前回、十二代将軍家慶(いえよし)と烈公斉昭(なりあき)は同じ有栖川宮家(ありすがわのみやけ)の姉妹を正妻とする相婿(あいむこ)の関係であったことをお話しました
本日はその相婿同士であった家慶に嫁した有栖川宮喬子女王(たかこじょおう)について触れたいと思います
斉昭にとって義理の姉に当たる喬子は、寛政七年(1795)に有栖川宮織仁親王(おりひとしんのう)の第六王女として生を受けました
因みに斉昭の御簾中(ごれんちゅう)となる彼女の妹である吉子女王(よしこじょおう)とは九歳違い、そして寛政十二年(1800)生まれの斉昭より五歳の年長でした
幼少期は楽宮(さだのみや)と称されていた喬子は、享和三年(1803)に十一代将軍家斉(いえなり)の世子であった家慶との婚約が相整ったのですが、この時彼女は九歳でした
(参考までに申し上げますが、妹の吉子はこの翌年の文化元年〈1804〉に生まれます)
そしてこの妹が生まれた年に、喬子は徳川幕府の要請により僅か十歳で江戸に下向、許嫁である家慶が居住する江戸城西ノ丸で過ごすことになったのです
因みに家慶は喬子より二歳年長の寛政五年(1793)生まれで彼女の輿入れ時は十二歳でした
父である十一代将軍家斉の次男として生まれたのですが、長兄の竹千代(たけちよ。徳川将軍家の跡取りには神君家康の幼名であるこの名前が命名されていた)が早世したことを受けて将軍世子となり、寛政九年には早くも元服して家慶を名乗っていました
(それまでの彼の幼名は敏次郎<としじろう〉でした)
こうして江戸城西之丸には十二歳と十歳という見習い夫婦が誕生したのですが、早い段階で世子である家慶の地位を安定させておきたいという父家斉の親心でもあったかもしれませんね
この見習い期間は結局五年続き、文化七年(1810)に両者は晴れて真の夫婦になったのです
しかしながら未だ十六歳の喬子に嫡子を産むことはまだ不可能で、彼女が家慶長男竹千代(たけちよ)を産んだのは三年後の文化十年でした
次の次の将軍を約束された嫡男の誕生は、徳川将軍家にとって大いなる慶事であったのですが、残念ながら竹千代は翌年儚い命を終えてしまったのです
喬子はこの後も次女・三女を立て続けに出産したのですが、この二女も夭死の運命を免れることは出来ず、加えて相次ぐ出産で体を壊してしまったのか以後彼女が子供を産むことはなかったのです
かくして未来の十三代将軍を産む役目は喬子から家慶の数多ある側室に委ねられたのですが、彼女達が家慶との間に儲けた十四男十三女のうち、二十歳を超えて生存したのは、十三代を継いだ四男の家定(いえさだ)一人に過ぎませんでした
とは言っても、実子でなくとも正室である喬子が家定の嫡母であることは厳然たる事実であり、文政五年(1822)に家慶が将軍世子の身でありながら正二位内大臣に叙任されたのに伴い、御簾中たる彼女も従三位に叙せられたのです
夫家慶が父家斉から将軍職を譲られるのは、さらにここから十五年を要するのですが、その間に…
彼女の妹(喬子が輿入れした年に生まれた)であった吉子が水戸徳川家当主斉昭の正妻となるべく、江戸に下向して来たのです
まだ見ぬ妹が自分と同じく江戸に嫁して来るという知らせを受けた時、姉である喬子は何を思ったのでしょうか
(詳らかではありませんが…)
次回は吉子の輿入れの話をさせて頂きます