福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金剛般若波羅蜜經

2024-04-09 | 諸経
・金剛般若経の題意
大師は「金剛般若波羅蜜經開題」で
「(金剛般若波羅蜜經の梵字名である)バザラセイジキャハラジニャハラミタソタランの十三字は四名を詮す。筏日羅の二字は金剛と翻じ、セイジキャの三字は能斷と名け、ハラジニャの二字は智惠と名け、ハラミタの四字は已究竟と呼び、ソタランは貫線と號く。即ち此の四名を合束し一會の經目と為す。・・
(唐の訳では「金剛般若波羅蜜經」というが)「金剛」は即り堅實之名。「般若」は智惠之稱。
「波羅蜜」は到彼岸と翻ず。「經」は曰く不改の軌範なり・・」とされてその後に密教的深い解釈をされています。別途出します。

・金剛般若経の概要
仏が舍衞國祇樹給孤獨園にましましきとき、須菩提の問いにお答えになって、我相等を以て布施持戒等の般若波羅蜜行を行ずるは菩薩ではない。無所得・無諸住等の心で清浄新を起こせば仏土も清浄であり、清浄心であれば如来を見ることができる、とお説きになります。仏教大辞典では「要するにこの経の眼目は「応無所住而生其心」の八字に言い尽くされる」とあります。長尾 雅人「金剛般若経に対する無著の釈偈」では「「金剛般若経」そのものは「無所住」を思想的な根幹とし、それをめぐって「法」や「仏身」や「功徳」についての話題をくりかえし何度も述べている。菩薩の功徳の大きさも、法をいかに考え、仏をいかに見るかによって決まってくる。」と書いています。




(三十二の段落に分ける分け方は「梁朝傅大師頌金剛經」にあるのでそれを付けました)

法会因由分第一
如是我聞。一時佛、舍衞國祇樹給孤獨園に坐しましき。
大比丘衆千二百五十人と倶なり。爾時世尊食
時に著衣し持鉢して舍衞大城に入りて乞食す。其城中において次第に乞已りて還りて本處に至り飯食訖りて衣鉢を收め洗足し已りて敷座而て坐す。


善現啓請分第二
時に長老・須菩提、大衆中に在り。即ち座より起ちて偏袒右肩・右膝著地・合掌恭敬して白佛言「希有なり世尊、如來は善く諸菩薩を護念し、善く諸菩薩に付囑す。世尊、善男子善女人の阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は應に云何んが住すべきや、云何んが其心を降伏せんや。」佛言「善哉善哉。須菩提。汝の所説の如し。如來は善く諸菩薩を護念し、善く諸菩薩に付囑す。汝今諦聽せよ。當に汝が為に説かん。善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩提心を発せんに應に如是に住し、如是に其心を降伏すべし」「唯然世尊、願樂して聞んと欲す」

大乗正宗分第三
佛、須菩提に告げたまはく「諸菩薩摩訶薩、應に如是に其心を降伏すべし、『所有一切衆生之類、若しは卵生・若しは胎生・若しは濕生・若しは化生・若しは有色・若しは無色・若しは有想・若しは無想・若しは非有想非無想、我皆、無餘涅槃に入れて而も之を滅度せしむ。如是に無量無數無邊衆生を滅度すれども實は
衆生の滅度を得る者なし』と。何以故。須菩提。若し菩薩に我相・人相・衆生相・壽者相あらば(生きているという思いがあれば)即ち菩薩に非ざればなり。

妙行無住分第四
復次に須菩提よ、菩薩は法に於いて應に住する所なくして布施を行ずべし。所謂る色に住せずして布施し、聲香味觸法に住せずして布施せよ。須菩提よ、菩薩は應に如是に布施して相に住せざるべし。何以故。若し菩薩、相に住せずして布施せば其福徳は不可思量なり。須菩提よ、意において云何。東方の虚空は思量すべきや不や」。「不也世尊」。「須菩提よ、南西北方四維上下の虚空は思量すべきや不や」。「不也世尊」。「須菩提よ、菩薩の相に住することなき布施の福徳も亦復如是に不可思量なり」。「須菩提よ、菩薩は但だ應に教ふる所の如く住すべし。

