さてさて…
『光る君へ』本編では
前回の放送から数年経過した時点から、次回の放送となるケースが、何度か見られる様になりましたね
十二月までのドラマで、気が付けば、既に全体の四分の一が終わっており、内容上、スルーせざるを得ない場面も
あるとは思いますが、前回の放送でスキップされた二~三年の間には
結構重要な出来事があったのです
そうした所については、このブログで可能な限り、触れて参りたいと思っています
そこで、今回は、それ以前でスルーされた話の中で、兼家最末期の後宮政策についてご説明させて頂きます
前回ご紹介した通り、道隆(みちたか)の内大臣昇進前後に、兼家の健康状態が悪化していたのですが、
自らに残された時間が幾ばくもないと察していた兼家は、自己の政権を次代に引き継ぐべく、後宮政策にも新たな布石を
打っていました
周知の通り、兼家には
➀円融皇統(えんゆうこうとう)に一条帝
②冷泉皇統(れいぜいこうとう)に東宮居貞(とうぐういやさだ)・為尊(ためたか)・敦道(あつみち)
併せて、男子だけでも、四人の外孫を擁していましたが、このうち、今上帝たる一条には
正暦(しょうりゃく)元年(990)始めに、自ら太政大臣(だじょうだいじん)に就任したうえで、元服の儀を執り行うという
通過儀礼を経た直後に、嫡男道隆の長女である定子(ていし)を入内させました
言うまでも無く、定子は兼家の内孫で、皇太后詮子(こうたいごうせんし)出生の一条と彼女は、従姉弟同士の関係でした
この時点で、兼家の未婚の娘は、正妻腹ではない綏子(すいし)が温存されていたのですが、自身の後継者と定めていた道隆の娘
こそが、一条の后に相応しいと考えていた兼家は…
妾出生の綏子ではなく、道隆正妻高階貴子(たかしなのきし)出生の嫡女定子を、一条に配したのです
尚、入内当時、定子は十四歳、対する一条は元服したとは言え、未だ十一歳に過ぎませんでした
この頃の幼帝は、概ね十四~十五歳になって、元服の儀を行うことが通例となっていたのですが、仮に十四歳を元服適齢期と考えたならば、十一歳での一条の元服は、かなり早期である訳で、自分の余命が長くないことを知悉していた兼家が、元服を強行させたのが真相だと考えられます
同時に、帝の後宮に娘を入内させるには、帝が成年に達していなければならず、定子入内に漕ぎつけるには
一条の元服は必須条件であり、兎に角兼家は、自分の眼の黒いうちに、定子入内を完了させなければならなかったのです
因みに、入内当時は、先例に則り、定子は女御(にょうご)に任じられたのですが、その年にうちに
彼女は早くも、中宮(ちゅうぐう)に立てられることになります
彼女の中宮立坊は、兼家死後で尚且つ、その喪中に拘わらず強行され、その結果
一天四后(いってんよんき)という、前代未聞の事態が惹起されたのですが、その話は機会を改めたいと思います
因みに、兼家の末娘である綏子ですが、定子入内より一年(実質は二ヶ月弱)前の永祚元年(989)に…
東宮居貞親王の後宮に、入侍(にゅうじ)を果しました
入内当時、綏子は十六歳、対する居貞は二歳年少の十四歳でしたが、既に寛和(かんな)二年(986)に元服を済ませていた居貞の方が、(元服前であった一条より)先んじて、自らの後宮に妃を迎えることになったのです
因みに、綏子の生母は、兼家妾妻である対の御方(たいのおんかた)で、北家長良流(ほっけながらりゅう)の藤原国章(ふじわらの
くにあきら)の娘でした
ところで、兼家には四人の娘がいたのですが、このうち、長女超子(ちょうし)と三女詮子(せんこ)は正妻時姫出生の娘で、何れも帝の後宮に入って皇子を出産をしたことは、既にご存知ですね
次女と四女が妾腹で、前者は清和源氏(せいわげんじ)の公卿であった、源兼忠(みなもとのかねただ)娘が生母で
後に兼家妾妻である道綱母(みちつなのはは)の養女となっていますが…
彼女は異母姉妹とは異なり、後宮に入内することはありませんでした
(道綱養女については、後日に稿を改めます)
後者の生母が、前述の対の御方であったのですが、兼家は東宮居貞が即位する未来を見据えて
満を持して、温存していた綏子を入侍させたのです
こうして、東宮妃(とうぐうひ)則ち御息所(みやすどころ)として入侍した綏子は、居貞が初めて迎えた妃であり、順調に行けば…
居貞即位の暁には、晴れて皇后(中宮)になる路線が敷かれて筈だったのですが
入内した彼女の生涯は、お世辞にも、幸福とは言えなかったのです…
このお話の続きは次回に致します