建久六年(1195)の頼朝の第二次上洛の目的は…
①嫡男頼家(よりいえ)が次期鎌倉殿(かまくらどの)であることを朝廷に承認させる
②嫡女大姫(おおおひめ)を後鳥羽天皇(ごとばてんのう)に入内させる
上記二点でした
このうち①につぃては、二度に及ぶ頼朝父子の参内(二度目は頼家単独の参内)によって、その目的を果たすに至ったのですが
今一つの娘の入内計画は容易に進展していなかったのです
そもそも、大姫入内については、先の建久元年(1190)の第一次上洛の際に、治天の君たる後白河院(ごしらかわいん)との会談で持ち上がったと思われますが、数年後に後白河院が崩御したことにより、白紙状態になっていました
この背景には、幼帝の後鳥羽を支える摂政九条兼実(くじょうかねざね)との提携によって、朝廷との良好な関係維持の継続を意図していた頼朝の思惑があったと思われたのですが、既に兼実が嫡女の任子(にんし)を後鳥羽後宮に入内させていたことで、そこへ無理やり大姫を入内させることで、兼実との軋轢を避けたかったという見方もあります
一方、摂政になったとは言え、後白河の生前においては、なかなか政治を主導することが出来なかった兼実ですが、院の崩御によって漸く執政として力を振るえる時期の到来に至ったのです
但し、後白河院政を支えた近臣勢力は未だ健在で、彼等は亡き院の寵姫で院の遺した莫大な遺産の相続者(大半の)たる宣陽門院觀子(せんようもんいんかんし)の生母である丹後局(たんごのつぼね)の許に結集した彼等は…
反兼実勢力として侮り難い勢力を維持していたのです
更に、この丹後局派の強力な後ろ盾として、兼実との熾烈な権力抗争を繰り広げていたのが…
摂関家に次ぐ家格を有していた、村上源氏(むらかみげんじ)嫡流の源通親(みなもとのみちちか)でした
通親については、住んでいた屋敷の名前からとって、土御門(つちみかど)通親とか、久我(こが)通親とも呼ばれていたのですが、その出自は、平安中期の村上帝(むらかみてい)から臣籍降下して源姓を賜った賜姓源氏(しせいげんじ)でした
ここで、賜姓源氏と言えば、頼朝の先祖である河内源氏(かわちげんじ)も、同じく平安前期の清和帝(せいわてい)から源姓を賜っていたのですが、河内源氏が東国に下って武家の棟梁たる軍事貴族(ぐんじきぞく)として発展を遂げたのに対して…
通親の村上源氏は朝廷の高官たる公卿として生きる道を選択、同様な生き方を選びながらも、勢力を維持できずに朝廷から姿を消してしまった他の公卿源氏(くぎょうげんじ)を尻目に繁栄を謳歌していたのです
その理由として、平安中期に摂関政治の全盛期を演出した藤原道長(ふじわらみちなが)・頼通(よりみち)父子との婚姻関係があったのですが、続く院政期に入ると帝の外戚(がいせき)になる僥倖にも恵まれ、一族門葉は大いに繁栄したのです
但し、以後は王家との外戚関係を継続することに失敗(この点は摂関家も同じでしたが)したため、台頭する新興貴族や院近臣との競争を余儀なくされたのですが、村上源氏歴代は強かな政界遊泳術を発揮して、何とか公卿の座を維持していたのです
しかしながら、通親が家督を継承した時点は、平清盛率いる平家全盛の時期であり、彼の一門の多くが公卿の座を占める状況を受け、村上源氏嫡流というブランドがあっても、容易に公卿の座を維持することは容易ではなかったのです
そうした中、通親は柔軟な生き残りを戦略平家全盛の時は親平家派の貴族として、平家が都落ちした後には、後白河院の近臣として実に変わり身の速さを発揮して、廟堂における自己の地位を確保していたのです
朝廷での勤めぶりも精励で、平素は節操のない通親の政治姿勢を目の敵にしていた九条兼実も、彼の仕事ぶりについては一目も二目も置いていたみたいで、その日記『玉葉』(ぎょくよう)に『恪勤(かっきん)の上達部(かんだちめ)である』
と評言しています
但し、根本的に政治路線が異なっていた両者が相和することはなく、通親は反兼実派の中心として、その政治的立ち位置を鮮明にして行ったのです
さて…
頼朝は大姫入内を進めるにあたり、立場が競合する兼実との提携継続は難しいと判断したのでしょうか
後白河生前より、後宮に強い影響力を有していた丹後局との関係構築に努めていたのですが、ここに至って丹後局と同じく、兼実の政敵である通親との提携に舵を切ったのです
とは言っても、兼実との関係を完全に破棄するという訳でもなく、あくまでも関係が疎遠になったというのが正直な所だったのですが…
但し、実は通親の方も、時期を同じくして、自分の養女を既に後鳥羽帝の後宮に入れていたのです
恰も、後鳥羽後宮を巡る三すくみ状態が演出された感があったのですが…
この続きは次回に致します