法要です。千年の歴史を持つとされ、国の無形文化財にも指定をされています。

小生も昨年の4月14日に本格的に見に行きました。今年は二年連続となります。

 

画像引用:タクヤNote 2023年4月22日記事

 

昨年の聖衆来迎練供養会式のことは昨年4月22日の記事で詳しく書いていますので、そちらをこの練供養の解説としてお読み下さい。また、當麻寺という寺院についてはおととしの夏に紹介する記事を書いています。8月23日の記事では當麻寺全体の紹介を、9月22日の記事では本堂曼荼羅堂や中将姫伝説について紹介し解説した記事を書いていますので、當麻寺や練供養会式についての詳しい解説はそれらの記事に譲ります。

 

1年ぶりに當麻寺の聖衆来迎供養会式の記事を書きましたが、寺社の年中行事というものは毎年大体同じ内容なので、このブログでは同じ行事を二度取り上げることはあまり多くはありません。同じ行事を複数回記事に書く場合、多いのは前回のレポでトラブルなどで十分な取材が出来なかったり、さらに追加レポを加えて行事紹介を充実させようと思った時です。

昨年の聖衆来迎供養会式は自分としてはかなり充実したレポで、かなり良い内容で書けたとは思ってはいますが、記事の充実度は自己採点では85点くらい。15点マイナスなのは下記の内容のレポが出来なかったことです。

 

練供養会式前の護念院の取材が無かった。

護念院から極楽堂へのお練りの取材が無かった。

練供養会式のハイライトである、娑婆堂での中将姫往生の儀式『奉奏舞』を十分に紹介出来なかった。

 

上記については説明文だけだったり、ネットから他のサイトを引用で補ったりして記事を書くことになってしましました。今年の當麻寺の練供養会式を紹介する記事は、上記の項目を補うために重点的に取材をして来ました。新規取材分としてこの記事を上げると同時に、4併せて昨年の記事も一部、今年の取材内容から追記訂正をしています。

 

昨年に続いて練供養会式当日の當麻寺へ。山門をくぐると、二上山を背景にした境内は屋台が軒を並べ、お祭りムードいっぱいになっていました。

 

 

到着した時間は午後12時過ぎ、気象庁発表の奈良の最高気温は27.0度。現地で携帯した温度計を見ると28度を超え、奈良は真夏日寸前の暑さでした。昨年は日中は汗ばむ気温だったものの、夕方前には気温が下がり上着を羽織った記憶がありましたが、今年は夜までシャツの袖をまくったままで暑かった暑かった。

 

 

當麻寺に到着した小生、まず最初の目的であるは練供養会式前の塔頭・護念院(ごねんいん)へ。護念院は13門の當麻寺塔頭の一つである浄土宗寺院で、持ち回りで代表寺務を受ける4門の責任寺院の一つでもあります。

この護念院ですが、練供養会式では運営主体の『菩薩講』の取りまとめ役を担っている寺で、練供養会式当日には二十五菩薩の演者の控室となり、演者が被る面や中将姫像を乗せた神輿などが展示される場所となっているのです。

練供養会式には二十五菩薩が渡るために、本堂と娑婆堂に加えて本堂の隣に位置する護念院と本堂の間にも来迎橋が架けられます。

 

當麻寺境内図 画像引用:4travel.jp より部分

 

画像引用:タクヤNote 2023年4月22日記事 より部分(来迎橋はCG)

 

練供養会式の日は護念院の拝観は、午後2時で終了なので急ぎます。入口である山門前には、帝塚山大学文学部の学生さんによる『當麻寺プロジェクト』のブースが。ここでパンフレットをいただいてから、中に入ります。

 

 

山門をくぐると右手が護念院の本堂、拝観料を払って堂内に上がらせていただきました。中央の内陣に祀られているのは本尊阿弥陀如来立像[鎌倉時代]で、他にも阿弥陀如来坐像[平安時代後期]も所蔵されています。

 

 

そして中央本尊を挟んで左手に練供養で演者が被る菩薩面が、右手に中将姫を乗せた輿が置かれていました。昨年は拝観しなかったので、とても楽しみにして本堂に上がらせてもらいました。

