マレー・ファン@ラブテニスワールド

マレー・ファン@ラブテニスワールド

英国テニス・ナンバーワン選手のアンディ・マレーを応援しながら、
ロンドンでの暮らしを綴るブログです♪
マレーがついに2012年ロンドン五輪で金&銀メダリストとなりました。
一緒に応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!

Amebaでブログを始めよう!
ご無沙汰してます!一番これまで書きたくてたまらなかったキムちゃん編を書き始めた途端に、突然来客ラッシュが起こり、ブログを書く暇が全然ありませんでした。そして現在長期ホリデー中ですヾ(@°▽°@)ノ
帰ってくるのが9月....ということで、なんと全米オープンが始まってしまうではないですか!モントリオールは合間を見ておっていましたが、ナダルの優勝でナンバーワン争いも面白くなってきましたね。
ドキュメンタリーの方は、その合間を見ながら続けて書いていく予定です。キムちゃん編、ここぞとばかりに思いっきり詰め込んでますよ~。
コメントのお返事も帰ってきてゆっくりするつもりです!
それではまた9月にお目にかかりましょう!

さて、いよいよマレーのドキュメンタリー、PART2に入ります。

前回はマレーの故郷への帰還、生い立ち、ダンブレーン事件を
追って行きました。

今回はマレーとマスコミ、そしてマレーと国民の関係について。

振り返れば振り返るほど辛い内容でもあります。

このことに関しては、ブログを初めて以来、書きたくても
『時事ネタ』に追われてなかなか詳しく書くスペースがなく、
いつもいつか機会があったら…と思っていました。

なので、今回やっとじっくりと語ることができます。
心の整理をするつもりで書いていくつもりです。

ということでドキュメンタリーに話を戻しますね。


【アンディ・マレーとマスコミとの関係】

前回のダンブレーン事件のくだりから、話はいよいよ
マレーの去年の無念のウィンブルドン決勝へと移ります。

時は2012年夏。ウィンブルドン男子決勝の日。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-フェデラーとマレー

マレーの先頭を切って、貴公子のような出で立ちで
華麗に登場するロジャー・フェデラー

フェデラーはウィンブルドンでは大の人気者であり、
彼にとってセンターコートは第二の故郷。
マスコミにとっても、大衆にとっても、まさに彼は
スイスが生み出した偉大なる伝説の選手です。

でも一体マレーのアイデンティティとは…?

このとき、ウィンブルドンで英国人が決勝進出をするのは
なんと74年ぶり。最後に優勝したのは76年前。

このためマレーに英国中の期待がどどっと集まりました。

でもマレーの決勝進出に興奮する英国民を除いては、
おそらく世界中の多くの人々は、マレーの優勝の可能性に
半信半疑だったはずです。

当時、マレーはトップ4の中で唯一グランドスラム優勝を
果たしたことのない、いわゆる『二番手選手』という
イメージを持たれていました。

果たしてこれまでグランドスラムを一度も制覇したことのない
マレーが、この多大なるプレッシャーの中で、
初のグランドスラム優勝を果たすことができるのか…?

このように世界が息を詰めて見守る中、またしても
マレーはフェデラーの前に屈してしまいました。

ところが決勝後…

負けたにも関わらず、

マレーを取り巻く全てが変わりました

マレーの中で何かが大きく変わり、さらに国民の
マレーに対する感情も大きく変わりました。

では一体それまで『国民のマレーに対する感情』とは
どんなものだったのでしょうか…?

この背景を理解するには、マレーがプロ転向以来抱えてきた
あるひとつの事件」について知っておく必要があります。

全米オープン・ジュニア優勝したマレーは、2005年にプロに転向。
スコットランド出身の新星、アンディ・マレーという少年に、
マスコミからの注目がどっと集まります。

この頃は、マレーはマスコミとも気さくに話し、
冗談を飛ばす余裕までありました。

2005年ウィンブルドンでの初めての記者会見でも、
マレーの打ち解けた様子が伺われます。

(無邪気な笑顔のマレーの記者会見)
マレー・ファン@ラブテニスワールド-記者会見のマレー

米記者
「…イングランドやスコットランド出身の選手が
 テニスができるなんて、誰もがびっくりしてるよ」


マレー
「(にやっとして)そうかな。ティム・ヘンマンは
 悪い方じゃないと思うよ」


(会場が爆笑)

米記者
「失礼、ティム・ヘンマンは別のレベルだけど、君の場合、
 我々アメリカ人からしたらこう言いたいところだ。

 『ジュニアの選手で、しかもイングランド人の少年が
 全米で優勝? 冗談だろう? 』って…」


マレー
「(記者をさえぎって)スコットランド人だよ」

(再び大爆笑)

と笑いに包まれた記者会見。

というか、笑われたのはあまりにも無知な米記者だったと
思いますが、それにしてもこの失礼さ!!!

バグパイプを指さして『メイド・イン・イングランド』と
言ったようなものですからね(汗

しかもイングランドとスコットランドを思いっきり
過小評価してます (@ ̄Д ̄@;)

今世紀のアメリカの人口の割合を見ると、
いまだにイングランド系アメリカ人は8.7%、
スコットランド系アメリカ人ですら1.7%もいます。

移民にとって、祖先のルーツは非常に大切なので、
もし同じ発言をスコットランド系アメリカ人にしたら、
きっと侮辱ととられてしまうでしょうね。

とはいっても、4つの国家(イングランド、スコットランド、
ウェールズ、北アイルランド)からなる
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国』という
長ったらしい正式名称を持つ英国の構成は、
他の大陸から見たら複雑怪奇なのかもしれませんが…

(英国の構成については、こちらの記事にてどうぞ)

でもイングランドとスコットランドをごっちゃにするくらいなら、
まだ可愛い(?)方です。

のちに英国内でのマレーのアイデンティティは、以前からこのブログでも
話している通り、『勝つと英国人、負けるとスコットランド人』という
不条理なものへと変わっていきます。

