福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

唐大和上東征傳・眞人元開

2023-06-05 | 諸経

唐大和上東征傳・眞人元開(淡海三船・唐僧・道璿に従って出家し、元開と号す.鑑真和上十七回忌に唐僧思託の依頼により撰す
)撰
(鑑真和上の出自・出家まで)
大和尚諱は鑑眞。揚州江陽縣の人也。俗姓淳于。齊の辯士髡の後也(淳于髡じゅんうこん・は戦国時代、斉の威王に仕えた稷下の学士の一人)。其父、先に揚州大雲寺智滿禪師に就きて受戒し禪門を學す。大和尚年十四。父に隨ひて入寺し、佛像を見て心感動す。因って父に請ひて出家を求む。父、其の志を奇となし許す焉。是時、大周則天長安元年(701)なり。詔あり、天下諸州に於いて僧を度す。便ち智滿禪師に就きて出家し沙彌となり、大雲寺に配住す。後改めて龍興寺と為す。唐中宗孝和皇帝神龍元年(705)、道岸律師に随ひて菩薩戒を受く。景龍元年(707)東都に杖錫し因って長安に入る。其二年(708)三月二十八日、西京實際寺に於いて登壇し具足戒を受く。荊州南泉寺弘景律師を和上と為す(具足戒を授ける和上とした)。二京(洛陽と長安)を巡遊し三藏を究學す。後に淮南に歸りて戒律を教授す。江淮(長江と淮河)の間、獨り化主(教化する立場の僧侶)たり。是において佛事を興建し群生を濟化す。其事繁多にして具載すべからず。

榮叡・普照、渡唐して和尚に逢い来日を請願。和上は有名になった「山川異域。風月同天」の句を述べる。
日本天平五年(734)歳次癸酉、沙門榮叡・普照等、遣唐大使丹墀眞人廣成に隨ひて唐國に至り留學す。是の年、唐の開元二十一年也。唐國諸寺三藏大徳、皆な戒律を以て入道之正門と為す。若し不持戒者有らば僧中に齒せず(仲間に入れない)。是に於いて方に知る、本國に傳戒の人無きことを。仍ち東都大福先寺沙門道律師に請ひ、副使中臣朝臣名代之舶に附し先に本國に向かひ去りて傳戒者と為すことを擬す。榮叡・普照唐國に留學して已に十載を經る。使を待たずと雖も而も早歸を欲す。是に於いて西京安國寺僧道航・澄觀・東都の僧徳清・高麗僧如海を請し、又、(道航は知人の)宰相李林甫の兄に、林宗の書を請得し、揚州の倉曹(の役職である)李湊(林宗の姪)に與へて、大舟を造り備糧送遣せしむ。又、日本國同學僧玄朗・玄法二人と倶に揚州に下至す。是の歳、唐天寶元載冬十月日本天平十四年(742)歳次壬午也。
時に大和尚は揚州大明寺に在り。衆の為に律を講ず。榮叡・普照、大明寺に至り、大和尚足下に頂禮して具さに本意を述べて曰く、「佛法東流して日本國に至る。其の法有りと雖も而も傳法の人無し。日本國に昔、聖徳太子といふ人あり。曰く『二百年後に、聖教日本に興らむ』。今此の運に鍾る。願くは大和上、東遊して興化したまへ」。大和上答て曰く「昔聞く。南岳思禪師遷化之後、倭國王子に託生し佛法を興隆し衆生を濟度す、と。又聞く。日本國長屋王佛法を崇敬し、千の袈裟を造り此國の大徳衆僧に棄施す、其袈裟の縁上に四句を繍著して曰く『山川異域。風月同天。諸の仏子に寄せて、共に来縁を結す』と。此の思量を以て誠に是れ佛法興隆有縁之國也。今我同法衆中に、誰か此の遠請に應じて、日本國に向ひて、傳法の者有らんや」。時に衆默然として一も對ふる者無し。良や久しくして僧・祥彦といふもの有りて進みて曰く「彼國太だ遠く性命存し難し。滄海淼漫( べうまん )として百に一も至るものなし。人身難得く中國に生まれるは難し。進修(徳を進め学を修める)未だ備はらず。道果未だ剋せず。是故に衆僧咸く默して對ふる無き而已」。

第一回目の渡航・天寶二年(743)夏)
大和上曰「是れ法事の為也。何ぞ身命を惜しまんや。諸人去らざれば我即ち去く耳」。祥彦曰「大和上若し去かば彦も亦た隨去せん。爰に僧、道興・道航・神頂・崇忍・靈粲(れいさん)・明烈・道默・道因・法藏・法載・曇靜・道翼・幽巖・如海・澄觀・徳清・思託等二十一人、願ひて同心して大和上に隨ひて去らんとす。要約已に畢る。東河に始抵して造船す。揚州の倉曹(役職名)李湊は李林宗が書に依り亦た同じく檢挍して造船し糧を備ふ。大和上・榮叡・普照等、同じく既濟寺に在りて乾糧を備辦す。但し云ふ、將に供具して天台山國清寺に往きて衆僧に供養せんと。是歳、天寶二載癸未(743年)、當時海賊大ひに動きて繁多なり。台州・温州・明州海邊并びて其の害を被る。海路塞がり公私行を斷つ。僧道航云はく「今他國に向かふは戒法を傳へんが為なり。人皆高徳にして行業肅清なるべし。如海等の如きは少學なり、停却すべき矣」と。時に如海大ひに瞋り、裹頭(かとう・僧侶が頭を袈裟で包み、両眼だけを出した装い)して州に入り、上採訪廳して告げて曰く「大使知や否や。僧道航といふもの有り。造船して入海せんとす。海賊と連なる。都(すべ)て若干人あり。乾糧を辦じて既濟・開元・大明寺に在り。復た五百の海賊有りて入城して來る。時に淮南採訪使・班景倩は聞きて即ち大ひに駭く。便ち人をして如海を獄に將して推問せしむ。又、官人を諸寺に差して賊徒を收捉せしむ。