徳川家の歴代(八代将軍吉宗登場と後継者選び) | タケ海舟の歴史事件帳

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さて、嗣子なく早世した家継(いえつぐ)の跡目を巡り…

 

御三家から養子を以って継がせることになったのですが注意

 

候補は二人に絞られましたOK

 

➀尾張家七代当主継友(つぐとも)

 

②紀伊家五代当主吉宗(よしむね)

 

御三家にも序列があり、筆頭は、家康九男義直(よしなお)を祖とする尾張家で、同じく家康十男頼宣(よりのぶ)を祖とする紀伊家は、それに次ぐ家格を有していました合格

 

領地の面でも、尾張家は六十二万石で、紀伊家は五十五万石で、前者が後者を凌駕していたのですが、官位においては…

 

尾張・紀伊両家共々、従二位権大納言(じゅにいごんだいなごん)を極官にしていました腕時計

 

武家社会の序列でいうならば、絶対的な存在である将軍家が別格で、尾張家がナンバー2。紀伊家がナンバー3という位置付けになったのですが、前回お話した通り、紀伊家の同母筋に当たる水戸家は、同じ御三家でも、紀伊家の分家扱いとなり、『副将軍』という名誉職を与えられたものの、将軍を出す家からは除外されていたのですNG

 

したがって、こうした家格序列から見れば、筆頭の尾張家当主が将軍の座に就くことが有力視されたのですが…

 

史実ではそうはならず、二位の紀伊家の吉宗が八代将軍の座を射止めたのです合格

 

吉宗が将軍家を継承出来た理由は…

 

➀神君家康から数えて、継友は玄孫(やしゃまご)に当たるのに対して、吉宗は曾孫(ひまご)で、家康に近い血縁であったOK

 

②六代将軍家宣(いえのぶ)の正妻である天英院(てんえいいん)が、吉宗を強く推したOK

 

③当時の幕府首脳の権力抗争において、家宣・家継派が、家継生母の月光院(げっこういん)と提携して、継友擁立を図ろうとしたのに対抗して、譜代門閥老中達は天英院と共に、吉宗擁立に動き、後者が勝利したOK

 

等々挙げられるのですが、事前に老中や大奥勢力へ効果的に働き掛けた、吉宗陣営の勝利だったと言えますチョキ

 

こうして、有名な暴れん坊将軍こと、吉宗が養子となり徳川将軍家を継いだのですが、餅を奪われた形となった尾張家の憤懣は根強く、この後、吉宗と尾張家は確執を深めることになるのです叫び

 

さて、吉宗には、紀伊家当主時代に儲けた二人の男子がいたのですが、そのうちの長男である家重(いえしげ)を将軍世子として定め、三家等の諸大名に告知したのですが、尾張家の不満の芽を摘み取る故に、早期の決定となったのでしょう注意

 

但し、家重は生来の病弱の体質であり、尚且つ言語不明瞭という、一種の言語障害的な所があったみたいですダイヤオレンジ

 

そういう懸念されるべき要素もあった家重ですが、正常な判断力は有していたらしく、世子の座を射止めるに至ったのですひらめき電球

 

因みに、家重の弟である宗武(むねたけ)宗尹(むねただ)は、長兄と異なり、聡明さを謳われており、幕府首脳の中では…

 

弟君の方が次期将軍に相応しいのでは?という意見も出ていたみたいですが、吉宗は長子相続の建前を守り、家重を次期将軍にすることを宣言!!

 

将軍在職年数が、歴代最長になったのを契機に、家重に将軍職を譲り、自身は大御所(おおごしょ)を名乗ったのですOK

 

将軍職の生前譲渡は…

 

➀初代家康→二代秀忠

 

②二代秀忠→三代家光

 

の前例があったのですが、大御所・将軍の二頭体制を敷くことによって、経験値の低い家重の後見を務めると共に、息子を補佐し得る人材育成を推進する意図があったのでしょう注意

 

では、将軍になれなかった、家重の弟達の処遇は、如何あいなったのでしょうか?

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続きは次回に致します