さてさて…
円融院(えんゆういん)の崩御を受け、皇太后詮子(こうたいごうせんし)は落飾を遂げてしまいました
お世辞にも、生前では円融との仲が良かったとは言えなかった詮子ですが、夫の死により、何らかの心境に至ったのでしょうか
夫の崩御から七か月後に発心 紙削ぎの尼となったのです
因みに、詮子のかってのライバルで、中宮の座を争った皇后遵子(じゅんし)は出家することはありませんでした
円融との仲は極めて良好であった遵子は、夫の譲位後も暫くは里第(さとだい)の四条宮(しじょうのみや)等で同居を継続させていたのですが…
譲位の翌年、円融が出家御願寺(ごがんじ)の円融寺(えんゆうじ)で仏道修行に専念することを契機に、両者の同居は解消されていました
但し、同居しなくなったとは言え、后である詮子・遵子の中で、円融が心を通わせていたのは、遵子であったことは論を俟たない訳で、別居後も交流は続いていたとは思われます
それ故、円融が崩御したならば、詮子よりも、遵子が真っ先に出家すると考えるのが、頗る順当だと思われるのですが
何故か彼女が出家することはなかったのです
尚、遵子は、在皇后のまま、長徳(ちょうとく)三年(997)に出家を果していますが、后位を辞することはなく
➀長保(ちょうほう)二年(1000)に皇太后
②長和(ちょうわ)元年(1012)に太皇太后(たいこうたいごう)
上記の様に、法帯のまま、三宮を全て歴任した後の、寛仁(かんにん)元年(1017)、六十二歳で崩御しています
『素腹(すはら)の后』と揶揄された遵子は、一条国母となった詮子の栄達を傍目に眺めつつ、どの様な想いを抱いたのか
詳細は不明ですが、同母弟の公任(きんとう)や従兄弟の実資(さねすけ)等、小野宮流(おののみやりゅう)一族の精神的な支柱として君臨
その使命を全うしたと思いますね
お話が少し逸れてしまいましたが…
父兼家(かねいえ)から平和裡に政権を承継した道隆は、父の如く政治的な経験が少なく、その権力基盤は聊か脆弱でありました
道隆もその事は十分認識しており、それ故に、前例のなかった後宮四后制を創始してまで、娘定子(ていし)を中宮に立てたのですが…
定子は一条の皇子を産むには、まだ時を待たなければならず、早急に権力基盤確立のための第二の手を打つ必要があったのです
それが、出家して皇太后を辞することになった、国母(こくも)詮子に、新しい地位を用意することであったのです
この新しい地位こそが、后の上皇版とでも言うべき、女院号(にょいんごう)だったのです
今と比べて、昔は帝の生前譲位が普通に行われており、退位した帝は太上天皇(たいじょうてんのう)、略して上皇(じょうこう)と呼ばれていました
尚、上皇が出家した場合は、太上法皇(たいじょうほうおう)、略して法皇(ほうおう)と呼ばれた訳で、上皇・法皇を問わず
退位した帝のことを、院(いん)とも呼んでいました
言うまでも無く、天皇(帝)は唯一人の存在であったのですが、上皇(法皇)については定員はなく、同じ時代に上皇が数人いた事も決して珍しくはなかったのです
そうした上皇即ち、院号制度よりヒントを得て、道隆は女院制度を作り、詮子にこれを贈る事を考えたと思われます
それにしても、後宮四后制度もそうですが、今回の女院制度を含めて、何れも道隆政権で始められた、新例であり
本当に道隆が考え出したならば、彼は先例には捉われない、革新的な考えの持ち主という事になります
初めての女院となった詮子ですが、今上帝である一条(いちじょう)の生母(国母)で、尚且つ一条父の円融院が亡くなった以上
彼女は一条に親権を行使し得る唯一の存在であり
➀天皇家(円融皇統という制限付きですが)
②摂政家(せっしょうけ)⇒兼家一族
双方の家の家長的存在として、皇位継承や摂関任命を始め、政治全般にも影響力を行使出来るという
未曽有の権威・権力を手中にすることになったのです
既に、この時点で、道隆と詮子との関係は、必ずしも良好なものとは言えなかったのですが、権力基盤強化が喫緊の課題であった道隆にすれば、国母である同母妹に強力な権威を与えて、一条帝並びに摂政たる自分の政権の正統性を補完して貰う以外には無かった訳で…
或る程度のリスクを伴う可能性も、想定していたかもしれませんが、摂政として、詮子に女院号を贈る決断を下したのです
さて、晴れて、最初の女院として、女院号宣下(にょいんごうせんげ)を受けることになった詮子ですが…
その女院号(にょいんごう)を何にすべきかという、院号定(いんごうさだめ)が内裏で行われました
議論の末、彼女は
『東三条院』(ひがしさんじょういん)という院号を贈られたのです
感の良い人ならば、既にお察しかもしれませんが、この院号は
詮子が入内前から日常生活を送り、入内後も里帰り等で内裏から退出した時に、里第(りてい)として居住した
東三条殿(ひがしさんじょうどの)から名付けられています
言うまでもなく、東三条殿は詮子の父である、兼家の本邸であり、兼家一族の権力の象徴とでも言うべき邸宅でした
その栄光ある邸宅の名前を院号とする事になった詮子は、これ以後
東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)と呼ばれ、廷臣百官から崇められることになるのです
こうして、初めての女院である、東三条院詮子が誕生したのですが…
彼女を女院にした道隆のウルトラCは、全くの裏目となって、自身や中関白家(なかのかんぱくけ)に暗雲をもたら事になって
しまうのです
何故なら、女院となった詮子は、強大な権威を帯びたのみならず
権力をも行使して、政治に積極的な関与をする様になるからです
本日はここまでに致します