遂に既濟寺において乾糧を搜得し、大明寺(のちにお大師様が渡唐の折にも訪問されています。)に日本僧普照を捉得し、開元寺に玄朗玄法を得る。其の榮叡は師走して入池し水中に仰臥す。やや久しからずして水の動くを見、入水して榮叡師を得る。並びに縣に送りて推問す。僧道航は俗人の家に隱るも亦た捉得されて並びに獄中に禁ぜらる。問て曰く「徒、幾人ありてか海賊と連なるや」。道航答て曰く「賊と連ならず。航は是れ宰相李林甫の兄・林宗が家の僧也。今、功徳を送るに天台國清寺に往かしむ。陸行は嶺を過へて辛苦なり。造船して海路より去らんとする耳。今林宗の書二通、倉曹所にあり」と。採訪使倉曹に問ふに對へて曰く「實也」。仍ち索すに其の書を看る。乃ち云ふ「阿師(和尚さん)事なきなり。今、海賊大ひに動く。須からく海過去すべからず」と。其所造の船は官に沒し、其雜物は僧に還す。其の誣告僧如海は反坐(誣告者に同程度の罰を与えること)還俗せしめ決杖六十。本貫(戸籍地)に遞送す。其日本僧四人は揚州に上
奏し京に至る。鴻臚、撿案して本の配寺に問ふ。寺家の報に曰く其僧隨駕して去り、更に見へず、と。鴻臚に来たり寺に依りて報じ奏す。便ち勅、揚州に下る。曰く「其僧榮叡等既に是れ蕃僧(堂守?)なり。入朝して學問し、毎年絹二十五匹を賜ひ、四季に時服を給し、兼ねて隨駕に預る。是れ僞濫(僞濫僧・私度僧)ならず。今還國せんと欲す。隨意放還すべし。宜しく揚州の例に依りて送遣すべし」と。時に榮叡普照等は四月に禁を被り八月に始て出るを得る。其玄朗・玄法、此より還國すとて別去す。


第二回目の渡航。天寶二年(743)十二月。)
時に榮叡・普照同議して曰く「我等の本願は戒法を傳へんが為なり。諸高徳に請ひて、將ひて本國に還らむ。今揚州の奉勅は唯だ我四人を送りて諸師を請ずるを得ず。空しく還へるは無益なり。豈に官送を受けざらんには如かざらんや。舊により僧を請し將に本國に還りて戒法を流傳せんとす」と。是において官所を巡避し、倶に大和上の所に至て計量す。大和上曰「須からく愁ふべからず。宜しく方便を求めて必ず本願を遂ぐべし」と。仍ち八十貫錢を出し嶺南道採訪使劉臣隣の軍舟一隻を買得す。舟人等十八口を雇ひ得、備辦海糧苓脂・紅緑米一百石・甜豉三十石・牛蘇一百八十斤・麺五十石・乾胡餅二車・乾蒸餅一車・乾薄餅一萬・番拾頭一半車・漆合子盤三十具・兼將畫五頂像一鋪・寶像一鋪・金泥像一躯・六扇佛菩薩障子一具・金字華嚴經一部・金字大品經一部・金字大集經一部・金字大涅槃經一部・雜經論章疏都一百部・月令障子一具・行天障子一具・道場幡一百二十口・珠幡十四條・玉環手幡八口・螺鈿經函五十口・銅瓶二十口・華氈二十四領・袈裟一千領・褊衫一千對・坐具一千床・大銅蓋四口・行菜蓋四十口・大銅盤二十面・中銅盤二十面・小銅盤四十四面・一尺面銅疊八十面・少銅疊二百面・白藤箪十六領・五色藤箪六領・麝香二十臍・沈香・甲香・甘松香・龍腦香・膽唐香・安息香・棧香・零陵香・青木香・薫陸香・都有六百餘斤。又有畢鉢・呵梨勒・胡椒・阿魏・石蜜・蔗糖等五百餘斤・蜂蜜十斛・甘庶八十束・青錢十千貫・正爐錢十千貫・紫邊錢五千貫・羅襆頭二千枚・麻靴三十量・廗胃三十箇。僧祥彦・道興・徳清・榮叡・普照・思託等一十七人。玉作人。畫師。雕檀刻鏤鑄寫繍師修文鐫碑等工手、都て八十五人あり。一隻の舟に同駕し、天寶二載(743年)十二月擧帆し東下し狼溝浦(今の江蘇省南通狼山)に到る。惡風により漂浪し波は船を撃して破る。波撃舟破し人總て上岸す。潮來水して人腰に至る。大和上は烏蓲草(蘆葦)上に在り。餘人並びて水中に在り。冬寒風急なり。甚太辛苦。更に舟を修理し、下りて大阪山に至り、舟は泊りて得ず。即ち嶼山に至下し住すること一月、好風を待ちて發し、桑石山に到らんと欲す。風急にして浪高く舟は著岸せず。量を計るべくなし。纔かに嶮岸を離れ還りて石上に落ち舟破す。人並びに舟上岸す。水米倶に盡く。飢渇すること三日。風停り浪靜かなり。泉郎(あま)、水米をひきい來りて相ひ救ふ。又經ること五日。海に還る官あり。來りて消息を問ふ。明州(寧波)大守は處分を申請し、鄮(ぼう)縣山阿育王寺に安置す。寺に阿育王塔有り。明州は舊是れ越州の一縣也。開元二十一年(733)、越州鄮縣令王叔達奏し越州一縣を割り明州を特置し、更に三縣を開き一州四縣とならしむ。今餘姚郡と稱す。其育王塔は是れ佛滅度後一百年時に、鐵輪王あり、阿育王と名く。鬼神を役使し八萬四千塔を建つ,之の一也。其塔金に非ず、玉に非ず、石に非ず、土に非ず、銅に非ず、鐵に非ず。紫烏色(カラスの羽のような、艶のある黒色)にして刻鏤は常に非ず。一面は薩埵王子の變。一面は捨眼の變。一面は出腦の變。一面は救鴿の變。上に露盤無し。中に縣鐘有り。地中に埋沒して能く知る者なし。唯だ方基有り。高さ數仞。草棘蒙茸して尋窺あること罕(まれ)なり。晋の泰始元年(265)に至り、并州西河離石の人、劉薩訶といふ者、死して閻羅王界に到り、閻羅王教へて掘出せしむ。晋宋齊梁より唐代に至り、時時造塔造堂す。其事甚だ多し。其鄮山東南嶺石上に佛の右跡あり。東北小巖上に復た佛の左跡あり。並びに長さ一尺四寸。前濶五寸八分。後濶四寸半。深さ三寸。千輻輪相あり、その印文、分明に顯示す。世傳(代々の伝)に曰く、迦葉佛之跡也。東方二里。路側に聖井あり。深さ三尺許。清涼甘美。極雨不溢。極旱不涸。中に一鱗魚あり。長さ一尺九寸。世傳に云ふ、護塔菩薩なりと。人ありて香華以て供養す。有福の者は即ち見る。無福の者は經年求めても見ず。有人、井の上に就きて造屋し七寶を以て材瓦と作すに至る。即ち井中より水漲流却す。