これはある些細なことがきっかけでした。

英国人なら誰でも承知のことなので、ドキュメンタリーでは
このマレーの人生を変えたとも言える出来事について
軽くしか触れていません。

ということで、今回はじっくりこの背景を説明したいと思います。

ウィンブルドンとワールドカップの開催時期が6月下旬から
7月なので、4年おきのワールドカップの年が来ると、
ウィンブルドンでも必ずサッカーが話題に登ります。

欧州の選手やサッカー大国出身のテニス選手たちにとっては、
大事なウィンブルドンが進行中だろうと、ワールドカップは
無視することのできない世界大行事。

例えばスペインが勝ち進んだり負けたりすれば、ラファの記者会見で
必ずそのことが話題になりますし、ティム・ヘンマンが活躍していた
時代には「今日は試合が早く終わってよかった。これで今夜の
ワールドカップが見れる
」などとヘンマンが記者会見でジョークを
飛ばしたこともあるくらいです。

さらにまたまた英国の歴史を振り返ってしまいますが、
イングランドがワールドカップ優勝したのは1966年が最後。
なのでこの悲願のイングランド優勝は、マレーの77年ぶり
ウィンブルドン優勝と同じくらい、国民からの莫大な期待が
かかっているのです。

しかもこのチャンスが巡ってくるのは4年に一度。

毎回、イングランドが勝ち進むたびに国中はハッピーモード一色。
ところが負け際は本当に最悪です(汗

1998年にベッカムがレッドカードを受けて退場したあと、
ベッカムが国中からバッシングを受け、これを振り切るまでに
何年も要しましたが、それくらい国民の血が熱く煮えたぎる
大イベントなのです。

(ベッカム事件に関しては『ウィンブルドン:マレー対
 フェデラー決勝を振り返って
』の中で触れています)

さて、このベッカム事件でも分かるように、イギリスの
熱狂的スポーツファンだけは絶対に敵に回したくありません。

ということで時は2006年7月に遡ります。

マレーの運命を変える事件が起こったのは、奇しくもウィンブルドンにて。
マレーがプロ転向後、一年目のことです。

この年はワールドカップがドイツで開催され、世界中が大フィーバー。
キャプテンのデビッド・ベッカム率いるイングランド・チームが
準々決勝進出を決め、イギリスも興奮の嵐に包まれていました。

そんなワールドカップ・フィーバーの中、ティム・ヘンマン
アンディ・マレーが、英国の新旧テニス選手として
デイリーメール紙のインタビューに応じることになります。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレーとヘンマン

カメラマンの待つテントへ向かう道中、話題はワールドカップ談義に。

一時はサッカー選手にスカウトされたこともあるくらいの
サッカーの腕ならぬ足を持つマレー。
当然のことながら、一緒に盛り上がるわけですが…

ここでティム・ヘンマンが、スコットランドがワールドカップに
進出できなかったことを出しにして、アンディをからかいます。

「スコットランドはワールドカップにもヨーロピアン・
 チャンピオンシップにも進出できないし、
 ラグビーもそこそこだし、クリケットはやらないし、
 オリンピックはグレートブリテンとして出場だから、
 いつまでたっても勝つチャンスがないね。

 (スコットランドのいない)ワールドカップでは
 どのチームを応援するんだい?」


マレーもそれに反応して、ジョークで応戦。

「どのチームが勝っても同じだけど、とりあえず
 イングランドの対戦相手でも応援するよ」


これを受けて、3人は大爆笑。

この会話の内容は、そっくりデイリーメール紙に掲載されました。

と・こ・ろ・が…

数日後、デイリースター紙の一面にこんな見出しが…

マレー・ファン@ラブテニスワールド-デイリースター紙

『WE HATE MURRAY』(マレーは我々の敵)

 ーWorld Cup Volley of abuse for ace Scot
 (スコットランドのエースがワールドカップ暴言を吐く)


そうです。マレーがティム・ヘンマンと新聞記者相手に
交わしたジョークのことです。

これをデイリースター紙は、センセーショナルな報道をするために、
マレーのあの一言だけを抜き取って記事にし、

マレーはイングランド以外のチームならどこでも応援する
という暴言を吐いた


と伝えたのです。

この見出しがイングランド・ファンのプライドと愛国心を
見事に逆なでし、国民中の怒りを買いました。

マスコミ、特に大衆紙にとって、『誰かを叩くこと』が
一番の売上につながります。

しかも材料となったのは、旬まっさかりのワールドカップと
ウィンブルドンで注目を浴びるスコットランド出身のマレー。

イングランド・ファンとマレーを対決させることほど
貪欲な大衆紙にとって美味しいものはありません。

そのあとは伝言ゲームのように、見出しから想像する見出し…と続き、
ティム・ヘンマンが最初にスコットランドをからかったことは
すっかり無視され、マスコミがこぞってマレー叩きに走り、
イングランド嫌いのマレー』という内容で各紙の一面が
埋め尽くされました。

この『マレー叩き』がいかにエスカレートしたかというと…

見出しを真に受けた国民から次々に悪意のこもった
マレー宛の脅迫状や中傷メールが山のように寄せられました。

またBBCのラジオ番組『トゥデイ』でマレーの発言について
喧嘩腰の大議論が交わされるほどの大問題に発展。

各紙のコラムニストたちも一斉にマレー叩きに便乗し、
ついには「マレーのロボットのような性格」までが
批判の対象となりました。

元議員のデビッド・メラーは、なんとマレーのために
ユニオンジャックの旗の振り方を講義。

(↑これを真剣にやっているのですから、もう恐怖です)

また、このマレー叩きのあまりのひどさに、
スコットランド首相がマレーの身の危険を心配し、
声明を発表するという国家的問題にまで発展しました。

このときマレーはまだ19歳

プロ入りしたばかりで、マスコミ慣れしていないテニス選手が
リラックスした雰囲気の中で無邪気に言った冗談。

それを悪意を持って曲解し、その少年を国民の敵に仕立てあげる…

このように、マスコミはこれからテニス界で
羽ばたこうという新人テニス選手を、羽ばたく前から

見事に叩き潰すことに成功

したわけです。

これがまさにマレーが19歳にして体験した、マスコミの恐怖でした。

このことがきっかけで、マスコミに対し不信感を抱くようになり、
以前のようにオープンに冗談をかわすこともなくなりました。

これがさらに「マレーは無愛想だ」などという偏見を生むようになり、
ますますマスコミとの関係がこじれるようになっていきます。

マスコミだけでなく、マレーの見えない敵は、マスコミに翻弄された
英国民でした。

真相を知らない人々がほとんどですから、マレーを見ただけで
「この反イングランドのスコットランドのXXXXめ!」などと
罵る人々も多くいました。

コメディアンでマブダチのマイケル・マッキンタイアは、
真剣に語ります。

「ジャーナリストに心を開いて打ち解けた話をしたあと、
 たった一言だけが抜粋されて全国に報道され、
 そのせいで自分が人々の敵に回されてしまったら、
 誰だって心を閉ざしてしまうよ」


