福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は観賢僧正ご入滅の日

2023-06-11 | 法話

今日は観賢僧正ご入滅の日
観賢僧正は延長3年6月11日(925年7月4日))に73歳で入滅されています。
真雅について出家・受戒し、聖宝より三論・真言密教の教学を学んで、寛平7年(895年)に灌頂。仁和寺別当・弘福寺別当・権律師・東寺長者・東大寺検校,醍醐寺初代座主・金剛峯寺検校、般若寺を創建。高野山宝亀院を建立。を歴任し、「三十帖冊子」を東寺の経蔵に納めて以後代々の真言宗長者の相承とするなど、東寺を中心として真言宗の再編。延喜21(921)年10月27日,弘法大師の諡号を得て大師信仰に道を開いた。
『今昔物語』には,諡号宣下を高野山の御廟石室を開いて報告しお衣を替えたとき,観賢が石室内に大師の生けるが如く座す姿を見たと伝えている。
(「今昔物語集 巻十一弘法大師始建高野山語 第廿五
・・・亦、入定の所を造て、承和二年と云ふ年の三月廿一日の寅時に、結跏趺坐して、大日の定印を結て、内にして入定す。年六十二。弟子等、遺言に依て弥勒実号を唱ふ。
其の後、久く有て、此の入定の峒(ほら)を開て、御髪剃り御衣を着せ替奉けるを、其の事絶て久く無かりけるを、般若寺の観賢僧正と云ふ人、権の長者にて有ける時、大師には曾孫弟子にぞ当ける。彼の山に詣て、入定の峒を開たりければ、霧立て暗夜の如くにて、露見えざりければ、暫く有て霧の閑まるを見れば、早く、御衣の朽たるが、風の入て吹けば、塵に成て吹立てられて見ゆる也けり。
塵閑まりければ、大師は見え給ける。御髪は一尺許生て在ましければ、僧正自ら水を浴び、浄き衣を着て入てぞ、新き剃刀を以て、御髪を剃奉ける。水精の御念珠の緒の朽にければ、御前に落散たるを拾ひ集めて、緒を直ぐ揘(すげ)て、御手に懸奉てけり。御衣、清浄に調へ儲て、着奉て、出ぬ。僧正、自ら室を出づとて、今始て別れ奉らむ様に、覚えず無き悲れぬ。其の後は、恐れ奉て、室を開く人無し。
但し、人の詣づる時は、上ぐる堂の戸、自然ら少し開き、山に鳴る音有り。或る時には金打つ音有り。様々に奇(あやし)き事有る也。鳥の音そら希なる山中と云へども、露恐しき思ひ無し。坂の下に丹生・高野の二の明神は、鳥居を並べて在す。誓の如く山を守る。
「奇異なる所也」とて、于今人参る事絶えず。女、永く登らず。「高野の弘法大師と申す是也」となむ、語り伝へたるとや。」)

なおこの御衣替えは
延喜9年(921)、醍醐天皇の枕元に大師が御立ちになり、「高野山 結ぶ庵に袖くちて こけの下にぞ 有明の月」 という歌を詠まれたので御大師様が今でも衣の袖が朽ちる果てるまで衆生済度に生きておられると気が付き、檜皮色の衣を東寺の観賢に託したところから始まります。 観賢はその衣を持って奥の院御廟を開けましたが、霧がかかって祖師の姿が見えません。観賢がひと目御大師様にお目にかかりたいと一心に祈ると、霧が晴れ、そこに大師のお姿が現れ、新しい衣をおきせできました。随行の弟子淳祐には見えませんでしたので 、観賢が淳祐の手を取り大師の膝にそっと触れさせると、淳祐の手にはかぐわしい香りが移り、石山寺に戻った淳祐の手に触れる経典はすべてその香りが移り「薫の聖教」と称されました。この「御衣替え」の儀式は旧暦の3月21日、大師の旧正御影供に今も行われており、またその御衣は「御衣切れ」参拝者に授与されています。

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