如理實見分五
須菩提よ、意において云何。身相を以て如來を見たてまつるべきや不や。」「不也世尊。身相を以て如來を見たてまつるべからず。何以故。如來所説の身相は即ち非身相なればなり。」佛、須菩提に告げたまはく「凡そ所有る相は皆な是れ虚妄なり。若し諸相の非相を見れば則ち如來を見る」

正信稀有分第六
須菩提白佛言「世尊。頗すこぶる衆生の如是の言説章句を聞くを得て實信を生ずることを得るや不や」。佛告須菩提「是の説を作す莫れ。如來滅後後五百歳。持戒修福者が此章句において能く信心を生じ此をもって實と為すもの有らば當に知るべし、是の人は一佛二佛三四五佛において善根を植へしのみならず、已に無量千萬佛所に於いて諸善根を植へ、是の章句を聞きて乃至一念に淨信を生じる者なり。須菩提よ、如來は是の諸衆生の如是の無量の福徳を得ることを悉く知り悉く見たまふ。何以故。是の諸衆生には復た我相・人相・衆生相・壽者相なく、法相もなく亦た非法相も無ければなり。何以故。是の諸衆生は、若し心に相を取らば則ち我と人と衆生と壽者に著すればなり。若し法相を取らば即ち我・人・衆生・壽者に著すればなり。何以故。若し非法相を取らば即ち我・人・衆生・壽者に著すればなり。是故に應に法をも取るべからず。應に非法をも取るべからず。是の義を以ての故に。如來は常に説きたまはく『汝等比丘、我が説法は筏喩の如きものと知れ。法すら尚ほ捨つべし、何んが況んや非法をや』と。


無得無説分第七
須菩提よ、意において云何。如來は阿耨多羅三藐
三菩提を得たまふ耶。如來に所説の法有り耶」。須菩提言「我れ佛所説の義を解する如くんば、定んで法の阿耨多羅三藐三菩提と名くるものあることなく、亦た定んで法の如來可説もあることなし。何以故。
如來所説の法は皆な不可取不可説、法に非ず非法に非ざればなり。
所以者何。一切賢聖は皆な無爲法(中村元「金剛般若経」では「英語ではしばしばthe unconditionedと訳される」とあります)に差別あるを以てなり。

依法出法分第八
須菩提。意において云何。若し人、三千大千世
界に満る七寶を以って布施に用んに、是人の得るところの福徳は寧ろ多しや不や」。須菩提言「甚多し、世尊。何以故。是の福徳は即ち福性に非ざるゆえに。是故に如來は福徳多しと説きたまふ」。「若し復た人有りて此經中において四句偈等を受持し乃至他人の為に説くことあらば、其の福は彼よりも勝れたり。何以故。須菩提よ、一切諸佛及び諸佛の阿耨多羅三藐三菩提法は皆な此經より出ずればなり。須菩提よ、所謂る佛法は即ち佛法に非ず。