間接的に『マレー叩き』を引き起こすきっかけともなった
張本人のティム・ヘンマンとデズ・ケリー記者は、
その後何度も機会があるごとに誤解を解こうとしてきました。

でも一度定着したマレーの『反イングランド』というイメージは、

すでに修復不可能 となっていました。

また敵に回ったのはイングランドだけではありません。

「自分のガールフレンドも、チームも、親友もイングランド人で、
 住んでいるのもイングランドだ」


という発言をマレーがしたところ、今度はスコットランドのメディアが反撃。

『マレーの新しい大親友?それはイングランドだそうだ』

と、今度はマレーがスコットランドを見捨てたかのような報道。

このように、マレーが何を言っても揚げ足を取られ、マレーが堂々と
自分はスコットランド人だと言えば『反イングランド』、
イングランドとの関わりを強調すれば『スコットランドの裏切り者』と
されてしまうため、マレーのアイデンティティは行き場のない状態と
なってしまいます。

さらに2007年にティム・ヘンマンが引退し、いよいよマレーが
英国テニスの次の担い手として活躍し始めたあと、
『勝つと英国人、負けるとスコットランド人』という
もっと不条理なレッテルが貼られるようになりました。

(それに伴い『マレー指数』なるものまで生まれました。
 詳しくはこちらの記事で)

このように、アンディ・マレーという有望な英国テニス選手は、
一夜にして国民の敵とされてしまい、しかも国籍という
アイデンティティすら奪われてしまったのです。

しかもマレーが何かしたなら、少しは納得がいきます。

例えば1998年のベッカムは、確かに国民から酷い扱いを受けて
私も心が痛みましたが、あの時ベッカムは相手選手の足を
蹴ったのですから、レッドカード自体は当然の報いでした。

国民としても、ベッカムが退場していなかったら
イングランドは勝っていたかもしれないという怒りを
ベッカムに向けることによって、イングランド敗退の
悔しさを紛らわしたと言えます。

でも、マレーの場合はどうでしょうか?

イングランドがマレーのせいで負けたわけでもなく、
マレーはスコットランド出身ですから、イングランドを
応援する義務は全くありません。

それなのに『死の脅迫状』を送られるほど、
マレーが憎まれる理由があるのでしょうか?

それで思い出すのが、元イングランドのラグビー選手である
ブライアン・ムーアがテレグラフ紙に載せた

『なぜ自分はアンディ・マレーを応援しないのか』

という見出しの記事です。

マレーと同じスポーツマンである彼がマスコミの報道を鵜呑みにし、

「マレーがイングランドを嫌うのはいいが、
 それを理由に我々も彼を嫌う権利がある」


と、いう一方的な結論の内容。

・・・っていうか、

「我々も彼を嫌う権利がある」

って、一体どういうことですかっ!!!!???

ちなみに私はプレミアリーグのトテナムのファンですが、
宿敵アーセナルのファン(マレーも含めて)は周りに沢山います。

だからってアーセナル・ファンに向かって

「私はあなたを嫌う権利がある」

って誰が言いますか~っ!!!!

しかも、マレーは「イングランドを嫌い」とは一度も
言ってないわけで、この伝言ゲームにすっかり踊らされた
ブライアン・ムーアには、もう口がふさがりません。

まだジャーナリストが『購読数を伸ばす』というマスコミなりの
信条(?)があって悪意を持った記事を書くなら分かります。
そのために事実をわざと曲解するのも、もちろんマスコミの意図です。

でも一番恐ろしいのは、マスコミ以外の人々が見事に
その罠に引っかかり、思い込みだけでマレーをここまで
嫌うようになってしまったたこと。

しかも、それが同朋スポーツマンだったということが
なおさらのショックでした。

ブライアン・ムーア自身、スポーツ選手として一度ならずとも
マスコミの牙にかかったことはあるはず。
その彼が、事実を調べることもなくこんな記事を
堂々と載せるとは…

ということで、2006年のあの無邪気なジョークが、
マレーをその先何年も苦しめることになったわけです。

特に無邪気な頃のマレーの記者会見なんか見ちゃったら、

あのマレーからいたずらっこな笑顔を奪った君たち、
一体どうやって責任取ってくれるんだ~っ!!


と叫びたくもなります。

スコットランド人として堂々と胸を張ることは許されず、
かと言って英国人としても完全に認められることなく、
これまでマレーは孤独な戦いを続けて来ました。

これをどうマレーが乗り越えていくのか・・・

この辺のマレーと国民との関係については、このブログが
始まった時からずっと追って来ていますが、
ドキュメンタリーでものちほど触れることになります。

***

ということで、このあといよいよ、ガールフレンド、キムとの恋愛に
移るのですが、今回の記事には収まりきりそうもないので、
申し訳ありませんが今日はここまでにします!

もうキムちゃんに関しては、それこそ書きためていたことがたっぷり、
マレーの恋愛に関する貴重なインタビューもありますよ~。

これまで謎のベールに包まれていたマレーとキムの恋愛…
その全容が明らかに!


…なんて期待がどどっと高まったところで…
(↑勝手に高めてますが・笑)

最後にボーナス!

マレーはウィンブルドン優勝後、最愛のキムと一緒に
念願のビーチ休暇を取りました!

バハマの青い海にラブラブカップル、まぶしすぎる~っ!!!

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレーとキム

っていうか、アンディのたくましい筋肉・・・

まぶしすぎて目が開けられないっ(笑

でもこのラブラブカップルの下に、なぜジョコちゃんとの
抱擁を入れるのか・・・

もちろんこんなことするのは、ザ・サン紙です(笑



お帰りになる前にこちらを押していただけると嬉しいです!

