江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

「特別支援教育」に異議あり! (3)

2022-11-08 | 随想
言葉(ことば)というものは実に奇妙と言うか重要な意味をもたらすものです。
「特別支援」とか「分離」とか「通常」とか「普通」とか、さらに日本語表記を巡っては「障害」とか「障碍」とか「しょうがい」とか・・・。
これらを問題にすると、ことばの定義やその背景等々まで論及することになり、今、現に起こっている現象の本質に行き着くまで相当の時間が必要になることでしょう。

したがって、ここでは「いわゆる」という形で述べるしかありませんが、これも私の価値観を前提にした見方・考え方であることをお断りするしかありません。

何故このようなことにこだわるかと言えば、「『特別支援教育』に異議あり!」と表記した私の意図は、あくまでも現状におけるこの国の「特別支援教育」のシステムに異議を唱えているのであり、私の考える「特別支援教育」は必要だからです。


そもそも2007年4月に学校教育法が改正される以前は、「特別支援教育」ではなく「特殊教育」という名称でした。
その中身は5つの障害種別(視覚障害・聴覚障害・知的障害・肢体不自由・病弱)に分かれていました。

こうした変化についてここでは深入りしませんが、教育現場における「特殊」という文言の差別性や、「障害」と言ってもその程度や重複化あるいは「発達障害」などと言われるものまで拡大しているという認識に至ったからだと思います。


日本において「分離教育」が容易に解消されないのはこの国の教育政策の歴史的変遷にも関わることは間違いありませんが、その歴史の中では先人たちの献身的努力によって「障害児教育」の中身が作られていったことは否定できません。

日本の学校制度が確立した以降、障害を抱えた子どもたちが公教育の中で十分にフォローされなかった期間があまりに長かったこともあり、1979年(昭和54年)の「養護学校義務化」によって障害を持った全ての子どもたちが教育を受けることが可能になったと多くの関係者が歓迎しました。

実は、ここが日本の「分離教育」の新たな出発点だったように思えて仕方ありません。


障害児教育に限ったことではありませんが、学校教育というものは専門家が科学的根拠に基づいて行なうのが一般的だとされがちです。
そして、中身が複雑だったり困難だったりする場合は尚更のこと素人の関知することが容易でなくなります。
障害を持った子は、「その障害に対応できる専門的知識や技量を持つ指導者によって、指導可能な施設設備のある場所で教育されるのが良い」という考えに疑問が挟めなくなります。


私はこれが大きな教育における間違いの一つだと考えます。
もっともっと教育現場には素人の目や感覚が必要だと思うのです。


(つづく)


<すばる>




コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「人権」の看板を掲げて人権... | トップ | 干し柿作りに初挑戦してみた »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

随想」カテゴリの最新記事