東宮居貞の後宮問題について(道隆次女の原子の東宮居貞入侍が早期に実現しなかった理由は?) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

父兼家(かねいえ)から政権を引き継いで間もない摂政道隆(せっしょう)の当面の課題は?

 

一条帝(いちじょうてい)に入内した長女定子(ていし)の立后でした注意

 

皇后の別称、若しくはその宮殿の呼称であった中宮(ちゅうぐう)を…

 

皇后から切り離して皇后と同格の正后とする!!

 

定員三枠が塞がって三后の誰もが后位を退く予定がなかったダッシュという状況もあったのですが注意

 

道隆は前例のない四人目の后を創出上矢印

 

かくして、『往古(おうこ)例のない』一天四后(いってんよんごう)体制が発足しましたパー

 

ところが…

 

夫である円融院(えんゆういん)の崩御を受け、一条の国母(こくも)の詮子(せんし)が出家して、皇太后の座を返上した為

 

僅か一年弱で、一天四后制は終焉一条の権威のより一層の強化を迫られた道隆はパー

 

詮子を太上天皇(たいじょうてんのう)に准じた女院号(にょいんごう)を贈り、彼女は最初の女院であるメモ

 

『東三条院詮子』(ひがしさんじょういんせんし)として、一条に、唯一親権を行使し得る人物となったのですw

 

もっとも、この後、道隆は強引な政治手法を駆使!人事等で露骨な身内贔屓を行う様になったのですが…

 

彼のやり方に反発した、道兼(みちかね)・道隆(みちたか)等の兄弟達は、女院である詮子と提携宝石白

 

道隆率いる、中関白(なかのかんぱくけ)との対決を深めて行きます叫び

 

特に、飲水病が末期症状になった道隆が、嫡男である内大臣伊周(ないだいじんこれちか)を後任の関白にすべく、一条帝との

折衝を始めた際に、詮子は…

 

➀関白の就任は兄弟順であるビックリマーク

 

②したがって、兄道隆の次の関白は、そのすぐ下の弟である右大臣道兼(うだいじんみちかね)が就任すべきである!

 

と一条帝に要請サーチ

 

結局、一条は両者の主張の中を採る形で宝石白

 

『関白が病の間は伊周に代理をさせる!!という宣旨(せんじ)を下すのみに留めたのです18禁

 

今や女院となった詮子は、天皇家の家長のみならず実家である兼家一家に対しても摂関就任者の決定を左右出来る程の権力を有していましたピリピリ

 

こうした経緯を俯瞰してみますと、道隆にとって詮子を女院にしたことはパー

 

自らの政権の正当性を補完する権威・担保になるどころかピリピリ

 

寧ろ、強力な敵対勢力を生み出してしまったとも言え、恐らく死の床で道隆はアセアセ

 

後悔の念に身を苛まれていたと思われますドクロ

 

そして、道隆の死後詮子は道兼・道長の後ろ盾となって、兄の中関白家を没落に追い込んで行くことになるのですえーん

 

聊か、話の論旨が逸れてしまいましたが…

 

政権初期における、道隆の後宮政策の優先順位は、円融皇統(えんゆうこうとう)の一条帝の方であり…

 

外戚の継続を考えるうえでは必要と理解しながらも冷泉皇統(れいぜいこうとう)東宮居貞(とうぐういやさだ)

後宮への対策を後回しにしていましたパー

 

先に異母妹綏子(すいし)居貞に入侍していた事情もあったのですが、自分の擁する『きさきがね』の娘達の中で、

 

居貞へ嫁がせる本命であった次女原子(げんし)がまだ適齢期に達していないことも、入侍に踏み切れない理由だったのですアセアセ

 

兼家薨去後、居貞と綏子の不仲が公然となり、彼女が内裏を離れて、主に里第(りだい)で生活する様な状況になっても…

 

道隆は東宮夫妻の仲裁をすることもなければ原子入侍を急ぐこともなく、特にこれといった動きを見せませんでしたあせる

 

実は、道隆は注意

 

兼家の死後に、彼の妾妻(しょうさい)の一人で、綏子の生母であった『対の御方』(たいのおんかた)を…

 

自分の妻にしていたのですNG

 

いくら、父親が亡くなった後とは言えその妻を自分の妻にしてしまうのは

 

『人倫の道に反するイラッ炎

 

と思われるかもしれませんですが、この時代は、親の死後に、息子がその妻(即ち義母)を娶るケースは少なくなく、他にも散見

されますあせる

 

因みに、道隆の妻の一人も、夫の死後に、その長男(正妻腹でない)である道頼(みちより)の妻になっており下三角

 

中関白家は、父子二代で変則的な夫婦関係を有していたのです魂

 

(現代では、倫理的には受け容れられないと思いますが…、当時はそうではなかったのですねダッシュ)

 

対の御方を妻にした以上、道隆は綏子の父親という立場になったということになるのですが…

 

前述の通り、道隆は居貞との関係が悪化していた綏子に、救いの手を差し伸べることはありませんでした宝石白

 

道隆にしてみれば、原子を居貞に入侍させることは既定路線となっており拍手

 

仮に、居貞と綏子の仲裁に入り、万一夫婦の関係が好転のみならず… 皇子を儲けたりしたならばおいで

 

原子を入侍させるのが、難しくなるのではないか?!!

 

と道隆は考えて、敢えて東宮夫妻の調停に動かなかったのかもしれませんねサーチ

 

ところが…

 

そんな静観を決め込んでいる矢先キラキラ

 

道隆の酒飲み友達である、小一条流(こいちじょうりゅう)の大納言済時(だいなごんなりとき)

 

娘の娍子(せいし)を、東宮後宮に入侍させたのですうずまき

 

続きは次回に致します右上矢印