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ウィンブルドン開始直前に、アンディ・マレーの
初めてのドキュメンタリーが放映されました。

題名は『Man behind the racket』
(邦題にすると、『ラケットの裏の素顔』みたいな感じですね)。

もちろんマレーのテニス選手としての軌跡を追っていますが
このドキュメンタリーではマレーの試合以外での顔を
大きくクロースアップ。

犬にめちゃくちゃ愛情丸出しなところ、

ブラックジョーク大好きなところ、

彼が勝つためにどれだけ裏で努力しているか、

マレーがウィンブルドン敗退から金メダル獲得まで
どんな苦しさを通り抜けたか・・・


など、多分私のブログを読んでくださっている方たちなら
お馴染みの「マレーの素顔」が紹介されました。

とはいえ、マレーをコートでしか知らない人々にとっては、
いろんな発見があったようです。

私の彼氏も放映された次の朝、突然ぽつり。

「4回も決勝に進出してそのすべての試合に負けたあと、
 5回目の決勝に進出、そこで勝つことは
 一体どれほどの意味があっただろうね。

 もしかしてもうこれが最後の決勝で、ここで負けたら
 次がないかも知れない、と人間なら誰でも
 考えずにはおれないことだよね」


そんなこと言われるだけで、またまた泣けてしまうのですが…

さて、ドキュメンタリーに登場したゲストも超豪華!

アンドレ・アガシ、ジョン・マッケンロー、ティム・ヘンマン、
ノバク・ジョコヴィッチ、ラファエル・ナダル、ロジャー・フェデラー、
元マンチェスター・ユナイテッド監督のアレックス・ファーガソン、
ヴォーグ編集長のアン・ウィタカー、
まぶだちでコメディアンのマイケル・マッキンタイア、
マレーの大ファンのケビン・スペイシー
 などなど。

このドキュメンタリーは実は二度放映され、
最初の放映はウィンブルドン大会開始前夜。
そして、二度目はウィンブルドン終了後、
マレーが歴史を変えた部分を含めて放映されました。

このドキュメンタリーでアンディを追ったのは、
BBCのウィンブルドンの司会でお馴染みスー・バーカー

彼女はイギリスの女子テニス黄金期を作った選手で、
若かりし頃は、その愛くるしさからアイドル的存在。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-若き日のスー・バーカー

当時の良きライバルで同朋英国選手のヴァージニア・ウェイド
全米、全豪を制覇したあと、それに続くように今度は
スー・バーカーが1976年に全仏オープンで優勝

(全仏優勝時のスー・バーカー)
マレー・ファン@ラブテニスワールド-バーカー全仏優勝

さらに翌年1977年にはヴァージニアがウィンブルドン優勝と、
まさに二人は英国女子テニス黄金期を作り上げたというわけです。

80年代にはテニスの大ファンで、英国のエルビス・プレスリーと呼ばれる
クリフ・リチャード卿との熱愛で大衆紙をにぎわせます。
彼は一時、彼女との結婚も考えたほどだったと言っています。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-スーバーカーとクリフ・リチャード

スー・バーカーは現役を引退してから解説者に転向し、
1993年にBBCウィンブルドンにて解説を努めるようになります。

1999年に、BBCのスポーツ番組のお茶の間の顔だった
デズ・ライナムがスカイ・スポーツに移行したあと、
スー・バーカーがウィンブルドンの司会役となって後を引き継ぎ、
今ではすっかり彼女の笑顔とインタビュー技術で、
ウィンブルドンから切っても切れない存在となりました。

さて前任のデズ・ライナムはBBCの顔でもあり、ちょび髭の
ダンディーなところが主婦の憧れでもありましたが(笑)、
後任のスー・バーカーもたちまちお茶の間の人気者となりました。

この秘密は、インタビューでの彼女の人柄のよさ、
これに尽きます。

また元テニス選手ということもあり、彼女のテニスに対する
愛情が、言葉の端々からにじみ出てきます。

それが選手の思いもかけない感情を引き出すことが多々あり、
多くのドラマが生まれてきました。

それが彼女の魅力だといえますね。

さて放映前、実は私はこの番組が、ドラマチックで
大げさなお涙頂戴ものだったり、マレーの栄光を
やたら褒め称えたたえるものになりませんように、
と願ってきました。

『マレーはすごい!』『見ろ、このマレーの努力を!』
みたいな番組だったら、シニカルなイギリス国民、
特にアンディ懐疑派から「これはマレーのPRだ!」と
批難轟々が集まってしまいます。

でも嬉しいことに、このドキュメンタリーは、
スー・バーカーの人柄を反映し、静かなトーンに包まれ、
見終わったあと、じーんと心に残る番組となりました。

またこのドキュメンタリーは、インタビューや人々の言葉端から
徐々にマレーの素顔を読み取る、ということに焦点を当てており、
細かい背景の説明はほとんどありません。

このブログでは、こういった細かい背景の説明も含めて
このドキュメンタリーを探っていきます!


【スコットランド気質】

さてこのドキュメンタリーについて書き進める前に、
どうしても話しておかなければならないことがあります。
これがドキュメンタリーの大きな要でもあるからです。

それはスコットランド人気質について。

私にはスコットランド出身の友人が多くいますが、
彼らの多くが「見せびらかす」ことを嫌います。
いわゆる、質素で慎ましい、という感じですね。

もちろんすべてのスコットランド人がそうとは限らず、
育った環境や、もともと備わった性格にもよりますが、
大阪と東京、北海道と沖縄、など、その地方によって
考え方や人々の性格に特色が生まれるように、
イングランドとスコットランド人の気質の違いには
天候、地形、伝統など、いろんな要素が絡んでいます。

私の知り合いのスコットランド人の多くは、
どんなに成功しようとも地に足がついた態度で、
ひけらかすことを嫌い(というか恥ずかしいと思うようです)
逆に自分の成功を一歩下がった目で見るところがあります。

そんな人達に限って、自分に対する目は非常に厳しく、
黙々と目標に向かって突き進む真剣さを持っています。

もちろんスコットランド全員がそうではないわけですが、
おそらく類は友を呼ぶというのか、私が知る限り
みなそんな感じです。

そういったスコットランド人独特の気質に触れると、
現代で忘れられているような美徳を感じて仕方ありません。

そのスコットランド気質の代表ともいえるのが、
まさにマレーでもあるわけですが…

マレーはイギリスで最も成功しているスポーツ選手の一人ですが、
彼の成功に対する感覚は、全くと言っていいほど『無頓着』。

デザイナー服には興味なし、豪華なチャリティーギャラを
催したりもせず、各界のセレブたちとつるんだりもしません。

たまにまぶだちのマイケル・マッキンタイアのお笑い番組に出たり、
必要最小限の義務としてスポンサーのPRをお手伝いする(?)程度。
(でもウィンブルドン・チャンピオンとなった今では
 公に出る場が嫌でも増えていってしまうのでしょうが・・・涙)