内陣左手には二十五菩薩および天童と地蔵・龍樹菩薩の面が並べられていました。練供養会式で実際に被られる面で、法会が行われる直前までここで展示されます。

 

 

外国のマスコミさんでしょうか、菩薩面の前では外国人のカメラマンがカメラを回しておられました。

 

 

一面だけ手前に置かれていたのは主尊の観音菩薩の面。その上に並べられている白面は、天童と地蔵・龍樹菩薩の面です。

 

 

そして金箔で光り輝く菩薩面が並びます。

 

 

 

 

さらに菩薩面の中央には中将姫の御霊を象徴する小仏が蓮華蔵の上に乗せられて安置されていました。この小像は『法如化生坐像』と呼ばれ、中将姫が菩薩に導かれて極楽浄土へ旅立つ、練供養会式のクライマックスシーンで使われます。

 

 

内陣の右手には主役である法如(中将姫)の像が乗せられた輿が置かれています。練供養会式では中将姫は人が演じず、木彫像が使われます。

 

 

法会で実際に使われる法如像は室町時代造で、2022年に奈良国立博物館での特別展『中将姫と當麻曼荼羅』でも展示された立派な文化財。普段は本堂で本尊・當麻曼荼羅の脇の厨子に納められているのですが、練供養会式の時だけ護念院に持ち込まれます。

 

 

練供養会式には護念院は菩薩の演者の楽屋として使われることもあり、法会に使用される品々が一同に集められ、練供養会式が始まる二時間前までは拝観者は鑑賞することが出来るのです。

希望者には練供養会式で実際に用いられる菩薩面を被って記念写真が撮れるということでも知られ、この日も多くの拝観者がそれを目当てとして訪れていたのですが…

 

 

堂内で待機されている僧侶の方が繰り返し「感染のリスクがあるので、面を被ることは出来ません」と話されていました。ただ、被れない代わりに頭のところにかざして記念写真を撮るという代替えの方法で対応をされ、小生が拝観している時も何人か写真を撮られていました。

 

法要前に聖衆来迎練供養会式を体感出来る護念院、このタイミングで参拝するのは欠かせないと思いました。

御朱印も戴きましたが、書かれているのは「中将法如尼」。御朱印は寺の本尊などの尊名が一般的ですが、生前の中将姫が居地としていたと伝えられることから『棲身旧跡寺院』と呼ばれる護念院は、御朱印も中将姫の名が書かれるのですね。

 

 

護念院の拝観を取り急ぎ済ませて、いよいよ午後4時からの聖衆来迎練供養会式の開始を待ちます。昨年の4月14日は平日の金曜日でしたが、今年は日曜日で正直混雑が心配ではありました。実際小生が護念院を出た午後2時頃には既に相当な参拝者でかなり混み始めていました。

 

 

ほとんどの参拝者はメインの祭場である本堂と娑婆堂を結ぶ来迎橋近辺に集まっていましたが、小生は次の目的である護念院本堂と本堂(極楽堂・曼荼羅堂)の間のお練りを写真に撮るため、両堂を結ぶちょっと細い来迎橋のたもとへ移動して、お練りが始まるのを待ちます。手元の資料では本堂・極楽堂からのお練りが始まる午後4時の10分前、午後3時50分からということで、早めに場所をキープしてお練りが始まるのを待ちました。橋の東側だと逆光になるので、西側にまわっての場所取りです。

 

 

護念院で動きがあったのは3時50分より少し前、48分くらいに中将姫蓮如像を乗せた輿が登場です。来迎橋を通ると思っていましたら、輿は護念院の正門から登場。地上から極楽堂正面の石段を登壇して入堂します。

 

 

 

続いて稚児行列の本堂入堂。こちらも来迎橋では無く、本堂裏から横の縁を通っての入堂でした。小生はお練りされる出演者は全員、護念院本堂から来迎橋を通って入堂するかと思っていたので、今回思い違いが判明して少し賢くなった気がしました。

 

 