一相無相品第九
須菩提。意において云何。須陀洹(預流果の者・入流)は能く是れ『我は須陀洹果を得たり』と念を作すや不や」。須菩提言「不也世尊。何以故。須陀洹を名けて入流と為す。而れども入る所なければなり。色聲香味觸法に入らず。是を須陀洹と名く」。「須菩提よ、意に於いて云何。斯陀含(しだごん・一来)は能く是れ我は斯陀含果を得たりとの念を作すや不や」。須菩提
言「不也世尊。何以故。斯陀含は名て一往來とす。而れども實に往來無し。是を斯陀含と名く」。「須菩提よ、意に於いて云何。阿那含(あなごん・不来)は能く是の念を作さんや否や。『我は阿那含果を得たり』と」。須菩提言「不也世尊。何以故。阿那含は名て不來と為す、而も實には無來なり。是故に阿那含と名く」。「須菩提よ、意に於いて云何。阿羅漢は能く我は阿羅漢道を得たりとなすや不や」。須菩提言「不也世尊。何以故。實に法として名けて阿羅漢といふもの有ること無ければなり。世尊。若し阿羅漢の是の念『我は阿羅漢道を得たり』を作さば、即ち我・人・衆生・壽者に著せりと為す。世尊、仏は我れを『無諍三昧(「衆生を悩まさず、能く衆生をして煩悩を起こさざらしむ。故に仏これを讃す ・金剛般若経論纂要」)を得た人中最第一たり、是第一の離欲阿羅漢也』と説かれたれども、我は是の念『我は是れ離欲阿羅漢なり』を作さず。世尊よ、我れもし我は阿羅漢道を得たりとの念を作さば、世尊は則ち『須菩提は是れ阿蘭那行をねがふ者なり。須菩提は実に所行無きを以て而も須菩提は是れ阿蘭那行を樂ふと名く』と説きたまはざりしならん」。


荘厳浄土分第十
佛、須菩提に告げたまはく「意において云何。如來昔、然燈佛所に在して法において所得ありや不や」。「不なり世尊。如來は然燈佛所に在りて法において實に無所得なり」。「須菩提よ、意において云何。菩薩は佛土を莊嚴するや不や」。「不也世尊。何以故。佛土を莊嚴するとは則ち莊嚴にあらざればなり。是を莊嚴と名く。是故須菩提。諸菩薩摩訶薩は應に如是に清淨心を生ずべし。色に住して心を生ずべからず。聲香味觸法に生して心を生ずべからず。應に住する所無くして其心を生ずべし(六祖壇経に「五祖は夜の三更に至って慧能を堂内に喚び袈裟を以て遮り囲み、人をして見せしめ図、慧能の為に「金剛経」を説く。恰も「応無所住而生其心」に至るや、言下にすなわち一切万法は自性を離れざることを悟る」とあり。)須菩提。譬ば人身の須彌山王の如きものあるが如くんば意において云何。是の身は大となすや不や」。須菩提言「甚だ大なり、世尊。何以故。佛は『非身是を大身と名く』と説きたまへればなり。


無為福勝分第十一
「須菩提。恒河中にあらゆる沙の如是の沙と等しき恒河ありとせんに意において云何。是の諸恒河の沙は寧ろ多しと為すや不や」。須菩提言「甚多世尊。但だ諸の恒河すら尚ほ多きこと無數。何況や其の沙をや」。「須菩提よ、我今實言して汝に告ぐ。若し善男子善女人ありて七寶を以て布施するに爾所の恒河沙數三千大千世界を滿たすに福を得ること多からんや不や。」須菩提言「甚だ多し世尊」。佛告須菩提「若し善男子善女人ありて、此の經中において乃至四句偈等を受持し他人の為に説かば此の福徳は前に勝れたり。


尊重正教分第十二
復次に須菩提、隨て是の經の乃至四句偈等を説かんに、當に知るべし、此處は一切世間天人阿修羅の皆應に供養すること佛塔廟の如くなるべし。何かに況や人有りて盡く能く受持讀誦せんをや。須菩提よ、當に知るべし是の人は最上第一希有之法を成就したることを。若しは是の經典の所在之處には則ち佛若しくは尊重の弟子ましますと為すことを」。