さて、この一番いい例がマレーの車。

マレークラスのスポーツ選手ともなると、スポーツカーを
乗り回すのは当たり前。

マレーも一度、赤のフェラーリを購入したことがありますが、
「そんな車を運転している自分が愚か者に思えた」ために、
あっさり売ってしまいました。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレーのフェラーリ

以後、純粋英国車であるアストン・マーティン・ヴァンケット
ランドローバー・スポーツに乗り換えますが、
最近になりこれらも売ってしまいます(汗

代わりに買ったのが実用的なポルシェ・カイエンですが、
これは彼女のキムの専用車と化し、マレー自身はほとんど運転しません。

ということで、現在のマレーの愛車はなんと、

フォルクスワーゲン・ポロ!!!(笑

$マレー・ファン@ラブテニスワールド-ポロ

安さが売り物の、思いっきり大衆車です Σ(~∀~||;)

これはマレーが免許を取ったときに初めて買った車
5年の年季が入ってます(汗

「去年のウィンブルドンにもこれで通ったんだ。
 いまだに僕はこの車をメインに使ってるよ。

 この車から僕が降りると人がびっくりするかって?
 ポロだから、誰も注目する人はいないと思うよ。
 
 なぜこの車をキープしているかというと、
 もし誰かがうちに泊まりに来たときに
 駅まで送り迎えしたりするのが便利だからね。

 それに僕の最初の車でもあるから、いまだに
 キープしているんだ。もう3万マイル走ったよ」


うぎゃーんっ、けなげ過ぎる・・・

っていうか、ありえないっ!!!!

英国人なら一度は夢見る、憧れのジェームス・ボンド愛用
アストン・マーティンを差し置いてVWポロを選ぶとは~っ!!!

(この夢の車ヴァンケットをあっさり見捨てたアンディ・汗)
マレー・ファン@ラブテニスワールド-アストンマーティン・ヴァンケット

ほんとに地に足が着きすぎてます(゚Ω゚;)

でもこれがまさに私の言いたかった
『スコットランド人の謙虚さ』でもあります。

これを踏まえていると、このドキュメンタリーも
よりいっそう理解していただけると思います。

ということで、前置きが長くなりましたが、
ドキュメンタリー本編に話を戻したいと思います。


【アンディ・マレー、故郷への帰還】

ドキュメンタリーは去年のマレーの五輪優勝の直後、
生まれ故郷のダンブレーンを訪れるところから始まります。

この訪問はイギリス中がオリンピックモードで超盛り上がって
いる真っ最中で、『アンディ・マレー、英雄の帰還』として、
イギリス中の大ニュースにもなりました。

この様子をカメラが追うわけですが、マレーが五輪優勝という
国家的ヒーローになったにも関わらず、相変わらずマレーには

おごり高ぶるところがまったくない

ってことが伝わってきます。

そもそも、この記念すべき日に選んだのは、
スウェットにジーンズという普段着(笑

五輪優勝後の帰還ということもあり、あの超カッコいい
チームGBのユニフォームでも着て、
カッコよく決めるかな~と思うじゃないですか。

でもこの格好は、今朝起きて、スポンサーのアディダスから
もらったスウェットの中から適当に選びましたって感じ。
(←いやそうじゃなくて、すごく真剣に選んだのかも
 知れませんが・笑)

またマレーの謙虚さは、一向がバスに乗ってダンブレーンに
向かう時の言葉からも分かります。

「一体どれくらいの人々が集まるのか想像もできないけど
 沢山の人が来てくれるといいな」


…って、五輪優勝して故郷に帰る人の言葉ですか!

もう故郷を上げての歓迎に決まってるじゃないですか~っ!

これでふと思い出したことが・・・

故郷を上げての歓迎といえば、ジョコヴィッチが2011年に
ウィンブルドン初優勝を遂げた後の『英雄の帰還』は
こんな感じでした(↓)
マレー・ファン@ラブテニスワールド-ジョコちゃん帰還

優勝杯を掲げて、ロッキーのように登場したジョコちゃん。
これで待ち受けていた人々も「おおーっ」となったわけです。
これぞまさに『英雄の帰還』。

でもジョコちゃんの場合は国を挙げてのお出迎えでしたが、
マレーの場合は、人口7千人の小さな町への帰還。

それでも町中を埋め尽くすほどの人々が集まって、
いまかとマレーの到着を待ち構えていました。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレー帰還

これを見てびっくりしつつも、嬉しそうなマレー。

で、どんな登場をするかというと・・・

『イェーイ!帰ってきたよ~!』なんて
手を振りながらの華々しい登場はありません。

下を向いて歩きながら、マレーは照れくさそうに、
誰にともなく「サンキュー」

そんな~っ!誰にも聞こえませんってば・・・(涙

しかも、

「普段は5、6人しか道で見かけないから、
 ダンブレーンでこんなことは初めてかもね」


と照れながら話すマレー。

って、当然じゃないですか~っ!!

ウィンブルドンで金メダルをとるなんて、
一世一代の出来事ですよっ!!!!

このマレーの謙虚さに、ふと詩心が生まれる私(笑

この大観衆を普段の通行人の侘しさと比べるなんて、
紫式部の『源氏物語』のもどかしくも奥ゆかしい、
源氏と恋人同士の俳句のやり取りを彷彿させます。

または芭蕉のわびさびとでもいいましょうか。

俳句が書けちゃいますね。

マレーが帰った後、再び町が元の寂しい風景に戻り、
道に落ちた国旗を拾い、ぽつぽつと降り出した雨に
打たれながら一句・・・

皆さんも思い浮かびませんか?