天寶三載歳次甲申(744)、越州龍興寺の衆僧、大和上を請じ、講律受戒の事畢んぬ。更に杭州湖州宣州並び來って大和上の講律を請ふことあり。大和上依って次いで巡遊し開講受戒す。鄮ぼう山阿育王寺に還至す。

第三回目の渡航計画の失敗
時に越州の僧等、大和上の日本國に往かんと欲するを知りて、州官に告げて曰く「日本國僧榮叡、大和上を誘ひて日本國に往かんと欲す」と。時に山陰縣尉、人を遣りて王蒸宅において榮叡師を搜得し、枷を著して京に遞送し遂に杭州に至り、榮叡師臥病し、療治を請暇す。多時を經て云く、病死せりと。乃ち榮叡普照師を放出するを得。求法の為の故に前後被災し、艱辛言に盡しがたし。然れども其の堅固の志、曾って退悔することなし。

(第四回目の渡航計画。
大和上其の如是なるを悦びて、其の願を遂げんと欲す。乃ち僧法進及び二近事を遣りて輕貨を将ひて福州に往き船を買はしめ、糧用を具辦す。大和上、諸門徒、祥彦・榮叡・普照・思託・等三十餘人率ひて、辭して育王塔を禮し、佛跡を巡禮し、聖井護塔魚菩薩を供養す。山を尋ねて直ちに出州す。大守盧同宰及び僧徒の父老迎送し供養を設け、人に差せて備糧し、送りて白社村寺に至り、壞塔を修理し、諸郷人に勸めて一佛殿を造る。台州寧海縣に至りて白泉寺に宿す。明日齋後に山を踰ゆ。嶺峻にして途遠し。日暮て夜暗し。澗水は膝を沒し、飛雪は眼を迷はす。諸人泣涙し同じく寒苦を受く。明日嶺を度し唐興縣に入る。日暮て國清寺に至る。松篁蓊欝(おううつ)。奇樹璀璨(さいさん)。寶塔玉殿。玲瓏赫奕。莊嚴華飾。言に盡くしがたし。孫綽(そんしゃく・六朝時代の東晋の文学者)が天台山の賦(天台山は、蓋し山嶽の神秀なるものなり。海を涉れば則ち、方丈・蓬萊有れども、陸に登れば則ち、四明・天台有りて、皆、玄聖の遊化する所、靈仙の窟宅する所なり。夫れ、其の峻極の狀、嘉祥の美、山海の瑰富を窮め、人情の壯麗を盡くす。五岳に列せず、常典に闕載する所以は、豈に冥奧の立つ所を以てならんや。其の路は幽逈にして、或いは重溟に倒景し、或いは韆嶺に匿峰す。始め魑魅の塗を經、卒に無人の境を踐む。世を舉げて罕に能く登陟し、王者の祀るに由莫し。故事は常篇に絕え、名は奇紀に標す。然るに圖像の興、豈に虛ならんかな。夫れ世に玩道を遺すに非ず。粒を絕ち之を茹でる者、烏の能く輕舉して之に宅す。夫れ遠く冥搜を寄するに非ず。篤く神を信通する者,何ぞ遙想を肯んじて之を存する。餘は神の運思を馳する所以なり。晝は詠じ宵は興す,俯仰の間、若已に再升する者なり。方に纓絡を解き、永く玆嶺に託す。吟想の至を任ぜず。聊か藻を奮ひて以て懷を散ず。太虛は遼闊にして閡無し。運自然の妙有り。融けて川瀆と為り、結びて山阜を為す。嗟、台嶽の奇挺する所、實に神明の扶持する所なり。牛宿を蔭するに曜峰を以てし、靈越を託するに正基を以てす。結要して華岱を彌し、直指して九疑を高す。天を應配するに唐典を以てし、峻を齊して週詩を極む。彼に邈く域を絕し、幽邃にして窈窕たり。智に近きは守見を以て不知。仁者は路絕を以て莫曉。夏蟲の冰を疑ふを哂ひ、輕翮を整へて矯を思ふ。理は無隱にして彰らかならず。二奇を啓いて以て兆を示す。赤城霞起ちて標を建て、瀑布飛流して以て道を界す。靈驗を覩るも遂に阻み、忽ちならんや、吾の將に行かんとする。羽人の丹丘に仍り、不死の福庭を尋ぬ。茍しくも台嶺之を攀るべくは、亦何ぞ層城を羨やまんや。釋域中、之を常に戀し、暢超然として之を高情す。被毛の褐の森森たる、金策を振るの鈴鈴たる。荒榛を披くの朦朧たる、峭崿を陟るの崢嶸たる。楢溪を濟りて直進し、五界に落ちて迅征す。穹窿を跨ぐの懸磴たる、萬丈に臨みたるの絕冥たる。莓苔を踐るの滑石たる、壁立を搏つの翠屏たる。樛木の攬つの長蘿たる、葛藟の援ぶの飛莖たる。垂堂を一冒すと雖も、迺ち長生を永存す。必ず幽昧を契誠す。重崄を履みて逾平す。既に九摺を克隮し、路に脩通を威夷す。心目を恣にして之れ寥朗、緩步に任せて之れ從容す。藉の萋萋、之れ纖草、蔭の落落、之れ長松。鸞の翔を覿る、之れ裔裔、鳳の鳴くを聽く、之れ嗈嗈。靈溪を過りて一濯、煩想を疏して心胸。遺塵を蕩して旋流、五蓋を發す、之れ遊矇。羲農を追す、之れ絕軌、二老の躡く、之れ玄蹤。陟降信宿し、仙都に迄る。雙闋雲竦夾路を以てし、瓊台中天にして懸居す。朱閣は林間に玲瓏し玉堂は高隅に陰映す。彤雲斐亹翼櫺を以てし、皦日炯晃にして綺疏す。八桂森挺淩霜を以てし、五芝含秀にして晨敷す。惠風は陽林に佇芳し、醴泉は陰渠に湧澑す。建木は韆尋に滅景し、琪樹は垂珠を璀璨す。玉喬控鶴は以て天を衝き、應真飛錫は以て虛に躡く。神變を騁せて、之れ、霍を揮ひ、忽ち出る有りて入る無し。