受法受持分第十三
爾時須菩提白佛言「世尊。當に此の經を何と名けむ。我等云何奉持すべきや」。佛告須菩提「是經は名けて金剛般若波羅蜜と為す。是の名字を以て汝當に奉持すべし。所以は何ん。須菩提よ、佛の般若波羅蜜を説けるは則ち般若波羅蜜に非ず、是を般若波羅蜜なりと説く。須菩提。意に於いて云何。如來所説の法ありや不や」。須
菩提白佛言「世尊。如來に説きたまふ所なし」。「須菩提よ、意に於いて云何。三千大千世界の所有る微塵は是れ多しと為さんや不や。」
須菩提言「甚だ多し、世尊」。「須菩提よ、諸微塵を如來は微塵に非ず、是を微塵と名くと説く。如來は世界は世界に非ず是を世界と名く、と説く。須菩提よ、意に於いて云何。三十二相を以て如來を見たてまつるべきや不や」。「不也世尊。三十二相を以て如來を見たてまつることを得べからず。何以故。如來は三十二相は即ち是れ相に非ず、是を三十二相と名くと説かれたればなり。須菩提よ、若し善男子善女人ありて。恒河沙に等しき身命を以て布施せんに、若し復た人ありて此經中において乃至四句偈等を受持し他人の為に説かんに其福甚だ多し。」


離相寂滅分第十四
爾時、須菩提、是の經を説きたまふを聞きて深く義趣を解し、涕涙悲泣而白佛言「希有なり世尊。佛は如是の甚深經典を説きたまふ。我昔より來た所得の慧眼は未だ曾って如是之經を聞くことを得ず。世尊。若復た人ありて是の經を聞くことを得て信心清淨ならば則ち實相を生ぜん。當に知るべし、是の人は第一希有功徳を成就せることを。世尊よ是の實相とは則ち是れ相に非ず。是故に如來は説きて實相と名くなり。
世尊よ、我今如是の經典を聞くことを得て信解受持するは難しと為すに足らず。若し當來の世、五百歳の後に其衆生有りて是の經を聞くことを得て信解受持せんに、是の人は則ち第一希有と為す。何以故。此の人は我相・人相・衆生相・壽者相無ければなり。所以は何ん。我相は即是れ非相なり。人相・衆生相・壽者相は即是れ非相なり。何以故。一切諸相を離れたるを則ち諸佛と名くればなり。」佛告須菩提「如是なり、如是なり。若し復た人有りて是の經を聞くことを得て、不驚不怖不畏ならば、當に知るべし是の人は甚だ希有なりと為す。何以故。須菩提よ、如來は『第一波羅蜜は第一波羅蜜に非ず、是れを名ずけて第一波羅蜜となす』と説きたまへればなり。須菩提よ、忍辱波羅蜜をば如來は『忍辱波羅蜜に非ずこれを忍辱波羅蜜なり』と説きたまふ。何以故。須菩提よ、我れ昔、歌利王の為に身體を割截せらたるときの如し(六度集経等にある本生譚。お釈迦様が前世で忍辱仙人たりしとき歌利王に手足を切断されたが怒らず、手足は復元した、という説話)。我爾時において無我相・無人相・無衆生相・無壽者相なりき。何以故。我、往昔、節節支解の時に若し我相・人相・衆生相・壽者相あらば應に瞋恨を生ずべかりし。須菩提よ、又た過去を念ずるに五百世に於いて忍辱仙人と作り、爾の所・世において無我相・無人相・無衆生相・無壽者相なりき。是故に須菩提よ、菩薩は應に一切の相を離れて阿耨多羅三藐三菩提心を發すべし。色に住して心を生ずべからず。聲香味觸法に住して心を生ずべからず。應に住する所なき心を住ずべし。若し心に住有らば則ち住にあらずと為す。是故に佛は『菩薩は心を色に住して布施すべからず』と説きたまふ。須菩提よ、菩薩は一切衆生を利益せんが為に應に如是に布施す。如來は『一切諸相即ち是れ相に非ず』と説く。又『一切衆生は則ち衆生に非ず』と説く。須菩提よ、如來は是れ眞語者・實語者・如語者・不誑語者・不異語者なり。須菩提よ、如來所得の法、此の法は無實無虚なり。須菩提よ、若し菩薩が心を法に住して布施を行ぜば、人闇に入りて則ち所見無きが如し。若し菩薩が心を法に住せずして布施を行ぜば、人の有目にして日光明照し種種の色を見るが如し。
須菩提よ、當來の世に若し善男子善女人ありて、能く此の經を受持讀誦せば則ち如來は佛智慧を以て悉く是の人を知り、悉く是の人を見、為に、皆な無量無邊功徳を成就することを得ん。