・・・なんて冗談を言ってる場合ではありません(笑

マレーを一目見ようと集まった故郷の住民たちののために、
サインをしたり写真を一緒にとったりするマレー。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレーと住民たち

そんな住民たちの表情や声には、マレーという
ヒーローを自分たちの町が生み出したことの
喜びと誇りが満ち溢れています。

バスにペタペタと貼られた子供たちからのメッセージを
子供と一緒に読んだりする微笑ましい風景も出てきます。

またマレーは昔馴染みの新聞屋さんを訪れ、店主に挨拶。
子供時代、ここに通うたびにペニースイーツを
くすねていたことを告白したそうです(笑

「もうペニースイーツは一個も残ってないよ、って
 言われちゃったよ」


と目を細めて笑うアンディ。

(注:ペニースイーツとは、ジェリービーンズみたいな
 コーラやアイスの形をしたお菓子で、一昔前まで
 駄菓子屋さんでボトルに入って1ペンスで売られていたもの。
 今でも遊園地やお菓子専門店でたまに見かけますが、
 超プレミアムがついて1ペンスでは買えません・汗)


と、こんな風にポツポツと語られる言葉の合間から、
アンディという少年が育ったスコットランドの小さな町での
つつましい暮らしぶりが浮かんでくると思います。

このように、『五輪金メダルをとった英雄の帰還』は
いかにもマレーらしい、控えめで心和むものとなりました。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-ゴールドポストの前で


【ジュニア・テニス選手時代】

マレーのテニス選手としての運命を分けたとも言える
スペイン留学のきっかけとなったエピソードは、
誰にでも非常に興味深いものがあると思います。

でもその前に、ドキュメンタリーは、マレーがいかに
スポーツ選手としての才能を伸ばしたのかを振り返ります。

マレーは、祖父母、両親と揃ってスポーツ人間という、
文字通りのスポーツ一家に生まれました。

(スポーツ一家だったマレー家族)
マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレー家族

当然スポーツ選手としての血筋を受け継いでいるのでしょうが、
兄弟揃ってウィンブルドン優勝するほどの選手に育ったのは(注)、
子供時代から培われた二人の運動神経のおかげです。

というと、もうこれはひたすら母ジュディに
感謝するしかありません。

(注:兄のジェイミーは、ミックス・ダブルスで
 エレーナ・ヤンコビッチと組み、
 2007年にウィンブルドン優勝を果たしています)


この兄弟の運動神経が培われた理由は、雨の多い
スコットランドという環境で、母ジュディが考えだした
遊びと運動を兼ねた屋内ゲームのおかげでした。

マレー兄弟はこれらのゲームに夢中になることで、
知らず知らずのうちにバランス感覚や反射神経を養い、
自然にスポーツ選手としての才能を伸ばしていったのです。

(ちなみに現在ジュディはこの運動をカリキュラム化し、
 『Set4Sport(セット4スポーツ)』と称し、
 運動不足になりがちな現代の子供のために広める
 キャンペーンも行なっています。)


でも、もちろん運動神経がいいだけではトップの選手には
なれませんよね。

マレーを今のようなトップ選手に育てたのは、幼い頃から
マレーの中に潜む、並々ならぬ競争心の強さです。

「僕の小さい頃のアダ名は、原始家族フリントストーンの
 バンバンだったんだ。なぜかというと、
 負けるといろんなものに当たり散らしたからね」


と笑うマレーですが、マレーの祖母も「ボードゲームをすれば
絶対に勝たなければ気が済まない性格だったのよ」
と言うくらい、
物心ついてからのマレーは人一倍の負けず嫌い。

(赤ちゃんのときから負けず嫌いの傾向あり?笑)
マレー・ファン@ラブテニスワールド-赤ちゃん時代のマレー

マレーの父親のロイも、こんな風に振り返ります。

「普段遊んでいるときは笑ってリラックスしてるのに、
 勝負となると突然ものすごい競争心を燃やす子だったよ。

 宝くじ(ロッタリー)を初めて一緒に買った時、
 僕がアンディの代わりに数字を選ぶことにしたんだ。

 その日の夜、アンディはテレビの前にくじを持って
 しがみつくように数字を見比べながら
 結果に聞き入っていた。

 当然くじだから外れるよね。

 するとアンディは『なんでこんなひどい数字を選んだんだ!
 もうお父さんには二度と選ばせない!』と真剣に怒るんだよ。
 たとえそれが宝くじであろうともね。

 それくらいアンディは幼い頃から負けず嫌いだった」


さてこんな競争心の強いマレーですが、子供時代、
もっともよき競争相手となったのは、一歳上の兄ジェイミー。

年が近いこともあり、二人は何かにつけて競い合いましたが、
そのうちの一つはレスリングでした。

二人は、優勝ベルトの代わりに普通のベルトを代用(笑

「ジェイミーのほうが僕よりも身体が大きかったから
 唯一僕に勝たせてくれるのは、ベルトが女性物のとき
 だけだったよ」


とマレーが笑うように、一歳上ということもあり、
兄ジェイミーは、当時のマレーにとっての最大のライバル。

この『常に自分の前を一歩行く』兄の存在のおかげで、
負けず嫌いのマレーの競争心が、ますます刺激されていったと
いうわけです。

そんな二人は元プロテニス選手であるジュディの影響で、
幼い頃から本格的にテニスに目覚めることになります。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレー兄弟

「決してテニスが強要されたわけではなく、
 母の指導がうまかったから、自然に僕達にもテニスが
 身についたという感じだったんだ」


とジェイミーがいうように、ジュディの指導の元、
二人はめきめきとテニスの才能を伸ばしました。

そしてアンディが12歳の時、最大国際ジュニア大会である
フロリダのジュニア・オレンジ・ボールで優勝

この時期に出会い、以後友情を深めていったのが、
同じ世代のジュニア選手であるラファエル・ナダルでした。

ということで、笑顔爽やかなラファの登場。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-ラファ

マレーの父ロイも、「彼は気取りがない」と
褒めていますが、本当にコートを降りたラファは、
ものすごく好感度たっぷりの青年ですよね~。

「僕とアンディはキッズの頃からの友達だよ。
 12歳以下、14歳以下、と各大会で一緒になり、
 よくホテルで一緒にプレステをして遊んだんだ」


とジュニア時代を振り返るラファ。

このラファとの交流が、のちのマレーの人生に
大きな影響を与えることに…。

それはマレーがヨーロッパ・ジュニアチーム・チャンピオンシップに、
16歳以下の英国代表として参加した時のこと。

突然ジュディのもとに、興奮したアンディからの電話。

「ママ、今ラファと一緒にラケットボールをしてたんだけど
 ラファが一体誰と一緒にトレーニングしてると思う?
 
(当時世界ナンバーワンの)カルロス・モヤだよ!

 学校には行かないで、クレイでプレイしてるんだよ!

