頼朝死後の鎌倉幕府抗争について(東国武士との関係) | タケ海舟の歴史事件帳

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ここ最近は、ずっと頼朝の上洛と大姫(おおひめ)入内のお話をさせて頂いていますOK

 

とは言っても、最近の『鎌倉殿の13人』は頼朝死後の御家人達の権力抗争がメインになっていて

私のブログ執筆は相当後追いになっていますNG

 

怠けていて更新を頻繁にしていないツケが回っているのですが、あまり気にせずに自分のペースでブログアップをしていますギザギザ

 

でも、今回は少し話題を変えてみたいと思い、大姫入内話をお休みさせて頂きます腕時計

 

さて、どんな話だと言うと、頼朝急逝後、何故御家人達の間で、あれ程凄惨な権力闘争が繰り広げられてしまったのか?

という素朴な疑問ですカギ

 

人は一人では生きて行くことは出来ず、必ず家庭や職場、サークル等の趣味の会で、組織・集団・グループ内で仕事や生活することは避けられないですね!!

 

それ故、人ある所に必ずグループや派閥が出来て、組織の目標やそれを達成することで得られる利益の配分を巡って…

 

仲間同士で争いが起こってしまう訳です叫び

 

勿論、そうした問題や諍いを解決すべく、当事者または第三者等によって様々な知恵を出していた訳で、言わば歴史は…

 

問題解決の歴史でもあったと言えますねニコニコ

 

さて…

 

平安時代に入り、都での出世に見切りを付けた中下級の貴族達が、官職等の名誉よりも実利を求めて、地方官たる国司として下向する様になりましたチョキ

 

藤原氏が他の有力貴族達との権力抗争を制して、ほぼ朝廷の権力を手中に収めつつあった時代、それによって敗北を余儀なくされた他の貴族達が、中央における基盤を失いつつあったことが、国司としての下向の背景にあったのですが…

 

その傾向は、天皇家の身内である、皇親(こうしん)勢力にもあったのです合格

 

皇族として生まれても、中央政界で勢力を確保できるのは、せいぜい天皇の子供である親王(しんのう)若しくは孫世代になる王(おう)迄が良い所で、それ以降の世代になると大臣位はおろか、三位までの公卿(くぎょう)や五位までの貴族身分すら保ちえない状況になることは、決して珍しくなかったのです叫び

 

そうなると、まだ天皇の孫世代である王の時代に地方官として赴任、タップリと富を蓄えた(領民から搾り取る等)後に、都に帰らずにそのまま土着する道を選択する皇親が増えて来たのです耳

 

勿論、彼等は都での人脈をそのまま維持していたので、都と地方(本拠地)の往復する二重生活を行うケースもあり、この傾向は、平安末期の地方武士達にも顕著に見られたのです!!

 

そうした中、東国(当時は坂東)に下向した皇族の中で台頭したのが、平安初期の桓武天皇の曽孫にあたる高望王(たかもちおう)でしたチョキ

 

当時は藤原氏が摂関政治を軌道に乗せつつある時期であり、三世皇孫にあたる高望王は皇族身分を棄てて、平(たいら)姓を賜り、平高望(たいらのたかもち)として臣籍降下したのですFREE

 

皇族が姓を賜り臣籍に列することを降下といい、その名字は平・源・在原(ありわら)等があったのですが、最もメジャーなのが、源(みなもと)と平であり、時の帝の名前に合わせて…

 

①源氏→清和源氏(せいわげんじ)・嵯峨源氏(さがげんじ)・宇多源氏(うだげんじ)・村上源氏(むらかみげんじ)

 

②平氏→桓武平氏(かんむへいし)、仁明平氏(にんみょうへいし)、文徳平氏(もんとくへいし)

 

等々の賜姓貴族(しせいきぞく)が派生したのですクラッカー

 

彼等の中では、中央貴族として大臣位等の高官に上り詰める者もいたのですが、その過半は代を重ねるごとに皇室との血縁関係が薄くなるにつれて徐々に公卿の座を失い、幕末まで名門公卿として繁栄した村上源氏を除き、廟堂から姿を消すことになりましたNG

 

一方、地方に基盤を移すことで家運の上昇を目指した賜姓貴族達は、貴種という利点を生かして、地方の有力者と縁戚関係を結び地元の有力者として勢力を持つに至りましたOK

 