来迎橋を最初に渡って極楽堂に入られたのは護念院の僧侶の方、続いて引率の天童、地蔵・龍樹菩薩の面を被った演者が続きます。

 

 

 

 

そして極楽往生の美しい情景を飾る、金色の面を被った二十五菩薩の登場。それぞれが楽器などの持ち物を持ち、足元が見えにくい演者が狭い橋を歩くのをサポートする介助が支えます。

 

 

 

 

極楽堂から娑婆堂へのお練りの時は、菩薩の間隔がつまっていて一度のたくさんの菩薩を拝むことが出来るのですが、護念院からの来迎橋では菩薩は一人ずつ間隔を空けて登場で、一度にたくさんの菩薩を拝むという感じにはなりませんでした。

やはり、極楽堂と娑婆堂の間の来迎橋はファッションショーのランウェイのようなメインステージなのに対して、護念院からの橋は舞台裏通路ということなのでしょう。

菩薩が北口から堂内に入るとき、おぼつかない足元や高さの低い鴨居に円光(光背)がぶつからないように、介助の人が声を出して指示されているのを聞いて、練供養会式の舞台裏を見た気分でした。

 

 

小生が一番待ち望んだのは、聖衆来迎練供養会式の主尊である観音・勢至・普賢の三菩薩の登場だったのですが、いつまで待ってもその三菩薩は登場しません。そのかわり来迎橋に登場したのは…

 

 

 

観音菩薩の持物である蓮華蔵や、普賢菩薩の持物の天蓋など、持物だけを持った菩薩講の方々が次々と極楽堂へ入って行くではありませんか。すぐには気が付かなかったのですが、三菩薩役の人は面は被らず持物も持たずに極楽堂に渡っていたのです。後でわかったことですが、下の画像の三人が実は三菩薩役の方々だったのです。

 

 

三菩薩役は面も持物も無く極楽堂に入り、極楽堂内で面や円光を着け衣装合わせをする。これも、今回初めて知ったことになりました。

主尊の三菩薩役の方々が入堂するのを見終えて、小生は護念院から移動、最後の目的である『奉奏舞』の儀式を見るために、大慌てで娑婆堂に移動。日曜で人の多い境内を100メートル東の娑婆堂まで人をかき分けて向かいました。

 

画像引用:タクヤNote 2023年4月22日記事 (来迎橋はCG)

 

 

大勢の参拝者でごった返している中での撮影場所の移動は苦労しましたが、ほとんどのギャラリーは来迎橋を歩く菩薩群に気を取られていたので、始めから娑婆堂での儀式のみを目的としていた小生は何とか場所のキープが出来ました。既に中将姫蓮如像を乗せた輿は娑婆堂に置かれており、稚児たちも娑婆堂の中で座って菩薩の到着を待っていました。雅楽が演奏され護念院僧侶による読経がスピーカーを通して境内に響きます。

 

 

娑婆堂での儀式、まずは中将姫法如像の胎内に納められている小仏を護念院僧侶が取り出します。取り出された小仏(法如化生仏)は中将姫像の前に置かれていたようです。

 

 

 

そして二十五菩薩が来迎橋を渡り娑婆堂に到着します。この日の練供養会式で、小生が極楽堂からのお練りを撮影したのはこの時だけ。まわりの拝観者がお練り行列の方を向く中、小生はすぐに振り返り娑婆堂の儀式の撮影に神経を向けていました。(ちなみにお練りを写真に撮る時は、必ず来迎橋の北側へ。南側だと下の写真のように菩薩が全然写りません)

 

 

小生が娑婆堂に着いて後で、主尊の三菩薩以外の22の菩薩が娑婆堂に到着。娑婆堂前で介助の人と共に左右に分かれて整列をし、主尊三菩薩の到着を待ちます。

 

 

そして、中将姫を迎えに来た観音菩薩を始めとする主尊三菩薩が娑婆堂に到着すると、いよいよ練供養会式のクライマックス『奉奏舞』へと式は移ります。

 

 

『奉奏舞』とは菩薩が練供養会式で行う、中将姫の御霊を迎える様を表す所作です。昨年の記事でも引用した資料『練供養会式調査報告書2020』を引用しながら解説をします。