是に於いて、遊覽既に周り、體靜かに心閑まる。害馬は已に去り、世事は都て捐。投刃は皆虛、目牛全きは無し。思ひを幽岩に凝らし、長川を朗詠す。而して乃ち羲和亭は午、遊氣は高褰す。法鼓瑯以て振響し、衆香馥以て揚煙す。肆に天宗を覲、爰に通仙集ふ。玄玉の膏を以て挹み,華池の泉を以て嗽ぎ、象外の說を以て散じ、無生の篇を以て暢ぶ。悟遣有の靈せず、覺涉無の間有り。色空の泯びて以て跡と合し、忽ち即ち有りて玄を得。釋二名の出を同じくし、一無を三幡に消す。恣に樂を語りて以て終日、寂默を不言に等しくす。萬象を渾ぶに冥觀を以てし、同體を自然に兀兀とす。)も其の萬一も尽くすこと能はず。
大和上聖跡を巡禮し始豐縣を出で臨海縣に入る。白峯に導き江を尋ねて遂に黄巖縣に至る。便ち永嘉郡の路を取り、禪林寺の宿に至る。
明朝早く食し發して温州に向はんと欲す。
忽ち採訪使の牃ありて來追す。其の意は在揚州の大和上の弟子僧靈祐及び諸寺三綱衆僧、同議して曰「我大師和上、發願して日本國に向はんとす。山を登り海を渉り、數年艱苦す。
滄溟萬里たり。死生測ること莫し。共に告官し遮して留住せしむべし。仍ち共に牒を以て州縣に告ぐ。是において江東道採訪使、牒を諸州に下し、先に經る所の諸寺三綱を追ひ、獄に留身し推問す。蹤を尋ねて禪林寺に至り、大和上を捉得し、使を差して押送防護す。十重に圍繞し採訪使所に送至す。大和上所至の州縣、官人參迎し禮拜歡喜し即ち禁ずる所の三綱
等を放出す。採訪使、處分して舊により本寺に住せしめ、三綱に約束防護せしめて曰く「更に他国に向は令むること勿れ」と。諸州の道俗は大和上の還至を聞き、各の四事供養を辦じ、競い來って慶賀し、遞相把手して慰勞す。獨り大和上憂愁す。靈祐を呵嘖し開顏賜はらず。其の靈祐は日日懺謝して歡喜を乞ふ。毎夜一更(午後七時頃)に立ち五更(午前五時頃)に至って謝罪す。遂に六十日を終る。又諸寺三綱大徳共に來禮し歡喜を謝乞す。大和上乃ち開顏する耳。

(第五回目の渡航。天寶七年(748)和上60歳
天寶七載(748年)の春なり。榮叡普照師、同安郡より揚州崇福寺大和上の住所に至る。大和上更に二師と方便を作す。舟を造り香藥を買ひ百物を備辦す。一に天寶二載所
備の如し。同行人の僧、祥彦・神倉・光演・頓悟・道祖・如高・徳清・日悟・榮叡・普照・思託等、道俗一十四人、及び水手一十八人を化得す。又た餘の相ひ隨ふを樂ふ者合せて三十五人。六月二十七日崇福寺より發し揚州新河に至る。乘舟し下りて常州界狼山に至る。風急に浪高く三山を旋轉す。明日、風を得て、越州界三塔山に至り、停住すること一月。好風を得て發して署風山に至る。停住すること一月。十月十六日晨朝大和上云く、「昨夜夢に三官人を見る。一は緋を著し、二は緑を著す。岸上に於いて拜別す。知る。是は國神の相別する也。疑ふらくは是の度は必ず渡海することを得る也」と。少時、風起りて頂岸山を指して發す。東南に山を見れども日中に至りて其の山滅す。知る。是れ蜃氣也。岸を去りて漸く遠し。風急に波峻なり。水黒きこと墨の如し。沸浪の一透して高山に上るが如し。怒濤再び至りて深谷に入るに似たり。人皆荒醉し但だ觀音を唱ふ。舟人告て曰く「舟今沒せんと欲す。何ぞ惜む所あるや」と。即ち棧香籠(水に入れると浮きも沈みもしない香木)を牽きて抛んと欲す。空中に聲言あり「抛る莫れ。抛る莫れ」と。即ち止む。中夜時に舟人言く「怖る莫れ。四神王の甲を著け、杖を把る有り。二は舟頭にあり。二は檣舳邊にあり」と。衆人之を聞き、心裏稍や安ず。三日蛇海を過ぐ。其の蛇の長は一丈餘。小は五尺餘。色皆斑斑。海上に滿泛す。三日飛魚海を過ぐ。白色の飛魚、空中に翳滿す。長さ一尺許。一日飛鳥海を經る。鳥大人の如し。舟上を飛集す。舟重く沒せんと欲す。人手を以て推すに鳥即ち銜手す。其後二日物なし。唯急風高浪あり。衆僧惱臥す。但だ普照師、毎日食時に生米少し許りを行ひて、衆僧に与へて、以て中食に充つ。舟上水なし。米を嚼みても喉乾き咽に入らず。吐けども出ず。鹹水を飮みて腹即ち脹る。一生の辛苦、何ぞ此れより劇しき。海中に忽ち四隻の金魚あり。長各一丈許なり。舟の四邊を走繞す。明旦、風息み山を見る。人總て渇水して死なんと欲するに臨む。栄叡師、面色忽然として、怡悦して即ち説て云く「夢に官人を見る。我に受戒懺悔を請ふ」と。叡曰「貧道甚だ渇へて水を得んと欲す。彼の官人、取水して叡に與ふ。水色乳汁の如し。取て飮むに甚だ美なり。心既に清涼なり。叡、彼の官人に語りて曰く『舟上三十餘人、多日飮水せず。甚大に飢渇す。請ふ、檀越、早く取水して來れ』と。時に彼官人、雨令老人を喚びて處分して云く。『汝等大了事の人なり。急ぎて水を送り來れ』と。夢相如是なり。水今に應に至らむ。諸人急須して碗を把りて待て」と。衆人此を聞きて總て歡喜す。明日未時、西南空中に雲起り、舟上を覆ひて注雨す。人人碗を把して承って飮む。第二日
