松崎さんの小便 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 酒での失敗談は数多くある。想い出深いのは、松崎さんとの酒だろう。

 私が東京で就職したばかりのころ、松崎さんは五十歳を少し過ぎた年齢だった。松崎さんは、江戸っ子気質でベランメー調、飲むほどに饒舌(じょうぜつ)になる。彼はこよなく日本酒を愛していた。だから、昼食もソバしか食べない。

「ばかやろう! メシなんか食ったら、酒がマズくなるじゃねぇか」

 と返ってくる。会社帰り、ひとりで一杯引っかけて帰るのが楽しみで、そのために会社にきているような人だった。

 松崎さんは三浦市(神奈川県)から通っていた。京浜急行の始発、三崎口駅から会社のある日本橋人形町まで乗り換えなしの一時間四十分の通勤だった。

 飲み過ぎた松崎さんは、すっかり寝込んでしまい、その距離を折り返して戻ってくるのだ。そんな松崎さんの姿は、何人もの社員が目撃している。飲んだ帰りに人形町駅を通る際は、みな反対方向の車窓に松崎さんの姿を探していた。終電を失くした松崎さんは、競馬の当たり馬券でビジネスホテルに泊めてもらったこともあった。

 あるとき、珍しく松崎さんに誘われた。松崎さん、実は大の読書家で、文学談義に花が咲いた。咲きすぎた。大ファンの太宰治がいけなかった。松崎さんの舌に火がついた。その舌が空回りし出して、何をしゃべっているのか分からなくなってきたところで、お開きとなった。

 駅に着くや、

「オッ、ショーベン!」

 と言う。二人でトイレへと向かう。トイレには我々しかいなかった。小便をしながら、なおも熱弁を振っている。だが松崎さん、なかなか小便の音がしない。おかしいなと思い、チラリと見ると、確かに両手で握っている格好をしている。だが、肝心なものが出ていなかった。どうなっているんだと思ってよく見ると、松崎さんの足下から私の方に向かって、水が流れてくるではないか。その水は松崎さんのズボンの裾から出ていた。

「松崎さん、チ〇ポ、出てないスよ!」

「えーっ? 何だって?」

「小便が……、ズボンの裾から出てます!」

「あ、ああっ……、いけねぇ。おめぇ、何でそれをもっと早く言わねぇンだッ!」

 松崎さんは革靴に溜まった小便を便器に空けながら、

「年取ると、ショーベンもどっから出てくるか、わかりゃしねぇな」

 と息巻いた。

 歩きながら、何だかグチャグチャしやがるといい残し、後手を振って平然と改札の向こうに消えていった。

 松崎さんが定年退職して数年後、松崎さんの訃報を受け取った。どうしても都合がつかず、葬儀にはいけなかった。あの世でも豪快に酒を飲んでいることだろう。今でも人形町駅のトイレに入ることがあると、松崎さんの小便を思い出し、思わず頬がゆるんでしまう。

 

  2018年1月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 

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