 

娑婆堂に到着した三菩薩、観音菩薩と勢至菩薩は片膝で向かい合います。観音菩薩は奉如化生坐像を手に、勢至菩薩は合掌します。そして普賢菩薩は天蓋を向かい合う二菩薩の頭上に差し掛けます。

 

 

 

勢至菩薩は観音菩薩が大事に持つ奉如化生坐像を優しく撫でるような所作を行います。

 

 

 

そして、勢至菩薩も奉如化生坐像の蓮華蔵に手を掛けると、片膝を付いていた二菩薩が揃って立ち上がります。

 

 

 

蓮華蔵をバックスイングで後ろに振りかざして…

 

 

手前に振ってから、このポーズ。観音菩薩は法如化生坐像をかざし上げ、勢至菩薩は合掌でバチッと決めるのです。

 

 

 

そして、観音・勢至両菩薩は娑婆堂へのお練りと同じステップと所作で、中将姫の御霊である蓮華蔵に乗った小仏を、極楽浄土である極楽堂(本堂)へと帰って行き、中将姫の極楽往生を再現されて、聖衆来迎練供養会式はお開きになるのです。

昨年は十分に取材出来なかった、護念院の拝観、護念院からの菩薩の入堂、娑婆堂での奉奏舞を今年はたっぷり取材をすることが出来ました。

 

 

今回の記事は昨年の當麻寺聖衆来迎練供養会式の補完記事として書きました。練供養会式についてこの記事だけで十分な説明になっていないところもありますので、昨年4月22日の記事、および當麻寺について書いたおととし8月23日9月22日の記事もぜひ併せてお読み下さい。

 

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今年も桜の季節となりまして、このブログでも桜の花の撮影レポを上げたいと思います。…というか、昨年3月28日に行って4月5日の記事で紹介をしました「石舞台古墳夜桜ライトアップ」に今年も行って来たので、今年も同じ場所での夜桜撮影を記事にします。

 

 

元々、夜桜だけを写真に撮りに行ってブログ記事に上げるってこれまであまりしてなかったのですが、今年は石舞台の夜桜だけはブログに上げようと思っていました。それは昨年のこと、逆光からの撮影では桜が暗く写ってしまいまして、それが心残りだったのです。

 

画像引用:タクヤNote2023年4月5日記事

 

今年はその対策として、撮影機材に新たな武器を用意しました。ストロボのニコン スピードライト SB-910です。これまで「出来るだけ、自然光を活かした写真を撮りたい」と今まで外付けのストロボは使わない方針でやってきたのですが、夜間撮影というより、日中とかで逆光の補正用補助光が必要な時もあり、遠くでも照らせる強力なストロボが要ると思ったのです。スピードライトSB-910はガイドナンバー32、少々離れた被写体でも明るく照らす十分なパワーを持つストロボです。

さらに、広角・標準ズームレンズとしてこれまで愛用して来たシグマ17-50mm f/2.8 DC OS HSM を、同じ明るさのAF-S DS ニッコール 17-55mm f/2.8 IF ED に換えました。シグマのレンズのズームリングが動かなくなって新たな標準ズームレンズが必要になったのと、以前からもっと描写力の高いレンズの方がいいと希望していたこともあったので、これをきっかけにしてシグマから純正のニッコールレンズに換えたのです。

逆光対策に、強力なストロボに明るくて描写力の高いレンズを加え、昨年のリベンジという気持ちで今年も石舞台古墳の夜桜撮影に臨みました。

 

 

今回の夜桜撮影には、いくつも不安要素がありました。まずは桜の開花状況。昨年の石舞台夜桜撮影をしたのは3月28日で、昨年は桜の開花が早くてまだ3月なのにすっかり満開でした。今年も当初は同じくらいの3月30日を予定していたのですが、桜の開花状況が昨年とは全然違っていて…

 

引用:TBS NEWS DIG(2024年3月25日)

 

