大相撲

歴史的瞬間!連勝ストップ4

■双葉山3

昭和13年夏場所、先場所小結だった前田山が
関脇をこえ、大関に昇進した。武蔵山が横綱
として最初で最後の皆勤となった。双葉山は
最高峰の東の正横綱となった。この場所も
双葉山は連戦連勝。安定した相撲が続いた。
敵なしである。双葉山に善戦したことがある
大関鏡岩は、もはや通じなくなっていた。

<双葉山のブロマイド>

千秋楽、横綱玉錦と対戦した。玉錦はすでに
2敗しており、優勝は決まっていた。玉錦に
すればここで一矢報いるべく、闘志あふれて
いた。勝負は水入りとなったが、最後双葉山
が寄り倒した。5場所連続全勝優勝。連勝は
66連勝となった。これが最後の双葉山-玉錦
戦になった。玉錦はこのあとの巡業中に盲腸
が破れ、腹膜炎となっていた。最初は腹痛と
腹を温めていて、対処が遅れてしまった。
病院で急遽手術したが、12月、帰らぬ人と
なってしまった。

双葉山はいつ、誰に、どういう相撲で負ける
のか。双葉山は負けない、100連勝までいく。
日本中がそんな話題のなか、昭和14年春場所
が始まった。初日五ッ嶋、2日目竜王山、
3日目駒ノ里を退けてついに連勝は69まで
きた。運命の日は4日目にきた。前頭3枚目
出羽海部屋の新鋭の安芸ノ海戦である。安芸
ノ海とは初対戦であった。稽古をしたことも
なかった。

<安芸ノ海のブロマイド>

双葉山右四つ、安芸ノ海左四つでスピードが
あった。相撲はこう展開した。安芸ノ海突っ
張っていくが双葉山下からあてがっていく。
安芸ノ海されば突き放しにいくが、双葉山
右差し。安芸ノ海右四つになるも頭をつけて
右下手を浅く引く。左上手も引き、食い下が
る体勢をつくる。双葉山左は相手のひじを
つかんでいたため、右からすくい投げにいく
がきかず。双葉山さらに2度、3度とすくい
投げにいくが、安芸ノ海の左外掛けの急襲に
双葉山がくずれていった。

<双葉山(日本スポーツ出版社刊)より>

時、昭和14年1月15日6時32分、ついに双葉
山が敗れた。「双葉山確かに負けたね」と
確認するメディア。観客は誰もが信じられ
ない光景を見た。布団が、みかんが、タバコ
盆まで飛ぶありさまであった。混乱は続き、
相撲記者にまで及んだ。ほとんどが安芸ノ海
の右外掛けと思い違いをしたのである。また、
支度部屋を出る安芸ノ海を大勢の群集が囲ん
でなかか進めなかった。新しい英雄の誕生で
あった。

双葉山は昭和13年の夏、満州巡業でアメーバ
赤痢にかかり、体調は万全でなかった。また、
動揺すまいと思ったことが、意識しない動揺
あったと自ら語っている。有名な「未だ木鶏
たりえず」という言葉を残している。足掛け
4年にわたる双葉山の連勝はこうしてストッ
プされた。

(双葉山の項目終わり)

下町ロケット再放送をみました。
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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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