JR発足の頃 鉄道150周年に寄せて 郵便局に国鉄職員がやってきた。 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

国鉄だけが、民営化に際して職員の振り分けが行われた


国鉄が1987(昭和62)年4月1日にJRに移行したとき、一部の国鉄職員は清算事業団職員として、残ることとなりました。

国鉄の場合、一足先に民営化されたNTT(日本電信電話会社)やJT(日本たばこ産業株式会社)が職員がそのまま民間会社に移行したのと異なり、国鉄職員を以下のように三つに分類して、言った経緯があります。

すなわち、国鉄から新会社に採用される人、国鉄時代に民間会社や、他省庁に転職する人、清算事業団職員として移行し、その後再就職として民間会社や他省庁に転職する人ということで、国鉄の中では3種類に分けて考えていたようです。

当時の計画では、民営化以降で10万人の人員が過剰となると計算されており、新会社にも余裕を持たせてひきつぐがそれでもなお、それだけの人員が過剰となるとして、国鉄では積極的に政府機関や地方自治体への働きかけを行ったとされています。

その辺については、国労の資料を参照しながら見ていきたいと思います。

監理委員会の最終答申では、分割・民営化後の新会社の適正要員を18万3000人、余剰人員を9万3000人とはじきだした。うちに上乗せし、2万人の希望退職を募り、残る4万1000人は「旧国鉄」に所属させ、公的機関や民間企業で再就職を図ると、答申していた。その後、亀井監理委員会委員長が国会答弁などで「国や地方自治体などの公的機関は、採用可能な職種の一割を国鉄職員の受け入れにあて、3万人を採用し、残りを民間で」という案を示した。しかし、受け入れ機関側の抵抗もあり、明確な計画が固まらなかった。
 各省庁や地方自治体との協議を開始した。地方自治体の場合は、保母などの資格の必要な職種が多いこと、女子の占める割合が大きく、自治省によると国鉄職員を受け入れ可能な職種が全採用数の2割以下で、結局、86年度に国鉄から受け入れ可能人数は、特殊法人も含めて公的機関で2000人に達するかどうか、という状況であった。

 

 国鉄労働組合史詳細解説 143から引用

ここに書かれていますように。国鉄では希望退職者や清算事業団に移行した職員を対象に就職斡旋活動を行うこととなりました。

採用省庁は多岐にわたり、運輸省の外局である気象庁は元より、NTT、JT等田の旧公社や、現業機関であった郵便局、他に鉄道公安官は本人が拒否しない限りにおいては、所属する府県の警察官に採用されたようですが、実務の点ではあまり評判は芳しくなかったなんて事も、元警察OBから聞いたことがあります。

 

他の省庁に国鉄職員が採用されて
国鉄改革は、国を挙げての改革と言うことで他省庁も採用人員の10%程度を国鉄職員の採用枠として扱うこととなりました。

郵政相にあっても、国鉄職員を受け入れることとなり、採用試験が行われ第1陣は昭和61年10月頃から研修所にやってきたように記憶しています。

当時私は、中等部訓練生として近畿郵政研修所で学びながら研修所職員兼務という辞令を受けて学生と身分と研修所職員という二つの草鞋を履いた存在として1年間研修所で多くの研修生の出入りを見ていたものでした。

当時の郵政の研修は非常に緩いもので、基本的には中等部及び職員以外は私服でした。

そこに、国鉄からやってきた人たちは、背広にネクタイをして授業を受けていたわけです。

これには郵政研修所の職員以下も気づいたようでした。

翌年度からは、研修生は制服もしくはスーツを着るようにとのお達しが出たそうです。

 

それくらい当時の国鉄職員の存在は郵政の中では際立っていたと言えます。

国鉄としても他省庁に転出するわけですから、お荷物になる人が来たと言われたくないでしょうし、それだけ意識が高い人も多かったように思えます。

 

民営化される事への複雑な思い

国鉄職員の前職は判りませんが、多くは郵便内務及び外務職員に採用されたようですが。採用後ゆうちょや簡易保険に配属された人もいたようで、その後の適性などで決められたのかも知れません。
ただ、研修所にいた頃は、当然と言えば当然ですが、国鉄職員だけで集まっているので、こちらからは声を掛けにくい、そんな状況であったのも事実ですが。

そこで、話していた言葉に複雑な感情を持たざるを得ませんでした。

 

「郵政に転職したから少なくとも雇用の不安はなくなった・・・しかし、今度は郵政も民営化とかなったら嫌だなぁ」と同僚と話している言葉が、聞くとも無しに耳元に入ってきたのです。

まさにこの言葉が当時の国鉄職員の偽らざる気持ちだったのでないでしょうか。

誰が新会社に残れるのか・・・早々と国鉄に見切りを付けて新しい職場にチャレンジするのが良いのか。それとも・・・・去るも地獄、残るも地獄と言われたものでした。

私の父親も国鉄職員であり、管理局(天王寺鉄道管理局)の課長補佐でしたので、本人も部下を採用するか否かの篩い分けをせざるを得なかったと言っていました。

私はのんきに、父親は管理者なんだから採用されるじゃないのといったのですが、不採用にした職員も多数いるので自分だけが新会社に行くわけにはいかないとして。

採用はされたものの、本人は採用を辞退しました。

正直、家族にも相談していましたから。本人としても忸怩たる思いはあったと思いますし。

今となっては、あのときに止めずにJRで引き続き仕事をしたらと言ってあげた方が良かったのかも知れないと反省することしきりです。
そんな悔悟の念もありますので、できるだけ国鉄の歴史というものを中立的な視点で語っていきたいと思っています。

 

画像は、実際には私の父親(加藤和雄)がJR西日本から受けた採用辞令をスキャンして、私の名前に書き換えたものです。
同じく下記は、父親が受け取った最後の辞令を同じくスキャンして私の名前に書き換えたものです。

父親は国鉄という組織に非常に愛着があったのでしょう。この辞令を常に自分の作業用の机に挟んでいつでも見ることができるようにしていました。

そんな父も鬼籍に入ってかれこれ10年以上になりますが。
国鉄という存在を少しでも多くの方に正しく伝えていきたいと改めておもうのです。

 

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日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代

 

 

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