今年は桜の開花が遅く、3月どころか4月に入っても桜の木はまったく花を付けず、家の近くでも桜の見ごろが全然来るような様子は無かったのです。やもうえず3月30日から4月4日に順延したのですが、それでも家の近くの桜の木もとても花見を満喫出来る開花状況では無く、果たしてまともな夜桜撮影が出来るような開花状況なのか、それが非常に気になっての飛鳥入りでした。

それに天気、実は前日の4月3日は一日雨で、翌日の予報も近畿中部には傘のマークが。雨天の写真撮影は毎回苦労させられるので、果たして天気がどうなるか非常に気がかりでありました。

 

画像引用:BIGLOBEニュース(2024年3月30日)

 

そういういくつかの憂慮を抱えながら、夕方の石舞台古墳へと出掛けました。昨年と同じように近鉄橿原神宮前駅から、バスでまだ明るさの残る午後5時くらいに石舞台古墳に到着となりました。

問題の天候と桜の開花状況は…。

 

 

夜桜撮影をした4月4日は朝から雨は降り止んでいました。どんより曇ってはいたので「もしかしたら降り出すのでは」と心配しながらの飛鳥入りでしたが、まとまった降雨も一日無く雨の中の写真撮影にはならずに済みました。さらに夕刻には西の空から雲が切れ、美しい夕焼け空まで見ることが出来たのです。

また、桜の開花状況ですが、石舞台古墳は見頃に近い桜風景になっていました。奈良の桜の開花宣言は3月31日だったのですが、その後気温の高い日が続いたこともあり、わずか4日でみごとな美しい桜を見る幸運に恵まれました。

 

 

 

とりあえず天候・桜の開花状況を見て安堵した小生は、石舞台ライトアップが始まる午後6時を待ちます。飛鳥の里は暮れてゆき、夕焼けが二上山を赤く浮かび上がらせます。

 

 

午後6時になり、石舞台古墳のライトが点灯。この時点ではまだ明るさが残っているので、さらに陽が暮れてゆくのを待ちます。

 

 

まずは石舞台古墳の東側に回って、夕焼けをシルエットにした古墳石室を撮りました。手前の桜の枝を浮かび上がらせるのに、新たに手に入れたストロボが威力を発揮です。

 

 

 

美しい夕景にシャッターを切った後、本格的な夜桜ライトアップを撮るために、さらに夜闇が深くなるのを待ちます。

ここからはコメント少なめで、ライトアップされた石舞台古墳と夜桜のコラボ写真を紹介していきます。撮影データは感度設定ISO2500、ほぼマニュアルモードでの撮影で、三脚は使わずすべて手持ちです。

まずは昨年も多く撮影した、ライトで照らされている西側からの撮影。

 

 

 

今年は石室の入口方向である南側からも撮りました。

 

 

 

昨年は石室内にもライトが入れられ、夜の石室内の写真もブログに上げましたが、今年は石室内にはライトの点灯はされず、中は真っ暗なままでした。

せっかくなので、新たなストロボで石室内の撮影をしましたが、昨年のようにフィッシュアイレンズは使えませんでした。

 

 

そして、昨年は逆光で苦労した東側からの撮影。そのために強力ストロボを用意して来たのですが…

昨年と同じ撮影ポイントに立ってビックリ!! 実際に撮影した写真をご覧下さい。

 

 

この撮影にストロボはまったく使っていません。昨年は無かった東側からのライティングが今年はされていたのです。

もしかして、鑑賞に来られた方で東側からのライティングを希望された人が多くいて、運営さんがその声に対応していただいたのかも知れません。

 

 

 

今年もお花見は飛鳥の石舞台古墳となりました。数々の幸運が重なって撮影出来たこれらの夜桜写真。ここにお披露目できてとてもよかったというのが感想です。

 

 

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ニュースにもなっている富雄丸山古墳から出土した蛇行剣の実物が初めて一般公開されるということで、3月最後の土曜日となる30日に日本考古学の殿堂・橿原考古学研究所の附属博物館に行って来ました。

今回はその橿原考古学研究所附属博物館で行われた『特別公開 富雄丸山古墳の蛇行剣 ─ クリーニング作業が明らかにした巨大鉄剣のすがた ─』のレポを記事に書きます。

 

