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カテゴリ:仏教、神話、哲学
一般に謂う仏身論は顕教的な解釈である。それは法身は果分不可説、故に法身は最も純粋な空に近い存在というもの。ゼロに近い存在。胎蔵生曼荼羅中央の大日如来もそうだと思う。 そして本地垂迹説もこの流れに沿っている。 密教でポピュラーな仏身論は自性法身(所謂顕教の法身に近い)、自受用法身、他受用法身、応化法身(変化身)、等流法身の五種法身説。 全ては法身扱いである。 それでもそれまでの三身論の影響が強い。 自分としてはこの流出論をなんとかしたい。 そして還元論を払拭したい。 そのためには反本地垂迹説も参考になるだろうか。所謂「神本仏迹説」だ。 ただ仏と神を入れ替えただけなら、コンプレックスの裏返しで思想的意味はない。 流出論、還元論は「阿字体大説」なのだ。 そこを「六大体大説」で乗り越えたい。より密教化を推進するならそうあるべきだろう。そしてそれは構造化でもある。 多元循環論で乗り越えるというべきだろうか。 本当か曼荼羅全体で阿字なのである。そこからは何も流出しない。還元もいらない。阿字の中で多元循環、構造のブリコラージュの事々無碍法界を展開するのである。 構造とは「変換マトリクス」のことである。 そのための四句分別なのだ。二項対立を掛け合わせることで存在Xは変換によって曼荼羅を描き出す。 全体としてはゼロの均衡を保とうとするが、辺境の存在Xを肯定するとゼロを中心として様々な存在が肯定されることになる。東を肯定すれば西、南、北の存在が認められる。 だからといって東西南北が実在するかどうかは別問題であるが、中央から流出したものでないことは分かるだろう。 この辺境Xを肯定することに意味がある。 それは仮の存在ではない。ゼロから発したものでもない。故に理事無碍法界からは脱することができる。事々無碍法界を理解しなければならない。有Xを肯定しながら法界一切と関係性の縁で繋がっていることが分かるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年04月20日 00時16分47秒
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