亦た雨至る。人皆飽足す。明旦、岸に近ずく。四白魚有りて來りて舟を引く。直ちに泊舟浦に至る。舟人碗を把り競って岸頭に上り、水を覓む。一の小崗を過て、便ち池水に遇ふ。清涼甘美なり。衆人爭て飮み各の飽滿を得る。後日更に池に向かひて汲水せんと欲すに昨日の池處は但だ陸地ありて池を見ず。衆共に悲喜す。知る、是れ神靈の化して池を出す也。是時冬十一月。華蕊開敷し、樹実・竹筍、夏を弁ぜず。凡そ海中に在こと十四日を経て、方に岸に著くを得たり。人をして浦を求めしむ。乃ち四經紀人(ブローカー)あり。便ち引道して去る。四人口に云ふ。「大和尚は大果報なり。弟子に遇ふ。然らざれば死すべし。此間の人物、人を喫ふ。火急に去來せよ」と。便ち引舟し去りて浦に入る。晩に一人の被髮帶刀を見る。諸人大に怖れて食を與ふれば便ち去る。夜發して三日を經、乃ち振州江口泊舟に到る。其經紀人は徃て郡に報す。其の別駕、馮崇債、兵四百余人を遣して、来り迎へて引て州城に到る。
別駕來迎して乃ち云ふ「弟子早くに大和上の來るを知る。昨夜夢有り。僧姓豐田、當に是れ債の舅なるべし。此間、若し姓の豐田なる者あるや否」。衆僧皆云ふ「無也」。債、曰く「此の閒、姓豊田なる人無と雖ども、今大和尚即ち将に弟子の舅なるべし」と。即ち迎て宅内に入れて、齋を設て供養す。又大守廳内において設會授戒す。仍ち入州し大雲寺に安置す。其寺佛殿壞廢す。衆僧各の衣物を捨てて佛殿を造る。住すること一年にして造り了んぬ。別駕
憑崇債、自ら甲兵八百餘人を備へ、送經四十餘日、萬安州に至る。州の大首領の憑若芳、請ひて其家に住はしめ三日供養す。若芳は毎年、常に波斯の舶三二艘を劫取し、取物を
己貨と為し、掠人を奴婢と為す。其の奴婢の居處は南北三日行・東西五日行なり。村村は相次ぎ總て是の若芳の奴婢の住處也。若芳、客を會するに、乳頭香を常用して燈燭と為して、一燃に一百余斤。其の宅後に、蘇芳木(スオウボク)露積して山の如し。其の余の財物亦此に稱ふのみ。行て岸州界に到て賊無し。別駕乃ち迴去す。
榮叡普照、海路に従ひ四十餘日を経て岸州に到る。州の遊弈大使張雲、出迎へ拜謁し、引入して開元寺に住せしむ。官寮參省設齋し施物すること一屋に盈滿す。彼の處、珍異口味、乃ち益知子・檳榔子・茘支子・龍眼・甘蔗・拘莚樓頭あり。大きさ鉢盂の如し。甘きこと蜜よりも甜し。花は七寶色の如し。膽唐香樹叢生して林を成す。風は香を至して聞くこと五里之
外なり。又波羅捺樹あり。果は大きこと冬瓜の如し。樹は楂畢鉢草に似たり。今見るに葉は水葱の如し。其の根の味は乾柹に似たり。十月田を作り、正月收粟す。養蠶八度。收稻再
度。男は木笠を著し、女は布絮を著す。人皆な彫蹄鑿齒し、繍面鼻飮す。是れ其れ異也。大使已下典正に至るまで番を作り衆僧供養す。大使自ら手から行食す。優曇鉢樹葉を將て以
て生菜に充つ。復た優曇鉢子を將て衆僧に供養す。乃ち云はく「大和上知るや否や。此れ是の優曇鉢樹子、此の樹に子華あり。弟子、大和上に得遇するは優曇鉢華の如し。甚だ値遇し難し。其の葉は赤色・圓一尺餘なり。子の色は紫丹にして氣味甜美。彼の州火に遭ふ。寺も共に燒かる。大和上大使の請を受けて造寺す。振州別駕、大和上の造寺を聞きて、即ち諸奴を遣はして各の一椽(小屋)を進めしむ。三日の内に一時に將來して、即ち佛殿講堂塼塔を構ふ。椽木の餘は又、釋迦文丈六佛像を造る。登壇受戒し、律を講じ、度人已に畢んぬ。即ち大使に別して去る。仍ち澄邁縣令をして看送上船せしめ三日三夜にして便ち雷州に達す。羅州・辨州・象州・白州・傭州・藤州・梧州・桂州等の官人僧道父老、迎送禮拜し、供養・承事す。其事無量なり。言記すべからず。始安の都督、上黨の公馮・古璞等、城外に歩出し、五體投
地、接足而禮し、開元寺に引入す。初て佛殿を開くに香氣城に滿つ。城中の僧徒、幢を擎け、香を焼き、梵を唱て、雲の如くに寺中に集る。州縣の官人百姓、街衢に填滿し禮拜讃歎し日夜絶へず。憑都督來りて自手行食、衆僧を供養す。大和上に請ひて菩薩戒を受く。其の所の都督七十四州の官人、選擧試學の人、此州に併集す。都督に隨ぎて菩薩戒を受くる人其數無
量なり。大和上留住一年、時に南海郡太都督、五府經略採訪大使、攝御史中丞、廣州大守盧煥、牒を諸州に下し、大和上を迎へて廣府に向かはしむ。時に憑都督來りて大和上を親送す。自ら扶けて上船し口に云ふ「古璞は大和上と終に彌勒天宮に至って相見せん」と。而して悲泣別去す。桂江を下ること七日にして梧州に至る。次に端州龍興寺に至る。榮叡師奄然として遷化す。大和上哀慟悲切し送喪して去る。端州の太守、迎引して廣州に送至す。盧都督諸道俗を率いて城外に出て迎ひ恭敬承事す。其事無量なり。大雲寺に引入し四事供養し、
登壇受戒す。此寺に呵梨勒樹二株あり。子は大棗の如し。又開元寺に胡人あり。白檀を以って華厳経九会を造る。工匠六十人を率ひ三十年にして造り畢んぬ。物を用ひること三十萬貫錢。將に天竺に往んと欲す。採訪使劉臣隣奏状す。勅して開元寺に留め供養す。七寶莊嚴不可思議なり。又婆羅門寺三所あり。並びに梵僧居住す。池に青蓮華あり。華・葉・根・莖並びに芬馥奇異なり。江中に婆羅門あり。波斯・崑崙等の舶、其數知らず。並びに香藥珍寶を載せ積載すること山の如し。舶深は六七丈なり。師子國・大石國・骨唐國・白蠻・赤蠻等