画像引用:橿原考古学研究所附属博物館HP

 

この日は博物館のある橿原市に向かう前に、まず富雄丸山古墳へ行きました。これまで数回現地説明会も行われていますが、小生が富雄丸山古墳に行くのは初めて。現地説明会に蛇行剣などの出土品の公開はされなかったと聞いていたので、博物館での公開を待って行かずにいたのです。

富雄丸山古墳があるのは奈良市の西南部、丸山の住宅地区の中に緑豊かな丘。最近は自家用車での奈良入りが続いていたのですが、この日は電車とバス。富雄丸山古墳へは、学園前駅から出ているバス(奈良交通 学園前若草台線)若草台中央バス停で降ります。

 

 

現地到着は午前8時、周辺には古墳への案内がいくつもあり、歩道の上にもこんな感じで案内が書かれていました。現地は児童公園になっていて、古墳はそのフェンスに囲われた裏山という感じで整備されています。

 

 

 

富雄丸山古墳についての説明の看板は、その公園のフェンスに設置されていました。以下にこの古墳について解説をします。

 

 

富雄丸山古墳は円墳、昭和47(1972)年の測量では径86mとされましたが、その後の測量で現在の発表では径109mとされ、それまで日本一とされていた埼玉県行田市の丸墓山古墳の105mを抜いて日本最大の円墳と言われています。ただ、小さな造り出し部分があることから、小生は円墳と言うより奈良県桜井市の纒向古墳群に多く見られる『纒向型前方後円墳』(別名・帆立貝型古墳)とするべきでは無いかと思っています。

纒向古墳群が3世紀後半から4世紀前半という最古の古墳であるとされているのに対し、富雄丸山古墳は出土品の特徴などから、少し時代の下った4世紀後半に築造されたと推測されています。径100mを超える古墳は1号墳で、その東には2号墳、3号墳も見つかっています。

 

航空レーザー計測に基づく立体地図 画像引用:2022年10月現地学習会ハンドブック(pdf)

 

 

富雄丸山古墳は江戸時代後期の文献には藤原帯子(桓武天皇 皇太子時代の妃)の墓と書かれるなど、既に古墳であることは知られていました。明治時代には盗掘の被害に遭い、その際に掘り出されたと伝えられる玉製品や鉄製品は国の重要文化財に指定され、京都国立博物館の所蔵となっています。

 

伝 富雄丸山古墳出土品[重文](京都国立博物館所蔵)

画像引用:京都国立博物館 館蔵品データベース

 

その後、周辺地区の宅地化に伴い昭和47(1972)年の第一次から令和6(2024)年の第七次までの発掘調査が行われ、目を見張る調査結果によって大変に注目される古墳となったのです。

小生も、その発掘現場を見るために、公園から階段になっている墳丘に登りました。

 

 

墳丘は径100mの富雄丸山古墳と、2号墳・3号墳との間が道になっているのですが、墳墓はフェンスで入れなくなっていました。注目の富雄丸山古墳でこの3月16日・17日に行われた、現地説明会での見学者の誘導案内などがまだ残っていました。

 

 

階段を登り切ると、フェンス越しに富雄丸山古墳の発掘調査現場が見えます。右奥の青いパーティーションに囲われた建物が、この3月に現地説明会が行われた第七次発掘調査現場を覆う覆屋です。現地説明会には多くの見学者で賑わい、16日には2,200人が集まりました。覆屋の手前には、その時の見学者の誘導整理のために張られたロープも残っていました。

左の白いテントの中には警備員か現場職員が駐在されていて、小生が訪れた時にも人がおられ、カメラを向ける小生に対して、テントの中の人から丁寧に「おはようございます」と声かけをされてしまいました。

 

 

この覆屋で覆われた発掘調査現場は円墳と造り出しの間の部分にあたります。ニュースにもあった蛇行剣や鼉龍文盾型銅鏡が発掘された下から、全長5.6mもある大きな木製の棺が発見され、3月の説明会ではこの木棺が開けられて内部が見える状態で公開されました。

 