先述の平高望はその典型で、上総国の国司たる介(すけ)に任命されたことで勢力を扶植、その子供達は坂東各地に地盤を築いたのです注意

 

嫡男の国香(くにか)常陸国を本拠に定め、その息子貞盛(さだもり)の子孫が後年武士として初めての政権を担った平清盛(たいらのきよもり)を始めとする伊勢平氏(いせへいし)として栄えましたダイヤオレンジ

 

国香の別の庶流一族は、常陸を基盤に常陸平氏として土着したものもいたのですが、何といっても坂東八平氏(ばんどうはちへいし)として東国有力武士団の祖となったのが、国香の異母弟の良文(よしふみ)でしたビックリマーク

 

武蔵国村岡(むらおか)を本拠にしていた良文の子孫は、坂東各地に勢力を拡大させて行ったのですが、その係累とは…

 

武蔵国秩父平氏(ちちぶへいし)→秩父氏・江戸氏・河越氏・畠山氏・葛西氏・稲毛氏等

 

上総下総両総平氏(りょうそうへいし)→上総氏。千葉氏等

 

相模鎌倉党(かまくらとう)→大庭氏・梶原氏等

 

相模中村党(さがみなかむらとう)→中村氏・土肥氏・土屋氏等

 

相模三浦党(さがみみうらとう)→三浦氏・和田氏・岡崎氏等

 

主な者達でも、錚々たる顔触れであることが分かりますね合格

 

因みに、最初に東国を基盤にしたのは、桓武平氏の一族だったのですが、平安中期の平将門(たいらのまさかど)平忠常(たいらのただつね)の乱等を起こしたマイナス要因もあったのでしょうか?

 

貞盛嫡流の子孫達は坂東を離れて、伊勢・伊賀国に拠点を移すと共に、中央政庁との関係を深めつつ、西国にも勢力基盤を広げることになったのですOK

 

対照的に、平忠常(良文孫。上総・千葉両氏の祖)の乱を鎮圧したのは、清和源氏の一流である河内源氏(かわちげんじ)

源頼信(みなもとのよりのぶ)だったのですが、以後頼信の嫡男頼義(よりよし)と孫義家(よしいえ)が奥州の叛乱であった前九年役(ぜんくねんえき)後三年役(ごさんねんえき)を鎮圧した際に、彼に従った東国武士団との主従関係が深まり、結果として坂東は河内源氏の勢力基盤として定着したとされています注意

 

東国の有力武士は、源氏の郎党・家人として主従関係を結び、中には代々仕えるという累代の郎党も出現したのですパー

 

また、源氏の御曹司を自らの婿に迎えて婚姻関係を結んだり、養育を担当する乳母父となったりして、主従の絆を強化したのですOK

 

源義朝(みなもとよしとも)の庶長子(頼朝異母兄)の義平(よしひら)の母は、相模三浦義明(みうらよしあき)の娘とされており、義明の後に三浦氏の惣領となる義澄(よしずみ)と義平は、母方の伯(叔)父という関係になりますOK

 

弟の頼朝の養育にも、源氏の有力家人である中村党出身の乳母(摩阿局<まあのつぼね)(義朝乳母の説あり)が当たっているのですが、この中村党の有力氏族である土肥実平(どいさねひら)は、頼朝挙兵当初から馳せ参じており、頼朝が目指した天下草創(てんかそうそう)の事業に多大な貢献を果たしていますOK

 

この様に、河内源氏は東国武士との関係を基盤に東国に勢力を広げていったのですが、この頃の中央政界は、摂関政治から院政へと政治体制が変化しており、政(まつりごと)の実権を掌握した院(上皇)との関係を深めて、朝廷における軍事貴族の代表として勢力を伸ばしていた伊勢平氏(清盛祖父正盛・父忠盛)と比べて、源氏はこれに大きく後れを取ってしまっていたのです注意

 

退勢挽回の努力は続けられていたのですが、結局保元・平治の乱で河内源氏嫡流は、ほぼ壊滅状態になってしまい、東国に築いた勢力基盤と武士達との主従関係も喪失するに至ったのです禁止

 

話しはあちこちに飛んでしまいましたが、続きは次回に致しますNEW