往來居住す。種類極て多し。州城は三重なり。都督六纛(とう・はたぼこ)を執る。一纛一軍。威嚴は天子に異ならず。紫緋は城に滿つ。邑居逼側す。大和上此に住すること一春、發して韶州に向かふ。城を傾て送遠す。乘江七百餘里、韶州禪居寺に至る。留住すること三日。韶州の官人又迎引して法泉寺に入る。乃ちれ則天が慧能禪師の為に造りし寺也。禪師影像今現在す。後に開元寺に移る。普照師此より大和上を辭し嶺北に向ひ明州阿育王寺に去る。是歳天寶九載(750)也。時に大和上普照師の手を執りて悲泣して曰く「戒律を傳へんが為、過海を發願す。遂に日本國に至らず。本願遂げず。是に於いて手を分かつ。感念無喩なり」。時に大和上頻りに炎熱を經、眼光暗昧なり。爰に胡人あり、能く治目すとて療治を加へれども眼遂に失明す。後に靈鷲寺・廣果寺に巡遊し登壇授戒し、貞昌縣に至る。大庾嶺(たいゆれい・江西省と広東省との境にある山)を過ぎ、虔州開元寺に至る。僕射(ぼくや・中国の官名。左右各1名が置かれる)鍾紹京左隣、此に在りて大和上を請じて宅に至る。壇を立て受戒す。次に吉州に至る。僧祥彦舟上に於いて端坐して、思託師に問ふて云く「大和上、睡り覺るや」。思託答曰「睡り未だ起きず」。彦云「今死別せんと欲す」。思託大和上に諮る。大和上燒香し曲几を將じて來り彦をして几に憑り西方に向かひ阿彌陀佛を念ぜしむ。彦即ち一聲唱佛し端坐寂然無言なり。大和尚乃ち「彦彦」と喚び悲慟無數なり。
時に諸州道俗、大和上嶺北に歸るを聞きて、四方より奔集して日に常に三百以上なり。人物駢闐(へんてん・群がる)、供具煒燁(いよう・かがやく)なり。此より江州に向かひ、廬山東林寺に至る。是れ晋代慧遠法師の所居也。遠法師是に於いて立壇授戒す。天は甘露を降らす。因って甘露壇と号す。今尚存す。近くは天寶九載(750)、志恩律師ありて此の壇上に於いて授戒す。又、天は感じて甘露を雨ふらす。道俗見聞して晋遠に同じきことを歎ず。大和上此地に留連すること已に三日を經る。即ち潯陽龍泉寺に向かふ。昔遠法師是に於いて立寺するが水無し。發願して曰く「若し此地に於いて棲止に堪へば當に抽泉せしめるべしと。錫杖を以て扣地す。二青龍あり。錫杖上に尋ね、水即ち飛涌す。今尚ほ其の水、地上三尺に涌出す。因って龍泉寺と名く。此の陸行より江州城に至る。太守、州内の僧尼・道士・女官を追集す。州縣の官人・百姓、香華音樂し來迎して請ひて三日停めて供養す。太守潯陽縣より親從し九江驛に至る。大和上乘舟し大守と別去す。此より七日、潤州江寧縣に至り瓦官寺登寶閣に入る。閣高二十丈。是梁武帝之所建也。今に至る三百餘歳、傾損微有なり。昔一夜
暴風急吹す。明旦、人、閣下四隅に四神跡あるを看る。長さ三尺、地に入ること三寸。今四神王像を造り、閣の四角を扶持す。其神跡今尚ほ存す焉。昔梁武帝、佛法を崇信し、伽藍を興建す。今、江寧寺・彌勒寺・長慶寺・延祚寺等其數甚多なり。彫刻を莊嚴し已に工巧を盡くす。大和上之弟子僧靈祐、大和上の來るを承り、遠く栖霞寺より迎來す。大和上を見たてまつりて五體投地し大和上の足に進接し展轉悲泣して歎きて曰く「我大和上遠く海東に向かふ。自ら謂へらく一生再覲するを獲ず。今日親禮し、誠に盲龜の開目見日の如し。戒燈重ねて明かに、昏衢(こんく・暗黒のちまた)再び朗らかなり」と。即ち栖霞寺に引還し住むこと三日。却って攝山に下り楊府に歸す。江を過ぎて新河岸に至り即ち楊子亭既濟寺に入る。江都の道俗道路に奔填す。江中迎舟して軸艫連接す。遂に入城して本龍興寺に住す也。大和
上南振州より來りて楊府に至る。經る所の州縣で立壇授戒す。空しく過ぐる無し。今亦た龍興・崇福・大明・延光等の寺に於いて講律授戒し暫くも停斷なし。昔、光州道岸律師、世挺生に命じて、天下四百餘州以って授戒之主と為す。岸律師遷化之後。其弟子杭州義威律師、四遠に響振し、徳八紘に流る。諸州亦以って授戒師と為す。義威律師無常之後、開元二十一年(733)時に大和上年滿四十六。准南江左、淨持戒者、唯だ大和上獨り秀で無倫なり。道俗歸心し、仰ぎて授戒之大師と為す。凡そ前後に大律并に疏を講ずること四十遍。律抄を講ずること七十遍。輕重儀(量處輕重儀)を講ずること十遍。羯磨疏を講ずること十遍。三學を具修し、五乘・外秉(へい)威儀に博達す。内には奧理を求め、講授之間、寺舍を造立し、十方衆僧を供養す。佛菩薩像を造ること其數無量なり。納袈裟千領布袈裟二千餘領を縫し、五臺山僧に送る。
無遮大會を設け悲田を開きて貧病を救濟す。敬田を啓きて供養三寶す。一切經三部を寫す。各一萬一千卷なり。前後に人を度し授戒すること略計ぼ四萬有餘を過ぐ。其弟子中、超群拔萃、世の師範と為る者は、即ち榻州崇福寺僧祥彦・潤州天響寺僧道金・西京安國寺僧
光・潤州栖霞寺僧希瑜・揚州白塔寺僧法進・潤州栖霞寺僧乾印・沛州相國寺僧神邕・潤州三昧寺僧法藏・江州大林寺僧志恩・洛州福先寺僧靈祐・揚州既濟寺僧明烈・西京安國寺僧明債・越州道樹寺僧眞・揚州興雲寺僧惠琮・天台山國清寺僧法雲等三十五人あり。并びに翹楚(ぎょうそ・抜きんでる)爲り。各の一方に在り。世に弘法して群生を導化す。

第六回目の渡航。天寶十二年(753)十月
天寶十二載(753)次癸巳十月十五日壬午。日本國使大使特進藤原朝臣清河・副使銀青光
