●高知城下街 史跡散策 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

明けましておめでとうございます。

遅ればせながら本年もよろしくお願いいたします。

急遽物干し台から撮った新春の北アルプス・常念岳の雄峰です。

さて、昨年からの土佐の続報です。

 

高知城内から再び追手門前へ戻って来て…。

高知城下の街へ。

かつて来たときよりさらに街中は、「竜馬、りょうま、龍馬、リョウマ」の文字が多くなり、いささか食傷気味。

 

追手門前に、野中兼山邸跡の碑。

野中兼山とは

土佐で開かれた朱子学の一派、南学の学者として教科書に載る人物。

山内藩の家老として藩政の改革を推進したという。

 

スミマセン、教科書という字がすぐ出て、ツイ昔ヲナツカシクオモッテシマイ…。

 

城の南の外堀に沿ってしばらく歩いていくと。

 

と、ここらに、「片岡健吉生誕地」の碑があるはずだが。

ところが、見つからず、かなりさがすもついにわからず。

これは大昔撮った写真、ボケてます。スミマセン。

かたおかけんきち???

 

 「(片岡健吉は)板垣退助とともに1874年、土佐で立志社を起こし…」と、教科書に。

りっししゃ?? 

日本初の全国的政党というべき愛国社の中核となった結社のこと。

ん? あいこくしゃ??………、

この愛国社が国会期成同盟に発展、その代表が片岡健吉。

なんか思い出していただけたでしょうか。

 

あわてて、山内神社へ向かう。

あの幕末の土佐藩主・山内容堂を祀る神社。

無類の大酒呑みだったゆえ、自ら「鯨海酔侯」と名乗ったという。

 

容堂さんといえば、あの明治維新を決したという小御所会議において、岩倉具視と激しく議論する際、天皇を「幼沖の天子」とつい言ってしまった。

 

この言葉尻を岩倉は巧みにとらえ、

不世出の英主(後の明治天皇)を、『幼沖の天子』とはなんたる妄言!」

と逆襲。ああ、これにて、

「容堂恐悚し、遽に容を改めて失言の罪を御前に謝し奉る」

 

会議の形勢はいっきに岩倉・薩摩派優勢に逆転していったという…。

きっと容堂さん、こんとき、したたかに酔ってたわな。

 

さすが、酒杯を持つ像は、後ろからも堂々たる姿。

すぐ近くに容堂邸跡。

 

そして山内家下屋敷長屋が、当時そのままの姿で残る。

ここは、西郷が土佐を訪れ、容堂と会見した場所という。

 

しばらく行くと、あれま、「龍馬郵便局」、銅像まで立ってる。

いったい竜馬像は土佐、いや全国にいくつ立つのやら。

なんと信州にもあるんだから、来てもいないのに!

この郵便局名は、龍馬誕生地に近いことかららしいが、昔こんな巨大な碑が立ってた。今もあるのかな。

そんときゃ、誕生地碑前の公衆電話ボックス上に龍馬胸像が。

これには感動。今は…、ないだろな。

あんときゃ、あちこち龍馬像、よく撮ったなぁ。

 

    

 

そのほか、「後藤象二郎誕生地」碑も撮った。

後藤は、山内容堂のもとで幕末に奔走した土佐藩士。

が、なんといってもその功績は、板垣とともに、自由民権運動の発展に尽力、そして「1887年の大同団結運動の推進者」。

教科書にその功績が刻まれている。スミマセンまた教科書で。

 

そしてあんときゃ、福岡孝弟(たかちか)誕生地碑も撮った。

ふくおかたかちか?? 

五箇条の御誓文の草案者として教科書に載る。

(ところで右の白いあんクルマはわての、当時のなつかしきニッサンサニーだわ)

 

さらに、「板垣退助誕生地」碑も撮った。

あんころは、元気やったなぁ、ほんとに。

 

そしてそして、ああ、「武市瑞山半平殉節之地」碑

これが今日の主目的。

武市瑞山(半平太)。

「土佐勤皇党」の実質的盟主

高知駅前に、中岡・龍馬と並び立っている人物。

次は武市瑞山の生家へ。

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