大相撲

殊勲賞の中身Ⅱ 4【昭和39年~40年】

昭和39年から40年、大鵬が23歳から25歳の
ときである。優勝でいうと12回目から18回目
を成した時期である。昭和40年から時津風
(元双葉山)理事長の英断によって部屋別
総あたり制がスタートした。横綱栃ノ海対
大関佐田の山が4日目、大関佐田の山対大関
栃光が6日目に実現するなど異例の前半戦と
なった。

昭和39年一月場所、12勝3敗の横綱柏戸を
倒した前名若三杉の大豪が殊勲賞に輝いた。
13勝2敗で場所後横綱に昇進した栃ノ海に
勝った明武谷は見送られた。明武谷はその後
七月場所、十一月場所、昭和40年一月場所、
十一月場所で殊勲賞に輝いている。

<大豪、若三杉時代のブロマイド>

七月場所は勝った横綱・大関がやや弱く、
大豪でもよかったように思う。2度の十一月
場所は優勝大鵬に勝っての受賞だけに大変
価値があった。明武谷といえば大鵬・柏戸
あるいは柏戸・佐田の山との優勝巴戦に2度
出場している印象のほうが強いかもしれない。
明武谷の4度の殊勲賞は昭和39年・40年に
凝縮されている。

<明武谷>

昭和39年三月場所、開隆山が殊勲章を受賞
したが、内容はやや弱かった。開隆山は九月
場所も殊勲賞となったが、内容はさらに弱か
った。開隆山はこの3度目の殊勲賞が最後の
殊勲賞となった。

昭和39年五月場所は優勝者横綱栃ノ海に勝っ
た沢光が受賞した。しかし、横綱柏戸、大関
豊山・北葉山との対戦はなかった。当時、
横綱・大関は番付で同系統・同部屋を除いた
上から15番目までが対戦相手という傾向が
あった。なお、柏戸が12日から休場したこと
で大鵬とは急遽14日目に対戦している。

<玉乃島>

殊勲者として浮上してきたのが玉乃島であっ
た。昭和40年三月場所初受賞した。ただ、
内容的には清國と差はなかった。五月場所は
優勝者佐田の山にただ一人勝っての受賞だっ
た。部屋別総あたり制になって大鵬と対戦
したが、最初はけっこう勝っていた。昭和
40年の対戦成績は以下である。
○●○○●●
玉乃島の活躍は続く。

昨日はパソコンが謎の不調でした。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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