録大夫光祿卿大伴宿彌胡麻呂・副使銀青光祿大夫祕書監吉備朝臣眞備・衞尉卿安倍朝臣朝衡等、延光寺に來至す。大和上に白して云く「弟子等早くに大和上五回の渡海して日本國に向かひて將に傳教せんと欲るを知る。故に今、親しく顏色を奉じて頂禮歡喜す。弟子等先
に大和上の尊名并びに持律弟子五僧を録し、已に主上に日本に向かひて傳戒すことを奏聞す。主上、道士を將して去らしめんと要す。日本君王は先に道士の法を崇めず。便ち留春・桃原等四人を奏して道士の法を住學せしむ。此の為に大和上の名も亦た奏す。退願すべくは
大和上、自ら方便を作せ。弟子等自ら國の信物を載する船四舶あり。行裝具足せり。去も亦た無難なり。時に大和上許諾し已竟んぬ。時に揚州の道俗皆云ふ「大和上日本國に向かはんと欲す」と。是によりて龍興寺の防護甚固なり。進發するに由なし。時に仁幹禪師といふものあり。務州より來る。密に大和上の出んと欲するを知りて、於江頭に船舫を備具して相ひ待つ。大和上、天寶十二載(753)十月二十九日戌時、龍興寺より出、江頭に至り乘船して下る。時に二十四沙彌あり。悲泣走來して大和上に白して言さく「大和上、今海東に向かふ。重觀由しなし。我今、最後の結縁を請預す」と。乃ち江邊に於いて二十四沙彌に授戒訖んぬ。乘船下って蘇州黄洫浦に至る。相隨の弟子は、揚州自塔寺僧法進・泉州超功寺僧曇靜・台州開元寺僧思託・揚州興雲寺僧義靜・衢州靈耀寺僧法載・竇州開元寺僧法成等一十四人、藤州通善寺尼智首等三人、楊州優婆塞・潘仙童、胡國人安如寶(のちに弘法大師はこの如法の為に「大徳如寶のために招提寺の封戸を恩賜するを奉謝する表」を書かれています)、崑崙國人軍法力、謄波國人善聽
都て二十四人なり。
(鑑真は四部律関係以外に王義之の書・佛器等も招来されていて日本文化を発展させました。一部は正倉院に保存されているようです。)
將ずる所の如來肉舍利三千粒。功徳繍普集變一鋪。阿彌陀如來像一鋪。彫白栴檀千手像一躯。繍千手像一鋪。救世觀世音像一鋪。藥師・彌陀・彌勒菩薩瑞像各一躯。
同障子金字大方廣佛華嚴經八十卷。大佛名經十六卷。金字大品經一部。金字大集經
一部。南本涅槃經一部四十卷。四分律一部六十卷(法蔵部の律,姚秦の仏陀耶舎が竺仏念らとともに訳出。内容が4つの部分に分けて説かれているためにこの名称がある。漢訳律中,日本でも最も普及した。のちに大師もこの具足戒を受けられています。)。法勵師四分疏五本各十卷。光統律師四分疏百二十紙。鏡中記二本。智周師菩薩戒疏五卷。靈溪釋子菩薩戒疏二卷。天台止觀法門。玄義文句各十卷。四教儀十二卷。次第禪門十一卷(『釈禅波羅蜜次第禅門』のこと。 十巻または十二巻。 天台大師智顗の講述を法慎が筆録し灌頂が再治したもの。 諸種の禅法を実践して、実相の理に証入することを説く)。行法華懺法一卷。小止觀一卷。六妙門一卷(天台大師智顗の説。数息・随息・止・観・還・浄を修することによって涅槃を得る三乗人の禅定をいう)。明了論一卷。(陳真諦譯律二十二明了論
。定賓律師飾宗義記九卷(定賓の著した『四分律』の解説書)。補釋飾宗記一卷。戒疏二本各一卷(『天台戒疏』ともいう。智顗の講説を門人の灌頂が筆録した大乗菩薩戒に関する書
。觀音寺亮律師義記二本十卷。南山宣律師含注戒本一卷及疏。行事鈔五本。羯磨疏等二本。懷素律師戒本疏四卷。大覺律師批記十四卷。音訓二本。比丘尼傳二本四卷。玄奘法師西域記一本十二卷。終南山宣律師關中創開戒壇圖經一卷都合四十八部。及び玉環水精手幡四口。□□金珠□
西國琉璃瓶盛□菩提子三斗。青蓮華廿莖。玳瑁疊子八面。天竺革履二緉。王右軍眞蹟行書一帖。小王眞蹟行書三帖。天竺朱和等雜體書五十帖。□□□□□□□□□□□□。水精手幡已下皆進内裏。又阿育王塔樣金銅塔一區。
二十三日庚寅、大使、大和上已下を處分して副使已下の舟に分乘せしめ畢る。後に大使已下共に議して曰く「方に今、廣陵郡、又大和上日本國に向かはんことを覺知す。將に搜舟せんと欲す。若し搜されて得れば使妨有りとなる。又風に漂はされ唐界に還著せば罪惡を免れず」。是によりて衆僧總て下舟して留る。十一月十日丁未夜。大伴副使竊に大和上及衆僧を招き、己の舟に納れて總て知らしめず。十三日普照師、越餘姚郡より來って吉備副使舟に乘る。十五日壬子四舟同じく發す。一雉あり。第一舟前に飛ぶ。仍ち下碇して留り、十六日發す。


(天寶十二年(753)十二月二十一日沖縄に着く)
二十一日戊午第一第二乘兩舟、同じく阿兒奈波島(沖縄)に至る。多禰島(大隅諸島)西南にあり。第三舟は昨夜已に同處に泊す。十二月六日南風起。第一舟石不動に著く。第二舟多禰に向かって發し去る。七日益救島(やくしま)に至る。十八日益救より發す。十九日風
雨大發。不知四方。午時浪上に山頂を見る。二十日乙酉午時、第二舟薩摩國阿多郡秋妻
屋浦に著す。二十六日辛卯、延慶師(不詳)大和上を引いて太宰府に入る。
天平勝寶六年甲午(754)正月十一日丁未副使從四位上大伴宿禰胡麻呂、大和上を奏して築志太宰府に至る。二月一日難波に到る。唐僧崇道等迎慰供養す。三日河内國に至る。大納言正二位藤原朝臣仲麻呂、遣使を迎慰す。復た道律師あり。遣弟子の僧善談等迎勞す。復た高行僧志忠といふものあり。賢璟・靈福・曉貴等三十餘人迎來禮謁す。四日入京。正四位下安宿王勅遣し、羅城門外に於いて迎慰拜勞し、東大寺に引入し安置す。五日唐道律師婆羅門