持経功徳分第十五
須菩提よ、若し善男子善女人ありて、初日分(午前中)に恒河沙に等しき身を布施し、中日分(昼)に復た恒河沙に等しき身を布施し、後日分(夕刻)に亦た恒河沙に等しき身を布施し、如是に無量百千萬億劫に身を以て布施せんに、若し復た人有りて此の經典を聞き、信心して逆はずんば其福は彼に勝る。何況や書寫受持讀誦して人の為に解説せんをや。須菩提よ、以要言之、是經には不可思議不可稱量無邊の功徳あり。如來は大乘を發する者の為に説く。最上乘を發する者の為に説く。若し人有りて能く受持讀誦し廣く人の為に説かば如來悉く是の人を知り、悉く是の人を見、皆不可量不可稱無有邊不可思議功徳を成就するを得ん。如是の人等は則ち如來の阿耨多羅三藐三菩提を荷擔すと為す。何以故。須菩提よ、若し小法(小乗仏教)を樂ねがふ者は我見・人見・衆生見・壽者見に著す。則ち此の經に於いて聽受讀誦し人の為に解説すること能はず。須菩提よ、在在處處に若し此の經有らば一切世間天人阿修羅の應に供養する所なり。當に知れ、此處は則ち是れ塔と為す。皆な應に恭敬・作禮・圍繞し諸華香を以て其處に散ずべし。

能浄業障分第十六
復次に須菩提よ、善男子善女人が此經を受持讀誦して
若し人の為に輕賤せらるることあらば、是の人は先世の罪業にて應に惡道に堕すべかりしを、今世人に輕賤せらるる故に先世の罪業則ち爲に消滅し當に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。須菩提よ、我過去無量阿僧祇劫を念ふに然燈佛前に於いて八百四千萬億那由他諸佛に値ふを得て、悉皆供養承事して空く過る者なかりしことを。若し復た人ありて後の末世に於いて能く此の經を受持讀誦する所得の功徳にたいし、我が諸佛を供養する所の功徳は百分の一にも及ばず。千萬億分乃至算數譬喩も能及ぶ能わざる所なり。須菩提よ、若善男子善女人、後の末世に於いて、此經を受持讀誦する有らば、所得の功徳は我れ若し具さに説けば、或は人の聞きて心則ち狂亂して狐疑不信なることあらん。須菩提よ、當に知るべし。是の經の義は不可思議にして果報も亦た不可思議なり」。

