「なぜ、武市を斬ったのですか!」
維新後のある時、木戸孝允が山内容堂に詰め寄るように訊ねたという。
容堂は黙して語らずだったという。
容堂は、明治5年(1872)死去、武市半平太死して7年たっていた。
容堂は死際、「武市、許せ!」と何度もうわ言を云っていたという。
武市(左端)は今、高知駅前に龍馬、中岡と並び立っている。
あまり世に知られていない武市半平太瑞山だが、龍馬・中岡にとっては、武市は剣術道場の師であり、土佐勤王党の盟主として仰いでいた。
龍馬より7つ上、中岡より8つ上だった。
だが武市は、慶応元年(1865)閏5月、獄舎につながれたまま、切腹を言い渡されこの地にて落命した。
享年35。
死を命じたは山内容堂。
罪は「吉田東洋暗殺の教唆」だったが、その実は武市を核とした土佐勤王党の尊王攘夷派の、土佐での台頭を恐れたゆえである。
武市は、土佐藩士の下層武士の「下士」たちに剣術を教えるだけでなく、学問・政治にも目を開かせた。
尊王攘夷論を広め、土佐勤王党を結成した。
土佐が明治時代、「薩長」に対抗できる土佐の藩閥勢力を維持したのは、この勤王党の影響を受けた多くの人材が、後藤象二郎、板垣退助を筆頭に政界で活躍したからである。
宮内大臣となった当時勤王党だった田中光顕は維新後、「武市・龍馬・中岡が生存ならば吾々土佐人の肩身も一層広かったであろう」と、慨嘆していたという。
▼武市道場跡
さて、武市半平太の生家がみつからない。
スマフォやカーナビを駆使(ホントカヨ)するもダメ、ただオロオロウロウロ。
ちょうど家から外出しようとしていたおねえさんに訊ねると、
「はい、わかりました、地図書くはめんどう…、私に付いてきてください」
「えっ!」
バタン、ガガガ(エンジンの音)、
あわてて私もクルマへ。
(まるで龍馬のおとめねえやんみたいなひと)
10分ほど、必死についてく、またこれが速い!
「あそこ、あの家です」
「あぁ、ハイ…」
「長野から来たんですか」
「あぁ、ハイ」
「そうですか、わざわざ…、お気をつけて」
「あぁ、ハイ、ありがとうございまし…」
ばたん、ぶー、さっと、行ってしまった。
クルマ見えなくなるま手を振った。
助かった~、高知のおとめねえやん、親切にありがとうさんでした。
生家は、今も人家となっていて非公開。
右の石段を上ると。
瑞山神社鳥居、そして武市記念館。
こじんまりとした館内、きれいに整備されていた。
資料もよく整ってる。
半平太像がいくつか並んでいた。
それにしても、この地は高知の市街から遠く、アクセスが悪い。
ちょっと寄ってみるにも遠い。もったいない。
神社から遠く市街を望む。
記念館内から拝することができる、武市半平太を祀る瑞山神社。
一段登ったところに、武市家の墓所。
武市半平太墓(右)は、武市が投獄されると、自分も夫の辛苦を共にするために板の間にて寝て畳で眠らず、冬は蒲団を使わずに過ごしたという妻・富子と並んで眠っている。
富子は武市死後、50年余生きた。
「そうか…、さっきここまで私を案内してくれた親切な女性は、富子さんだったのか…」