さてさて
有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の末娘(第十二王女)として誕生した吉子女王(よしこじょおう)に縁談の話しが持ち上がったのは…
彼女が二十七歳になった天保元年(1830)のことでした
父親の織仁親王はそれより遡ること十年前の文政三年(1820)に逝去していたのですが、当時として結婚適齢期を大幅に上回った二十代後半に至るまで、何故彼女が輿入れをしなかったのか 詳しい経緯は不明であります
その吉子の相手に定められたのは、御三家水戸徳川家の九代当主の徳川斉昭(とくがわなりあき)でした
夫となる斉昭は、縁談話が持ち上がった年の二年前、お家騒動の末に家督相続を果たしており、この時は家中の掌握に躍起となっていました
因みに縁談当時、斉昭は三十路を少し過ぎたばかりでしたが、当主になる前の部屋住みの頃に側室との間に三女を儲けていました
(因みに庶腹の男子はいませんでしたもし仮に男子がいたならば、後継問題が起きた可能性はあったかもしれません)
おさらいになりますが…
斉昭が家督相続に至る過程で水戸家中は
①十一代将軍家斉(いえなり)の二十男恒之丞(つねのじょう)を推す上級家臣
②八代当主斉脩(なりのぶ)の異母弟斉昭を推す中下級家臣や学者
上記二派の間で激烈な権力抗争が繰り広げられました
妥協の余地を模索すべく折衷案として出されたのは、恒之丞に斉昭長女の賢姫(けんひめ?当時七歳)を目合わせることでしたが、この縁談は結局実行されることはありませんでした
お家騒動の行方は、病没した斉脩の遺書(斉昭を後継者とする)が発見されたことで決着したのですが、衆目の目は…
将軍家斉の娘で恒之丞の姉でもあった斉脩正室の峰姫(みねひめ)の動向でした
仮に峰姫が父家斉の恒之丞の水戸家相続に固執したならば、事態は更に混迷の度を深めていたと思われますが、案に相違して彼女は斉昭の水戸家相続を承認したばかりか、以後は徳川将軍家(幕府)と斉昭との関係円滑化に意を用いるに至ったのです
義理の姉(相続的にみれば義母)にあたる峰姫の支持を受けることが出来たのは、権力基盤が未だ脆弱だった斉昭にとって大変心強いものであったのですが、この峰姫は吉子内親王が水戸家に輿入れ以後も、何かと世話を焼くことになるのです
さて、お話を吉子と斉昭の縁談に戻しますが、婚約が決まったのが前述の天保元年、早くもその翌年には彼女は江戸に降嫁したのです
この辺りの様子については、先に将軍世子家慶(いえよし)に降嫁した姉の喬子女王(たかこじょおう)と同じだったのですが、実はこの有栖川家と水戸家との縁組実現に多大なる力添えを行ったのが…
他ならぬ吉子の姉喬子だったのです
彼女が将軍家に嫁いだ折り、吉子は漸くこの世に生を授かったばかりでした
したがって、喬子は妹の顔を知ることなく江戸に降嫁してしまったのですが、それから四半世紀余り経過した今、妹の降嫁の月下氷人役を務めたのです
喬子にとって吉子が斉昭の正妻になれば、夫たる家慶の妹である峰姫が彼女の後見役を果たすのは十分見込めた訳で、加えて同じ江戸で姉妹が居所を近くに出来ることは大いなる安心材料であったのでしょう
さらに付け加えるならば、同じ御三家紀州徳川家の当時の当主は峰姫の同母弟斉順(なりゆき。家斉七男)であり、喬子は家慶の兄弟姉妹とのネットワークに吉子と斉昭を組み込むことで、将軍家・紀州家・水戸家・有栖川宮家からなる強力な閨閥の形成を目論んだのでしょう
こうした思惑を背景にして吉子の水戸家輿入れは実現したのですが、彼女は決して単なる宮家の高貴なお嬢様で収まる女性ではありませんでした
この続きは次回にさせて頂きます