菩提僧正來りて慰問す。宰相・右大臣・大納言已下官人百餘人來りて禮拜問訊す。後に勅使正四位下吉備朝臣眞備來りて口に詔して曰く「大徳和上、遠く滄波を渉り此國に來投す。誠に朕が意に副(かな)ふ。喜慰喩なし。朕、此の東大寺を造りて十餘年を經る。戒壇を立て戒律を傳受せんと欲す。此の心有るに自り日夜不忘。今諸大徳遠く傳戒に來る。冥に朕が
心に契(かな)ふ。自今以後。受戒傳律、大和尚に一任す。又僧都良辨に勅し、諸の監壇の大徳名を録して禁内に進めしむ。日を経ずして傳燈大法師位を勅授す。其年四月。初めて
盧遮那殿前に戒壇を立つ。天皇初て登壇して菩薩戒を受く。次に皇后皇太子亦た登壇受戒す。尋で沙彌證修等四百四十餘人授戒す。又舊大僧靈祐・賢璟・志忠・善頂・道縁・平徳・忍基・善
謝・行潜・行忍・等八十餘僧、舊戒を捨て、大和上所授之戒を受く。後に大佛殿西に於いて別に戒壇院を作る。即ち天皇受戒壇の土を移して之を築作す。

大和上天寶二載より始めて、傳戒の為に五度裝束し渡海艱辛す。漂迴さると雖も本願不退。第六度に至って日本に過ぐ。三十六人總て無常し去る。退心の道俗は二百餘人。唯だ大和上・學問僧普照・天台僧思託、始終六度、經逾十二年、遂に本願を果たし來りて聖戒を傳ふ。方に知る、濟物の慈悲、宿因深厚なり。不惜身命、度する所、極て多し。時に四方より來りて學ぶ戒律者あれども、供養無きに縁て多く退還すること有り。此の事、天聴に漏れ聞ふ。仍ち、宝字元年丁酉(757)十一月廿三日を以て、勅して備前の国水田一百町を施す。大和尚、此の田を以て、伽藍を立んと欲す。時に勅旨有て、大和尚に園地一區を施玉ふ。是れ故一品、新田部親王の旧宅なり。普照・思託、大和尚に請ひて、此の地を以て伽藍と為し、長く四分律蔵・法勵の四分律疏・鎭國道場の飾宗義記・宣律師の鈔を伝へて、持戒の力を以て、国家を保護せんとす。大和尚言く「大に好し」と。即ち宝字三年(759)八月一日、私に唐律招提の名を立て、後に官額を請ふ。此に依て、定と為す。還た、此の日を以て、善俊師を請じて、件の疏記等を講ぜしむ。立つる所の者は、今の唐招提寺是なり。初め大和尚、中納言従三位氷上真人の延請を受け、宅に就て、窺かに其の土を甞めて、寺を立つべきことを知る。仍ち弟子の僧法智に語らく、此れ福地なり。伽藍を立つ可と。今遂に寺と成る。謂つべし、明鑒の先見なり。大和尚、象季に誕生して、親く佛使と為る。経に云く、如来処処に人を度す。汝等、亦如来に斅て、広く度人を行ぜよ。大和尚、既に遺風を承て、人を度すること、四萬に逾ふ。上の略件、及び講の遍数の如し。唐の道璿律師、大和尚の門人思託を請て曰く、承学、基緒有り。璿が弟子漢語の者閑なり。勵の疏、并びに鎭國記を学ばしむ。幸見開導。僧思託、便ち大安の唐院を受て、忍基等の為に、四五年の中、研磨すること数遍なり。宝字三年、僧忍基、東大の唐院に於て、疏記を講じ、僧善俊、唐寺に於て、件の疏記を講ず。僧忠慧、近江に於て、件の疏記を講じ、僧恵新、大安の塔院に於て、件の疏記を講ず。僧常巍、大安寺に於て、件の疏記を講じ、僧真法、興福寺に於て、件の疏記を講ず。此れ従り以来、日本の律儀、漸漸厳整にして、師資相ひ伝て、寰宇(かんう・天下)に遍し。佛の所言の如し。我諸弟子展轉して之を行ぜば即ち如來常在不滅たり、と(遺教経に「我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、則ち是れ如来の法身常在にして而も不滅なり」)。亦、一燈を百千燈に燃すが如し。瞑き者は皆な、明明として絶へず。

(天平寶字七年(763)五月六日和上遷化。春秋七十六。)
宝字七年癸卯(763)の春、弟子僧忍基、夢に講堂の棟梁摧折すと見る。窹て驚懼す。大和尚遷化せんと欲するの相なりと。仍て諸の弟子を率て、大和尚の影を摸す。是の歳五月六日、結跏趺坐し、西に面して化す。春秋七十六。化して後三日、頂上猶を煖なり。是に由て、久く殯殮せず。闍維(じゃい・荼毘)に至て、香気山に満つ。平生嘗て、僧の思託に謂って言はく、我れ若し終巳せば、願くば坐して死せん。汝我が為めに戒壇院に於て、別に影堂を立つべし。旧住の坊は、僧に与て住せしめよと。千臂経に云く「終りに臨で端坐し禅定に入が如し。當に知るべし、此の人、巳に初地に入る」。茲を以て、之を験る。聖凡、測し難し。同八年甲辰、日本国の使を唐の揚州の諸寺に遣す。皆な大和尚の凶聞を承け、総て喪服を著け、東に向て哀を挙ぐること三日。都て龍興寺に会して、大齋会を設く。其の龍興寺、是より先、失火して皆な焼かれども大和尚昔住の院坊、獨り焼損せず。是れ亦、戒徳の余慶なり。
法務贈大僧正唐鑑眞大和上傳記一巻
唐大和上東征傳一卷
寶龜十年歳次己未(779)二月八日己卯撰

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