究竟無我分第十七
爾時、須菩提は白佛言「世尊。善男子善女人ありて、
阿耨多羅三藐三菩提心を發せんに云何んが應に住し、云何んが其心を降伏すべきや。」佛須菩提に告げたまはく「善男子善女人にして阿耨多羅三藐三菩提を発せん者は當に如是の心を生ずべし。『我れ應に一切衆生を滅度すべし。一切衆生を滅度し已ってしかも一も衆生の實に滅度すべきもの無し』と。何以故。須菩提よ、若し菩薩に我相・人相・衆生相・壽者相あらば則ち菩薩に非ず。所以者何。須菩提よ、實に法として阿耨多羅三藐三菩提を發する者あることなし。須菩提よ、意において云何。如來の然燈佛所に於いて法として阿耨多羅三藐三菩提を得るや不や」。「不也世尊。我が佛の所説の義を解するが如きは、佛、然燈佛所に於いて法として阿耨多羅三藐三菩提を得るあることなし。」
佛言、「如是なり、如是なり。須菩提よ、實に法として如來の阿耨多羅三藐三菩提を得るあることなし。須菩提よ、若し法として如來の阿耨多羅三藐三菩提を得ることありとせば、然燈佛は則ち『汝來世に於いて當に得佛し釋迦牟尼と號すべし』として我に受記をあたへざりしならん。實に法として阿耨多羅三藐三菩提を得ることなきを以て是の故に然燈佛は我に受記をあたへて是の言を作す。『汝來世に於いて當に佛と作りて釋迦牟尼と號することを得べし』と。何以故。如來とは即ち諸法如の義なり。若し人有りて如來は阿耨多羅三藐三菩提を得たまへると言はん、須菩提よ、實に法として佛の阿耨多羅三藐三菩提を得ることなし。須菩提よ、如來所得の阿耨多羅三藐三菩提は、是の中において無實無虚なり。是故に、如來は『一切法は皆な是れ佛法』と説く。須菩提よ、所言の一切法とは即ち一切法に非ず。是の故に一切法と名く。須菩提よ、譬へば人身の長大なるが如し」。須菩提言「世尊よ、如來は、『人の身の長大なるは則ち大身と為さず。是を大身と名く』と説きたまへり」「須菩提よ、菩薩も亦た如是なり。若し是の言を作さん『我當に無量衆生を滅度すべし』と、則ち菩薩と名けず。何以故。須菩提よ、實に法として名けて菩薩と為すはあることなければなり。是故に佛は『一切法は無我・無人・無衆生・無壽者』と説く。須菩提よ、若し菩薩にして是の言を作して『我當に佛土を莊嚴すべし』とせば、是を名て菩薩となさず。何以故。如來は『佛土を莊嚴すると説くは即ち莊嚴に非ず、是を名けて莊嚴となす』とすればなり。須菩提よ、若し菩薩にして無我の法(森羅万象は縁により生ずるもので実体はない)に
通達する者は、如來は眞の是れ菩薩と名く。


一体同観分第十八
「須菩提よ意において云何。如來に肉眼有や不や」。「如是なり世尊。如來は肉眼を有す」。「須菩提よ、意に於いて云何。如來に天眼有や不や。」「如是なり世尊。如來に天眼あり」。「須菩提よ、意において云何。如來に慧眼有や不や」。「如是なり、世尊。如來に慧眼有り」。「須菩提。意において云何。如來に法眼有や不や」。「如是なり世尊。如來に法眼あり」。「須菩提。意において云何。如來に佛眼ありや不や」。「如是なり世尊。如來に佛眼あり」。「須菩提。意に於いて云何。恒河中の所有る沙、佛は是の沙を説くや不や」。「如是なり世尊。如來は是の沙を説く」。「須菩提。意において云何。一恒河中の所有る沙の如き如是の数に等しき恒河あり。是の諸恒河の沙の數に等しき佛世界有らば如是は寧ろ多しと為すや不や」。「甚だ多し世尊」。佛須菩提に告げたまはく「爾所(そこばく)の國土中の所有(あらゆ)る衆生の若干種の心を如來悉く知りたまふ。何以故。如來は『諸の心は皆な非心なり是を名て心と為す』と説きたまふゆえに。所以者何。須菩提よ、過去心も不可得、現在心も不可得、未來心も不可得なればなり。 正法眼蔵に「心不可得」の章があり、徳山が婆子にこの「心不可得」を聞かれ詰まる場面を解説されています。



法界通化分第十九
「須菩提よ、意に於いて云何。若し人有りて三千大千世界に滿つる七寶を以って布施に用ひんに、是の人は是の因縁を以て福を得ること多しや不や」。「如是なり世尊。此人是の因縁を以て福を得ること甚だ多し」。
「須菩提よ、若し福徳に實有らば如來は福徳を得ること多しと説かず。福徳無きを以ての故に如來は説きて福徳を得ること多しと為す」。

