徳川慶喜の厳父『烈公斉昭』(御簾中吉子女王について~破天荒な正室~) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

有栖川宮吉子女王(ありすがわのみやよしこじょおう)と水戸徳川家九代当主斉昭(なりあき)との縁談がまとまった時、吉子は既に二十七歳になっていました注意

 

対する許嫁たる斉昭は彼女より四歳年長の三十一歳でしたFREE

 

これより一年余前、お家騒動の末に部屋住みの身から栄転して水戸家を相続した斉昭でしたが、既に娶っていた側室との間に三女を儲けていました腕時計

 

これより先、世襲宮家の有栖川宮家からは、吉子の異母姉の喬子女王(たかこじょおう)が十一代将軍家斉(いえなり)世子の家慶(いえよし)に輿入れしており、此度の吉子と斉昭との縁談により、宮家と将軍家との関係がより一層強化されることになったのです合格

 

余談ながら、斉昭と朝廷との関係においてもう少し付言するならば、彼の同母姉の清子(きよこ)五摂家の一角を占める鷹司家(たかつかさけ)の当主政通(まさみち)の正室に、同じく異母姉の従子(じゅうこ)が五摂家の二条斉信(にじょうなりのぶ)の正室となり斉敬(なりゆき)を儲けていました注意

 

斉昭にとって鷹司政通と二条斉信は義兄、二条斉敬は義理の甥にあたるのですが、特に政通は江戸後期から幕末に至る三十年以上にわたり関白の座に君臨ビックリマークさらに引退後も太閤(たいこう。前関白)として朝廷内において隠然たる勢力を有していましたパンチ!

 

後年の幕末の将軍継嗣問題安政の通商条約勅許問題で、政通は義弟斉昭の息子で義甥にあたる慶喜擁立派の重鎮として活動、結果安政の大獄で、斉昭同様蟄居謹慎の憂き目を見ることになりますゲホゲホ

 

また、外交問題においては、政通は(斉昭正室吉子の実家)有栖川宮家と同じく一貫して攘夷を唱えており、水戸家・有栖川宮・鷹司家の朝幕の領袖家が、幕末の政治外交問題に一致協力して当たっていたことは看過すべきでない史実であると言えます目

 

お話しが聊か横道に逸れましたが…

 

吉子の縁談については、当時の今上帝であった仁孝帝(にんこうてい)NEW

 

『水戸家は先代以来政治と教育が良く行われており、、加えて代々勤王の精神が篤い家柄でもあり、宮(吉子)にとって良縁となるであろうニコニコ

と大いに賛意を表明した上に勅許を与えており、加えて異母姉喬子(家慶御簾中)の斡旋も奏功したと思われますクラッカー

 

こうして吉子の水戸家との縁談は関係要路より大変歓迎されていた訳で、彼女は婚約内定の翌年の天保二年(1831)に都から江戸に下向して輿入れを果たしたのですチョキ

 

さて、晴れて夫婦となった斉昭・吉子ですが、既に二十七歳となっていた新婦は水戸家後継者となる嫡男を挙げるに、自身が聊か年を取り過ぎていることを知悉していました叫び

 

生涯にわたり、斉昭は正室・側室との間に計三十七人の男女を儲けた艶福家であったのですが、吉子の輿入れ当時、公式的には男児を挙げてはいませんでしたあせる

 

ここで吉子は輿入れ早々、思い切った行動に出たのですDASH!

 

なんと彼女は、義理の母にあたる水戸家先代斉脩(なりのぶ)未亡人峰姫(みねひめ。夫死後落飾して峰寿院と号する)に対してグッド!

 

『自分は年齢が高く、子を産むことが出来ないかもしれないので、斉昭に側室を付けてほしい!!』と要請したのです叫び

 

正室が夫に側室を取ることを容認するのはまだしも、寧ろ積極的に勧める(義母を介してではありますが…)のは、極めて稀有なケースだと言わざるを得ませんねショック!

 

ましては、吉子は高貴な宮家の出身である故尚更なのですが、こうした自己の立場を超越して大所高所から物事を考えて行動出来た所が、彼女の尋常ならざる所以であると思われますチョキ

 

彼女からの(正式には義母の峰寿院から)要請を聞いた斉昭は、恐らく面食らったものと思われますが、彼女の聡明さと度量の広さに感銘を受けたのでしょうかはてなマーク以後彼は、前にも増して吉子の許に通う様になったのですパー

 

結果的に、吉子と斉昭は琴瑟相和した夫婦となり、三男・一女を儲けましたチョキ

 

四人の子のうち、次男次郎麿(じろうまろ)と五女以以姫は夭死、長男鶴千代(つるちよ)と七男七郎麿(しちろうまろ)が成人に達しましたチョキ

 

①長男の鶴千代は後に父の後を受けて水戸家十代当主となった慶篤(よしあつ)

 

②そして七男の七郎麿こそは、両親の大いなる愛情と期待を受けて成長した最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)その人であります合格

 

尚、吉子は側室が産んだ多くの斉昭の子女の教育にも積極的に関わり、生前より賢夫人の呼び声が高かったみたいですNEW

 

事実斉昭の庶子には優秀な子供が多く、有力大名の婿養子となって家を相続しています注意

 

代表的な存在としては、鳥取池田家の慶徳(よしのり)、岡山池田家の茂政(もちまさ)

 

彼等は幕末の政局においても、雄藩勢力の一翼を担っており、こうした事実からも斉昭・吉子夫妻の薫陶宜しきが覗われますねOK

 

吉子の賢夫人ぶりについては、次回でもお話しさせて頂きますポスト