雄弁な看板 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 東京郊外のとある駅のホームに立っていた。木枯らしの吹く夕暮れ時だった。空腹も相俟(あいま)って、寒さがひときわ身にしみる。手もかじかんで、懐に入れてあった文庫も取り出す気にはなれない。今にも降り出しそうなどんよりとした空が、陰鬱(いんうつ)な気分をいっそう駆り立てていた。

 見渡すと、線路を挟んだ向こう側に広告看板がズラリと並んでいる。なかなか来ない電車に苛立(いらだち)ちを覚えながら、私はそれらの看板を見るともなしに眺めていた。学習塾の看板、エステの看板、自動車学校、パン屋など千差万別である。中でも圧倒的に多いのは、病院の看板だ。その病院の看板のひとつに、釘づけになった。

 そこには、ひときわ大きな文字で「××肛門病院」とあった。あまりの直截(ちょくせつ)的な表現に目を瞠(みは)ったのだ。目覚めるような直球、ストレートである。その文字の下には小さな字で「旧××大腸病院」とある。真新しい看板なので、最近病院名を変えたことがわかる。

 よりによって「肛門」とは、大胆なことをしたものだと思った。患者の立場から、分りやすい名称にしたのだろう。病院に行きたくても、なかなか思い切れずにいる痔(じ)の患者は大勢いるはずだ。大腸病院でいいのだろうか、受付で笑われたらどうしよう、そういった彼ら彼女らの杞憂(きゆう)が、「肛門」によって一蹴されるのである。

 だが、その改名を巡っては、病院内で熾烈(しれつ)な賛否両論、喧々諤々(けんけんがくがく)の討議があったはずだ。

 わけても、女性事務員からの反発は、激しいものだったろう。うら若き女性が電話口で、「はい、××肛門病院です」と言わねばならない。電話は患者からの問い合わせだけではない。そのたびに「肛門」を連呼しなければならぬ彼女らの気持ちを推しはかると、いやが応にも空想が膨らむ。

 とある女子大のキャンパス。厳しい就職難の中、内定すらもらえない学生がキャンパス内に犇(ひしめ)いている。そんな中、久しぶりにA子から声をかけられたB子。

「ねえ、どこか決まった? 会社」

「あッ、まあーねぇ」

「凄いじゃない。ドコ、ドコ、ドコよ」

「えッ……病院事務なンだけど」

「スゴイ、スゴイ、スゴーイ。で、どこの病院?」

「それが……Σ※#病院」

「えッ? なに病院?」

「……」

 B子にとっては、ゴウモンにも似た思いであった。

 さて、女性事務員が結婚した。披露宴では仲人や司会者が新郎・新婦の紹介を行う。

「……えー、一方、新婦の○○子さんは、××短大を大変ユーシューな成績で卒業され、××コーモン病院に勤務。そこで患者として入院されていた新郎の△△クンと運命的な出会いを果たしたわけでーあります」

 厳かな会場、豪勢な料理を前に華やかに着飾った紳士、淑女が厳粛な顔で佇(たたず)む。その華燭(かしょく)の典に「肛門」はふさわしくなかった。ここで吹き出してしまったら、それこそ大顰蹙(ひんしゅく)である。院長や理事長まで来賓席にいるのだから。列席者は俯(うつむ)いたまま、込み上げる笑いの渦を必死で逸らす。ある人はひたすら別のことを考え、またある人は自分の太股(ふともも)をツネる。方々から急に咳払いが巻き起こるのもいたし方ない。誰かひとりでも「クスッ」とやってしまったら、一巻の終わりだ。瞬時に核分裂のごとき笑いの連鎖反応が、会場全体を覆い尽くすことになる。

 また患者にしても、スーパーなどで買い物をする際に、不用意に財布の中身を見られないように気を遣う。「××肛門病院」なる診察券が覗いていては、都合が悪い。

「あ! 落としましたよ」

 と若いビジネスマン。すまして前を歩くうら若きOLを呼び止める。男の声にシャンプーのコマーシャルのように振り向いたOL。診察券を手にした男を見て、

「あッ、あああーッ」

 忘我の絶叫。いきなり男の手から診察券を奪い取り、ギロッと睨(にら)んで走り去る。これがドラマだと、「以前にどこかでお会いしたような……」という男に、「あら、そうだったかしら」と、目の輝きをあらわにする女の顔が大写しとなり、恋に発展していく場面である。だが、この診察券では、ロマンスも何もあったものではない。

 かくして××肛門病院の会議室では、連日連夜に及ぶ議論の末、とうとう事務長が折れ、院長の大英断により改名をみたのである。「患者最優先」の勝利であった。

 寒々しい駅のホームに立つ私のうら悲しい気分は、この一枚の看板の出現で吹き飛んだ。ただ、そんなことすら喜べず、苦虫を潰(つぶ)した顔をしているのは、当の痔を患う患者たちなのである。

 

  2004年7月 初出  近藤 健(こんけんどう) 

 

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