離色離相分第二十
須菩提よ、意に於いて云何。佛は色身を具足せるを以て見たてまつるべきや不や」。「不也世尊」。「如來は應に色身を具足せるを以て見たてまつるべからず。何以故。如來は『具足色身は即ち具足色身に非ず、是を具足色身と名く』と説きたまふ故に。須菩提よ、意に於いて云何。如來は諸相を具足せるを以て見たてまつるべきや不や」。「不也世尊」。「如來は應に諸相を具足せることを以て見たてまつるべからず。何以故。如來は『諸相を具足するは即ち具足に非ず。是を諸相を具足すと名く』と説きたまふゆえに。」



非説所説分第二十一
「須菩提よ、汝、如來は是の念『我れ當に説法あるべし』を作すと謂ふ勿れ。是の念を作す勿れ。何以故。若し人、『如來に所説の法有り』と言はば即ち佛を謗ると為せばなり。我が所説を解すること能はざるが故に。須菩提よ、説法とは法を説かず、是を説法と名く」。
爾時、慧命須菩提白佛言「世尊よ、頗ぶる衆生ありて、未來世に於いて。是の法を説くを聞きて信心を生ずるや不や」。佛言「須菩提よ、彼は衆生に非ず、衆生ならざるものにも非ず。何以故。須菩提よ、衆生、衆生とは如來『衆生に非ず是を衆生と名く』と説きたまふゆえに。」




無法不得分第二十二
須菩提白佛言「世尊。佛の阿耨多羅三藐三菩提を得たまふは無所得なりと為すや」。「如是。如是。須菩提。
我、阿耨多羅三藐三菩提に於いて乃至少法も得べきもの無し、是を阿耨多羅三藐三菩提と名く。


浄心行善分第二十三
「復次に須菩提よ、是の法は平等にして高下あること無し。是を阿耨多羅三藐三菩提と名く。我も無く、人も無く、衆生も無く、壽者も無くして一切善法を修すれば則ち阿耨多羅三藐三菩提を得る。須菩提よ、言ふところの善法とは如來は『善法に非ず是を善法と名く』と説きたまふ。

福智無比分第二十四
「須菩提よ、若し三千大千世界中の所有る諸須彌山
王、如是に等しき七寶聚を人有りて布施に持用せんに、(片方で)若し人、此般若波羅蜜經乃至四句偈等を以て受持讀誦し他人の為に説かんに、前の福徳は百分の一にも及ばず。百千萬億分乃至算數譬喩も能く及ばざる所なり。

化無所化分第二十五
「須菩提よ、意において云何。汝等謂ふ勿れ。『如來は是の念を作したまふ、我當に衆生を度せん』と。須菩提よ、是の念を作す莫れ。何以故。實に衆生に如來の度したまふ者有ること無きがゆえに。若し衆生に如來の度したまふ者あらば、如來には則ち我・人・衆生・壽者有らむ。須菩提。如來は『我有といふは則ち我あることなし』と説きたまふ。而も凡夫の人は我有と思へり。須菩提。如來は『凡夫は則ち凡夫に非ずこれを凡夫と為す』と説きたまふ。

法身非相分第二十六
「須菩提。意において云何。三十二相を以て如来を觀
たてまつるべきや不や」。須菩提言「如是如是。三十二相を以て如来を觀たてまつるべし」。佛言「須菩提。若し三十二相を以て如來を觀たてまつらば轉輪聖王(これは俗世の王に過ぎない)も則ち是れ如來ならむ」。須菩提白佛言「世尊。我が佛の所説の義を解する如きは、應に三十二相を以て如来を觀たてまつるべからず」。爾時、世尊、偈を説いて言く
「 若し色を以て我を見、音聲を以て我を求めば
是の人は邪道を行ず 如來を見たてまつる能はず。

無断無我分第二十七
須菩提よ、汝若し是の念を作さん『如來は相を具足するを以ての故に阿耨多羅三藐三菩提を得ず』と。須菩提よ、是の念を作すこと莫れ『如來は相を具足相せるをもっての故に阿耨多羅三藐三菩提を得ず』と。須菩提よ、若し是の念を作さん『阿耨多羅三藐三菩提心を發する者は諸法斷滅相ありと、説く』と。是の念を作すこと莫れ。何以故。阿耨多羅三藐三菩提心を發する者は法に於いて斷滅相を説かざればなり。(いかなるものも不生不滅である)。

