明けましておめでとうございます。
遅ればせながら本年もよろしくお願いいたします。
急遽物干し台から撮った新春の北アルプス・常念岳の雄峰です。
さて、昨年からの土佐の続報です。
高知城内から再び追手門前へ戻って来て…。
高知城下の街へ。
かつて来たときよりさらに街中は、「竜馬、りょうま、龍馬、リョウマ」の文字が多くなり、いささか食傷気味。
追手門前に、野中兼山邸跡の碑。
野中兼山とは。
土佐で開かれた朱子学の一派、南学の学者として教科書に載る人物。
山内藩の家老として藩政の改革を推進したという。
スミマセン、教科書という字がすぐ出て、ツイ昔ヲナツカシクオモッテシマイ…。
城の南の外堀に沿ってしばらく歩いていくと。
と、ここらに、「片岡健吉生誕地」の碑があるはずだが。
ところが、見つからず、かなりさがすもついにわからず。
これは大昔撮った写真、ボケてます。スミマセン。
かたおかけんきち???
「(片岡健吉は)板垣退助とともに1874年、土佐で立志社を起こし…」と、教科書に。
りっししゃ??
日本初の全国的政党というべき愛国社の中核となった結社のこと。
ん? あいこくしゃ??………、
この愛国社が国会期成同盟に発展、その代表が片岡健吉。
なんか思い出していただけたでしょうか。
あわてて、山内神社へ向かう。
あの幕末の土佐藩主・山内容堂を祀る神社。
無類の大酒呑みだったゆえ、自ら「鯨海酔侯」と名乗ったという。
容堂さんといえば、あの明治維新を決したという小御所会議において、岩倉具視と激しく議論する際、天皇を「幼沖の天子」とつい言ってしまった。
この言葉尻を岩倉は巧みにとらえ、
「不世出の英主(後の明治天皇)を、『幼沖の天子』とはなんたる妄言!」
と逆襲。ああ、これにて、
「容堂恐悚し、遽に容を改めて失言の罪を御前に謝し奉る」
会議の形勢はいっきに岩倉・薩摩派優勢に逆転していったという…。
きっと容堂さん、こんとき、したたかに酔ってたわな。
さすが、酒杯を持つ像は、後ろからも堂々たる姿。
すぐ近くに容堂邸跡。
そして山内家下屋敷長屋が、当時そのままの姿で残る。
ここは、西郷が土佐を訪れ、容堂と会見した場所という。
しばらく行くと、あれま、「龍馬郵便局」、銅像まで立ってる。
いったい竜馬像は土佐、いや全国にいくつ立つのやら。
なんと信州にもあるんだから、来てもいないのに!
この郵便局名は、龍馬誕生地に近いことかららしいが、昔こんな巨大な碑が立ってた。今もあるのかな。
そんときゃ、誕生地碑前の公衆電話ボックス上に龍馬胸像が。
これには感動。今は…、ないだろな。
あんときゃ、あちこち龍馬像、よく撮ったなぁ。
そのほか、「後藤象二郎誕生地」碑も撮った。
後藤は、山内容堂のもとで幕末に奔走した土佐藩士。
が、なんといってもその功績は、板垣とともに、自由民権運動の発展に尽力、そして「1887年の大同団結運動の推進者」。
教科書にその功績が刻まれている。スミマセンまた教科書で。
そしてあんときゃ、福岡孝弟(たかちか)誕生地碑も撮った。
ふくおかたかちか??
五箇条の御誓文の草案者として教科書に載る。
(ところで右の白いあんクルマはわての、当時のなつかしきニッサンサニーだわ)
さらに、「板垣退助誕生地」碑も撮った。
あんころは、元気やったなぁ、ほんとに。
そしてそして、ああ、「武市瑞山半平殉節之地」碑。
これが今日の主目的。
武市瑞山(半平太)。
「土佐勤皇党」の実質的盟主。
高知駅前に、中岡・龍馬と並び立っている人物。
次は武市瑞山の生家へ。