私が両手をひろげても
金子みすゞ
『私と小鳥と鈴と』| COVID-19
この中で描かれている「わたし」が、できることとできないことの対比表現について、それを見定めること自体は素晴らしい。しかし、コロナ禍では、その違いが死に繋がる原因の一つと言えるのではないか。
何故、世界ではコロナウイルスにより130万人も亡くなっているのか。この規模は、長崎と広島の原子爆弾による死者数15万〜24万6千人を遥かに凌ぐものだ。それは核兵器から細菌兵器への移行、その科学技術を利用した第三次世界大戦の勃発であるという説も出ている。
そして現在、ニュースやメディアでは、コロナに対する表面的な事実と日常的に異なった情報とが錯綜して混乱を招いている状況である。それらから「わたし」と私達は、どのような行動指針を持つべきなのか。
他国の例として、コロナ感染者「ゼロ」とする北朝鮮では、感染者を見つけ次第にすぐ撃ち殺しているという。それは、ウイルスを拡げないように国家と国民を守る為だというが、私達もそのようにするべきだろうか。
その隣の中国では、監視カメラと顔認証システムの導入からインターネット上のビッグデータを利用して、国民全体を管理するシステム「天網」を構築している。その街頭の監視カメラの数が約2億台(2017年時点)、2021年までには約6億台にのぼるとのことである。
そして、このデジタル技術が、中国の人口約14億人に対して、ウイルス感染を抑える為に大きく貢献しているとされる。
私達の国でも国民監視システムを強化して、人の出入りやプライベートを制限する必要があるのだろうか。
現在、政府発信のgo toキャンペーンとは、主に観光に於ける経済回復を目的として、同じようにネットワークを駆使するものであるが、手続きや決済方法の簡素化などという点では利便性に富み、その場面においてウイルスによる接触感染を一時的に予防する効果はあるだろう。
そして、菅内閣の掲げるデジタル庁もまた、国民とネットワークを固く結びつけて、中国のように厳重に監視するようになれば、感染症対策と合わせて個人情報の取扱いについては、これまで以上に「政府」に対しての国民の信用が重要になってくる。
現代では、世界中の人々が"違い"をもつことで、自由に生活圏を広げて、より豊かに暮らしていくことができる。しかし、コロナ禍によるロックダウンや空港閉鎖、国際関係の停滞により国境間の行き来や国内の出入りさえ厳しい状態が続いている。その現実や社会システムも窮屈になった「わたし」と私達の生活は、人生の岐路に立たされているのではないか。
それは、金子みすゞの詩におけるオンリーワンについて問われているともいえる。
また、ドイツの社会心理学者フロムの説いた自由では、私達は自由の代償という重荷から逃れる為に依存と従属を求める。または、人間の独自性と個性に基づいた完全なる自由の実現を目指すとのことであった。
フロムは、また前者において、個人の孤独や無力感を克服する為、権威に対して従属しようとする性質を「機械画一性」という言葉で表している。それは、近代社会において企業や資本家の下で働くプロレタリア(賃金労働者)を指しているとも言える。
その権威に対する服従か、自発的な行動あるいは第三の道を切り拓くのか。
今回のコロナ禍による影響が、私たちの取り巻く世界を一変させて、新しいグローバリゼーションの流れを作りだした。近い将来、科学技術との融合(transhumanism)やネットワークを通じて「わたし」が、両手を広げて空を飛べる日が来るかもしれない。
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