不受不貪分第二十八
「須菩提よ、若し菩薩、恒河沙に等しき世界に滿てん七寶を布施せん。若し復た人有りて一切法は無我なりと知りて忍を成ずることを得たりとせば、此の菩薩は前の菩薩所得の功徳に勝れたり。何を以ての故に、須菩提、諸菩薩は福徳を受けざるが故に」。須菩提白佛言「世尊。云何んが菩薩は福徳を受けざるや」。「須菩提よ、菩薩は作す所の福徳に應に貪著すべからず。是の故に福徳を受けずと説くなり。

威儀寂静分第二十九
須菩提よ、若し人有りて『如來は若しは來り、若しは去り、若しは坐し、若しは臥す』と言はば、是の人は我所説の義を解せざるなり。何以故。如來は從って來るところ無く、亦た去る所無し、故に如來と名くるががゆえに。

一合理相分第三十
「須菩提よ、若し善男子善女人、三千大千世界を以て
碎きて微塵と為さば意において云何。是の微塵衆は寧ろ多しと為すや不や」。「甚だ多し世尊」。「何以故。若し是の微塵衆が實に有るならば、佛は則ち是を微塵衆と説かず。所以者何。佛は『微塵衆は則ち微塵衆に非ず是を微塵衆と名く』と説きたまへればなり。世尊よ、如來所説の三千大千世界は則ち世界に非ず、是を世界と名く。何以故。若し世界實有ならば則ち是れ一合相(全一体)なり。如來は『一合相は則ち一合相に非ず、是を一合相と名く』と説かれればなり。須菩提。一合相とは則ち是れ不可説なり。但し凡夫之人は其事に貪著す。」

知見不生分第三十一
「須菩提よ、若し人言はん、『佛は我見・人見・衆生見・壽者見を説くと』。須菩提よ、意において云何。是の人は我が所説の義を解するや不や」。「世尊。是の人は如來所説の義を解せず。何以故。世尊は我見人見衆生見壽者見は即ち我見人見衆生見壽者見に非ず、是を我見人見衆生見壽者見と名く、と説きたまふ故に」。「須菩提よ、阿耨多羅三藐三菩提心を發する者は一切法に於いて應に如是に知り、如是に見、如是に信解して法相の生ぜざるべし。須菩提よ、言ふ所の法相とは、如來は説きて、即ち非法相なり是を法相と名く。

応化非真分第三十二
須菩提よ、若し人有りて無量阿僧祇世界に滿たすに七寶を布施に持用せんに、若し善男子善女人にして菩薩心を發する者有りて、此の經乃至四句偈等を持して、受持讀誦し人の爲に演説せば其の福は彼に勝る。云何んが人の為に演説するや。相を取らざれば如如に不動なり。何以故に、
一切有爲法は 夢幻泡影の如く
如露亦如電なり 應に如是の觀を作すべし。(往生要集に「如金剛般若經云。一切有爲法。如夢幻泡影。如露亦如電。應作如是觀。或復大經偈云。諸行無常。是生滅法。生滅滅已。寂滅爲樂」とあり。大内義隆の辞世の句に「討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電応作如是観」とあります。)


佛是の經を説き已れば、長老須菩提及諸比丘比丘尼
優婆塞優婆夷・一切世間天人阿修羅、佛の所説を聞きて皆大歡喜し信受奉行しき。
金剛般若波羅蜜經
眞言
那謨婆伽跋帝 鉢喇壞 波羅弭多曳 唵
伊利底 伊室利 輸盧馱 毘舍耶 毘舍
耶 莎婆訶(のうぼうばぎゃばてい はらじゃ はらみたえい おんいりて いしりしゅろた びしゃや そわか)。 
 
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