木棺出土状態 画像引用:第七次調査現地説明会パンフレット

 

木棺は現在も現地で保存されているようです。ほとんどは朽ちてしまう古墳時代の木製品としては異例の保存状態の良さで、古墳時代の木棺の構造などを知る一級品の発見であります。

 

約一時間ほど富雄丸山古墳を一通り見学した後、小生は橿原考古学研究所附属博物館のある橿原市に移動です。このブログでは現地説明会では無い富雄丸山古墳レポですが、現地説明会の時も注目の出土品は取り出され、現地で実物は見ることが出来なかったそうです。

小生は事前にそのことを聞いていたので、これまで現地説明会に行かなかったのですが、今回は出土品の中から蛇行剣の実物が、橿原考古学研究所附属博物館で初公開されるという情報を聞いて、これはぜひ見ようとこの日足を運んだのです。

富雄丸山古墳の現地から、近鉄橿原線で移動するため、もう一度近鉄奈良線の学園前駅に戻ります。古墳のある現地はバスは本数が少なく最寄りの駅まで歩くのも覚悟していましたが、たまたま上手く時間が合って行きも帰りもバスに乗ることが出来ました。それでも橿原考古学研究所附属博物館へは、バスや徒歩の時間も含めて一時間ほどを要し、午前10時頃に着きました。

 

 

博物館の入口に行くと、何と…

 

 

入口の外に並ぶ入館者が。さらに「入館制限」のパネルを手にした職員まで。この行列は館内のエントランスから続き博物館入口の外まではみ出しているということなのです。

今回の特別公開は3月30日(土)~4月7日(日)の約一週間という短期公開。小生が訪れたのは3月30日の初日の午前中、しかも土曜日ということもあって入館者が集まり、行列が長くなっていたのです。

 

 

ロビーの窓際に設置されたテレビモニターでは、今回特別公開となった蛇行剣のビデオ映像が放映されていました。TBSのニュース報道番組『報道特集』で2023年7月8日に放送された『“国宝級の発見” 巨大蛇行剣の謎』の番組VTRが、富雄丸山古墳と蛇行剣を紹介するビデオとして放映されていたのです。

 

 

 

結局展示室に入るまで、30分強ほど並びました。

蛇行剣が展示されていたのは、受付から入ってすぐの『特別展示室』。昨年12月にこのブログで紹介をした高松塚復元木棺が展示されたのと同じ展示室です。入館制限が功を奏してか、展示室内は人がごった返すという感じにはなっていませんでした。

 

 

展示室入口には『カメラ・スマートフォン・携帯電話による撮影可。フラッシュ撮影、三脚・自撮り棒の使用、ビデオ撮影は禁止』というパネル掲示が。このパネルによるお墨付きをもらったということで、ここからは展示室内の写真をいっぱいアップして行きます。

 

 

…と言っても、この特別公開での出展物は蛇行剣一つだけで、他は全て写真パネル展示という特別展示でした。四角い展示室の三面が全部ガラスケースで、時計回りでパネル展示を一通り鑑賞した後、最後に蛇行剣の展示コーナーに至るという内容でした。

パネル展示はまず富雄丸山古墳の解説パネルから始まり…

 

 

発掘現場での出土状況は発掘作業の模様を撮影した、記録写真の解説パネルが続き…

 

 

博物館での調査やクリーニング、保存処理の記録写真パネルが続きます。

 

 

作業現場の記録写真の他に、蛇行剣のレントゲン写真や、3DスキャンモデリングによるCG画像のパネルの展示もありました。実物大のパネル展示には、蛇行剣の巨大さを実感させられました。

 

 

 

蛇行剣は円墳の造り出し部に、木棺の上に覆い固められた粘土槨の中から、鼉龍文盾型銅鏡と共に出土しました。蛇行剣も盾型銅鏡も主要埋葬部とされる円墳に対して横向きに埋められており、まるで結界のように埋葬者を護っているようです。

 

蛇行剣・鼉龍文盾型銅鏡 出土状態(第六次発掘調査)

画像引用:第七次調査現地説明会パンフレット

 

