さて、徳川家の歴代についての続きです
幼児だった七代家継(いえつぐ)が死亡したため、二代秀忠(ひでただ)の系統は、(会津松平家を除き)途絶えてしまいました
徳川将軍家断絶
とんでもないことになってしまった
次の将軍は誰にどこから連れて来たら良いのか
まさに、『どうする家康』の、「どうする」 「どうしよう」みたいな様相を呈していたのでしょうか
実は、予めこういう事態は想定されていたのです
家康は、万一、徳川将軍家に家を継承し得る男子がいなくなった時に、分家出身者から家督を継ぐ者を選ぶ
というシステムを用意していました
家康には、十一人の息子がいたのですが、本家たる将軍家を継いだのが、三男秀忠(ひでただ)でした
秀忠の二人の兄のうち、長男信康(のぶやす)は父の命により自刃
二男の秀康(ひでやす)は、他家に養子に出されたという経緯から…
後継から外され、越前家(えちぜんけ)という分家を興しました
それ故に、三男だった秀忠が後継者となった訳ですが、家康は彼の子孫に将軍職を継がせる一方で
将軍家断絶に備えるべく、これを継承する資格を持つ分家を創ったのです
家康の九男義直(よしなお)が、尾張徳川家(おわりとくがわけ)を
同じく十男頼宣(よりのぶ)が、紀伊徳川家(きいとくがわけ)を
末子の頼房(よりふさ)が、水戸徳川家(みととくがわけ)を
それぞれ興したのですが、彼等のことは、俗に『徳川御三家』(とくがわごさんけ)と呼ばれています
家康は、万一に備え、リスクマネジメントを行ったと思われるのですが
彼の生前、既に三家が継承有資格者になっていたのかと問われれば…
よくわからないと答えるしかありませんね
何故かと言えば、四代家綱が男子を得ずに死去した際、将軍職は御三家(当時三家は二代目の時代)から迎えられず
家綱の弟である綱吉(つなよし)が五代目を継く結果となりました
四代家綱の代で途絶えたのは、将軍家の嫡流の血筋であり、将軍家の庶流の血筋(三代家光の子供達)は健在だったのです
家光の成人した三人の男子のうち、長男家綱の後は、本来次男である綱重(つなしげ)が継ぐのが本筋でしたが、彼は家綱死去以前に世を去っていました
綱重には男子がいたのですが、まだ幼いこともあり、三男の綱吉が五代目を継いだのです
そう考えるならば、御三家が創設当初より、将軍家のスペアだったという考え方は、少なくとも江戸前期にはなかったと思われ、やはり、七代目を以って、秀忠・家光の血統が完全に途絶えた
という非常事態を受けて、初めて御三家から後継者を選ぶことになったと推測されます
勿論、三代家光の時に、家が絶えたならば、御三家(彼等は家光の叔父)から将軍を迎えることになったと思いますが…
江戸中期に至り、尾張家は七代、紀伊家は五代、水戸家は三代を数えており、同時に本家たる将軍家との血縁関係は薄くなっていました
後継者は、将軍と血筋が近い者こそが相応しい
これが当時の考え方であり、故に将軍家庶子による相承が行われたのです
因みに、御三家の対象も、当時は違っていたみたいで
将軍家・尾張家・紀伊家が御三家で、頼宣の同母弟であった頼房の水戸家は、紀伊家の分家として扱われていたのです
さらに、二代秀忠は、次男忠長(ただなが)に別家を興させ、彼の家は駿河家(するがけ)と呼ばれていました
そして、将軍家は唯一無比の、別格の家であるということになり、尾張・紀伊・駿河が三家とされていたのですが…
忠長が、乱心等の不行跡の数々で改易(かいえき。後に自刃)処分となったため、代わりに頼房の水戸家が滑り込み
以後、この三家を指して、御三家となったのです
但し、先述の通り、水戸家は紀伊家の分家であるということなので、将軍は出せず、代わりに副将軍という名誉職を冠することになり、事実上、将軍は尾張・紀伊の両家から出すことになったのです
(但し、あくまでも、本家の将軍家に男子がいなくなった場合に限る)
したがって、八代将軍選びも、事実上、両家の争いになったのですが
この話の続きは次回に致します