 僕は一体どうしたらいんだ!

 そうだ、僕も絶対にスペインに行かなければならないんだ!」


自分と同じジュニアのラファが、世界トップレベルの選手と
同じ環境でトレーニングをし、普通の学校に通わず
24時間テニスに打ち込んでいることは、英国のテニス界で
育ってきたマレーにとっては大きな衝撃でした。

これがもとで、マレーは人生で最初の大きな決断を下します。

それはスペイン留学

マレーはサンチェス・カサル・テニスアカデミーを選びました。

学長のエミリオ・サンチェス・ビカリオは、ダブルスの名手。
サンチェス兄弟は皆テニス選手で、うち最も有名なのは
4大大会を制覇した、妹のアランチャ・サンチェス・ビカリオですね。

(エミリオ・サンチェス・ビカリオとアンディ・マレー)
マレー・ファン@ラブテニスワールド-エミリオ・サンチェスとマレー

一瞬ですが、マレーの留学時代の映像も垣間見れます。

いかにもティーンらしく、部屋は足の踏み場もないほど
散らかり放題(笑

また、ここで親友のダニ・ヴァルヴァーデュと出会います。

ダニは初めてマレーのプレイを見たとき、
一体このすごい子は誰だ?と圧倒されたそう。

卒業後も二人の友情は続き、現在はヒッティング・パートナーとして、
ダニはマレーチームに欠かせない存在となりました。

ということで、このスペイン留学は、レンドルのコーチ任命と
同じくらい、マレーのテニス人生に大きな影響を与えました。

世界トップ選手に囲まれて刺激を受け、
彼らと同じトレーニングを積むことにより、
マレーのテニスの才能も、「有望なジュニア選手」から
「トップテニス選手候補」へと開花していきます。

そして17歳のとき、マレーは全米オープンのジュニア部門で
優勝
を果しました。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレーUSジュニア優勝

このとき、マレーはこの優勝を「ダンブレーンの人々」に
捧げました。

またこの日を境に、マレーはダンブレーンについて
一切口を閉ざすことになります。

さて、ここからが非常に書くのが苦しいのですが、
がんばって続けます。


【ダンブレーン小学校銃乱射事件】

マレーのルーツを辿るには、どうしてもあの忌まわしい
『ダンブレーン銃乱射事件』について語らねばなりません。

ということで、再びドキュメンタリーはダンブレーンに
戻ります。

1996年3月、当時無職の43歳のトーマス・ハミルトン
マレー兄弟の通う小学校に4本の拳銃を持って潜入。

ハミルトンはまず体育館に向かい、5・6歳の一年生の
生徒たちに向かって発砲。

そこで一人を除いては全員が死傷し、子供たちをかばって
自ら犠牲になった担任のグウェン・メイヤー教師を含む、
15人が死亡しました。

この時ちょうど、マレーのクラスは次の体育の番で、
まさに体育館に向かう途中でした。

でも音を聞き、様子がおかしいことを知った教師は、
子供たちを止め、そこから避難し、子供たちを
机の下に隠します。

これがアンディの命を救ったといえます。

ハミルトンは体育館での殺戮を終えたあと、
今度は校庭の仮設校舎に向かって無差別発砲を開始。

中にいた子供たちは、ただ机や椅子の下に隠れ、
ひたすら恐怖が終わるのを待つしかありませんでした。

さらに廊下を通りかかった子供たちに向かって発砲したあと、
ハミルトンは再び惨劇の起こった体育館へ戻り、
拳銃自殺を図りました。

ハミルトンは合計109弾発砲。
この惨劇の死亡者は17名。

イギリス史上最悪の無差別発砲事件となりました。

ドキュメンタリーでは、窓ガラスや棚に打ち込まれた
銃弾の生々しい跡が映し出されます。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-銃弾のあと

ニュースを知って駆けつけた人々のショック。
花束を持って小学校を訪れる人々。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-花束

その花束の一つに書かれたメッセージの一つは、
たった一言、「WHY?」・・・

現在、体育館にはアンディと兄のジェイミーが寄贈した
記念時計が飾ってありますが、母親のジュディはいまだに
この惨劇の起こった場所へ近づくのが辛い、と語っています。

「何百人もの母親たちに混じって、
 私も自分の子供たちの安否も分からず
 門の外で待っていたの。

 そして・・・

 そして・・・」


ここでジュディの言葉は止まってしまいます。

惨劇の実態を知ったとき、
ジェイミーとアンディの無事を知ったとき、
自分たちの知っている子供たちが殺されたことを
知ったとき・・・

おそらくこの時の気持ちは、何年経とうとも
言葉にはあらわせないでしょうね。

でも最もショックを受けたのは、ハミルトンに
銃を向けられた子供たちでした。

「ジェイミーとアンディには沢山の疑問符が
 渦巻いていたわ。

 なぜかというと、彼らはハミルトンをよく
 知っていたから。

 彼の運営するボーイズクラブの一つに
 二人は入っていたから、私はしょっちゅう
 クラブのあるハイスクールと駅の間を
 送り迎えしていたの。

 だからこそ、二人にとっては、なぜ彼が
 こんなことをしたんだろう、という疑問で
 溢れ返っていたのよ。

 アンディは時折この話をすることがあったけど、
 ジェイミーは、一度もこのことについて
 口を開かなかった。

 だけど、この事件が町全体にあまりにも
 大きな影響を与えたから、
 このことを避けて通るのは不可能でもあったの」


全米ジュニア優勝をダンブレーンの人々に捧げたのを最後に、
この事件に関しぴたりと口を閉ざしていたアンディ・マレー。

ところがマレーは、今回のドキュメンタリーで、
初めて事件について語りました。

マレーの自宅で、愛犬マギーとラスティを撫でながら
ソファでくつろぐアンディとスー・バーカー。

スー・バーカーは優しくアンディに尋ねます。

「あの事件を語ることはすごく難しいことだと思うけど、
 あのときの記憶はある?」


この質問に対し、マレーはぽつぽつと語り始めます。

「プロになって以来、一度も口にしたことがないのは、
 マスコミから事件について質問攻めにあうように
 なったからなんだ。

 あの事件はもちろん・・・

 僕の家族にとって・・・

 街にとって・・・」


ここまでマレーは言うと、これ以上は言葉になりません。
そしてマギーを抱きかかえて泣き崩れてしまいました。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレーとマギー

スー・バーカーが「もう気にしないでいいわよ」
インタビューを止めようとします。

でもマギーから勇気をもらったかのように頭を上げ、
再びせきを切ったように、これまで胸につかえていた
思いを話し始めるマレー。

「・・・僕の家族全員にとって、
 そしてダンブレーン住民全員にとって・・・

 あのような事件がどれほど辛いことか、
 誰にも分からないことだ。

 でも自分が年を重ねるにつれて、街全体がいかに
 立ち直ったかをやっと実感できるようになった。

 この事件に関しては、本当に何も思い出したくなくて、
 つい数年前になって、事件のリサーチをしたり
 調べたりすることができるようになったくらいなんだ。
 
 だから街が誇りに思えるようなことができるのは
 すごく嬉しいことなんだ」

 
このあとスー・バーカーは質問を続けようとしますが、
すぐに思い直し、

「もうこれでやめましょう。ごめんなさいね。
 マギーも私をにらんでいるわ」


とインタビューをストップします。

「彼女は大丈夫だよ。ただ僕の関心を
 他の人にとられるのが嫌なだけだよ」


と、再びマギーを抱きしめるマレー。

***

この貴重なインタビューに関し、後日スー・バーカーは
そのときの様子をこう語りました。

「あのときは本当に驚いたわ。

 彼がダンブレーンについて話し始めたとき、
 私はプロデューサーに向かって
 『お願いだからカメラをストップして』と頼んだの。

 でも彼女は首を振るばかりだった。

 きっと彼女には、アンディが心の奥底では
 この事件について語りたいと思っていることが
 分かっていたのよね。

 でも私はただひたすら『何という悲劇が起こったんだろう』
 としか考えられなかったの。

 一体あの事件がどれほどジェイミーとアンディに
 影響を与えていたのか、これまで誰も理解することが
 できなかった。

 アンディが今まで口を閉ざしていたのも、
 当然のことだと思うわ。

 でも多分、ドキュメンタリーの撮影中は、
 記者会見と違って、アンディにもっと考える時間が
 あったんだと思うの。

 それに彼は自宅で愛犬たちと一緒にいたし・・・

 あの光景はとにかく感動的だった。
 
 アンディは本当に素晴らしい若者よ」


マレーは去年のウィンブルドン決勝でもスー・バーカーの
前で涙を見せましたが、今回のドキュメンタリーでも
再び涙を見せたマレー。

「彼女に会うたびに僕は泣いてしまうんだ」

とマレー本人が認めるように、スー・バーカーの持つ
温かい人柄の前ではガードが取れ、マレーの中に潜む
繊細な面が引き出されてしまうようです。

「あの事件について話そうと思えるようになったのは、
 スー・バーカーの人柄を信頼していることと、
 無理に何も言う必要はないという撮影班の雰囲気を
 信じることができたからなんだ」


この二人の言葉からも分かるように、アンディ・マレーと
スー・バーカーの間に、何かとても素晴らしい関係が
生まれつつあります。

これは二人が最も愛するウィンブルドンで分かち合った、
あの大きなドラマと感動の瞬間を通じ、
徐々に育っていったものなのでしょうね。

この信頼関係があるからこそ、これまで誰にも
口を開かなかったアンディが、あの辛い事件について
話そうと思えるようになったわけです。

***

このドキュメンタリーでは触れていませんが、
その後もダンブレーンには度々辛いことがありました。

おそらくマレー兄弟にとって衝撃だったのは、
ハミルトンが幼児性愛者の疑いを持たれていた、
ということです。

ハミルトンは上半身裸の少年たちの写真を撮ったり、
子供たちを無理やり自分と一緒に寝させたりなどしたため、
両親たちから文句が集まり、ついにスカウトリーダーの
資格を剥奪され、ビジネスをたたむことになりました。

犯人の自殺により動機は永遠に不明のままですが、
おそらく『腹いせによる報復』だと推測されています。

でもその報復の対象は、それまでハミルトンを
信用していた子供たちとなってしまいました。

またこの事件の16年後、さらに衝撃的な事件が
起こります。

それは体育館で生き残った生徒、ライアン・リデル
21歳のとき、老人に性的暴行を加えた罪で逮捕されたことです。

裁判ではリデルがダンブレーン事件の生き残りだと
いうことは明かされず、判決がでたあとに
このことが明るみに出て、再びダンブレーンの
暗い過去が注目されることとなってしまいました。

ダンブレーン事件が起こったとき、リデルは5歳。
マレー・ファン@ラブテニスワールド-ライアン・リデル

事件直後、母親のアリソンが半狂乱で体育館に駆け込み、
腕に銃弾を受けて横たわっている息子ライアンを発見。
まだ息があることを確認しました。

以後、ライアンはあのときの恐怖から立ち直れず、
トラウマに悩まされ続けました。

そしてついに今回の逮捕。

クラスメートと先生が目の前で射殺された中、
貴重な命を取り留めた少年の、
なんともやり切れない結末となってしまいました。

でも辛いことばかりではありません。

ダンブレーン事件の犯人のハミルトンが所持していた
銃の中にはマグナムも含まれ、しかもすべて
正規ルートで購入されたものでした。

この事件をきっかけに、イギリス中に
銃追放キャンペーンが広まります。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-銃取締りキャンペーン

そのおかげで英国の銃規制法が改正され、
個人拳銃所持は全面的に禁止されることになり、
英国は世界でも最も銃規制の厳しい国の
ひとつとなりました。

今ではこれが英国の誇れる点でもあります。

でもあの時銃弾を受けた子供たちは、二度と帰ってくることはありません。
マレー・ファン@ラブテニスワールド-ダンブレーンの子供たち

このように、ダンブレーンの住民は幾度となく
過去の悲劇と向き合いながら暮らしてきました。

でもアンディ・マレーが世界トップ選手となったことで、
ダンブレーンに何年にも渡り影を落とした「悲劇の町」から
「マレーを生み出した町」へと変わりつつあります。

そのことによって、住民たちも心の底から
笑顔を取り戻すことができるようになったわけです。

マレー・ファン@ラブテニスワールド-マレーと子供たち


ふうううううううっ。

何とかこの辛いダンブレーン事件のくだりを
書き終えたところで、今回は終わりにします。

ドキュメンタリーの残りについては、
またPART2にて続けていきます!