蛇行剣(だこうけん)は全長237cmという世界的に見ても最長の剣。並状にうねり曲がっていることから、蛇行剣と分類されています。蛇行剣は西日本を中心に多くの出土例がありますが、もちろん2メートルを超える剣は富雄丸山古墳しかありません。

蛇行剣と同時に発見された盾型銅鏡は一般的な丸い鏡では無く、盾の形をした鏡。長さ64cm・幅31cmというサイズも出土した鏡としては日本最大となります。他に例の無い形状と大きさの鏡で、全く未知の発見となりました。今後の調査研究には大いに期待します。

 

鼉龍文盾型銅鏡 画像引用:第六次調査現地説明会パンフレット(pdf)

 

蛇行剣も盾型銅鏡も発見されたのは昨年の第六次発掘調査でありましたが、調査や保存作業が1年にわたって慎重に行われていたのです。今回の特別公開では鼉龍文盾型銅鏡の公開はまだでしたが、蛇行剣は保存作業が完了し、満を持して公開される運びとなりました。

蛇行剣はたくさんの写真パネルと同じガラスケースでの展示となっていて、目玉展示に入館者も集中していたのでガラスに近寄らないと見えないような状況でしたが…

 

 

一瞬でしたが、ガラスケースの前に人がいないタイミングがあって、その一瞬にシャッターを切る幸運に恵まれました。これが長さ2メートルを超える、蛇行剣の全容です。

 

 

全体の撮影は出来ましたが、とにかく細長い遺物なので、一枚の写真で見せるのはなかなか大変。やはりこの剣は下の画像のように、真正面より横からの撮影の方が見やすいかも知れません。

 

 

1年間の調査を経て、この剣は木製の把が付けられ、木製の鞘に納められていたことがわかりました。把や鞘などの木製部は朽ちてしまっていましたが、奈良文研の調査研究で刀身に付着した多くの木片が検出されたのです。

 

蛇行剣復元図 画像引用:蛇行剣特別公開パンフレット

 

把は大きなくさび形柄頭が目立ちます。5世紀以後の刀に多く用いられた把のかざりで、この蛇行剣はくさび形柄頭としては最古の例になるそうです。

把の部分は黒っぽくなっていますが、これは把部分に塗られていた漆です。木製部はほとんど朽ちて無くなっているものの、出土時に黒い漆が木製の把や鞘に塗られた状態で、薄皮のように残っていたそうです。

 

 

この漆の薄皮によって剣の把の形状が残されていたわけで、保存には漆の形の保護に重点が置かれました。発掘当初からこの今にも壊れてしまいそうな薄皮になってしまった遺物の保存には細心の注意が払われたのです。

発掘時には剣は周囲の土ごとウレタンで包んで慎重に取り出され、丹念な保存作業で壊れる寸前の遺物の強化処理がなされ、今回の特別公開にこぎつけました。公開まで1年を要したのも納得です。

 

ウレタンで包まれた、取り出した状態の蛇行剣

画像引用:蛇行剣特別公開パンフレット

 

鞘の先端には、金属製の18.5cmの金属製の突起が付いていました。剣を立てて置く時に用いられる『石突き』と推測されています。槍や長刀の柄などによく見られる装備品ですが、古代の刀剣での石突きはこれまで例がありませんでした。蛇行剣がどのように使われたのかを知る、大きな手がかりと言えます。

 

 

蛇行剣という国宝級とも言われる出土品の特別展示のフィーバーにあやかる感じの博物館鑑賞となりましたが、行った感じ解明されていないことがあまりにも多いという印象でした。それだけに、未知のロマンが深まります。

蛇行剣はどういう用途でどのように使用されていたのか、その全ては謎。日本全国で70本もの出土例があり、すべては西日本、しかも九州、特に九州でも南部に集中しているそうです。

今回、ヤマト朝廷のあった大和国の地から日本最長の蛇行剣が出土したことにより謎はさらに深まり、富雄丸山古墳に目が離せなくなりました。

この特別公開では出展されなかった、鼉龍文盾型銅鏡や木棺の今後の特別公開が待ち望まれます。

 

 

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