世田谷城跡保存会

世田谷城跡保存会は平成17年に設立し城跡の保存と復元の活動を行っています。
 

世田谷まち歴 三宿編

2021年06月02日 10時03分51秒 | 三宿
三宿の歴史物語
 縄文時代と古墳時代を含む多聞山遺跡(三宿2丁目)が確認されている。
 室町時代には北沢川と烏山川が合流する舌状台地上に造られた三宿城があったと伝えられ、多聞山遺跡からは溝跡(空堀)が見つかっている。
 多聞山の南裾には、かつて多聞寺があり、その墓地に板碑3基があったといわれている。その内の1基に応安7年(1374)12月と記されていたという。
 江戸時代になると、池尻と同様に一時期旗本領となったが、元禄8年(1695)以降幕末まで天領となり幕府代官の支配地となった。享保5年(1720)には村の北方で2丁四方の新田開発が行われた記録が残る。
 旧多聞寺墓地には延宝8年(1680)に建立された庚申塔、元禄14年(1701)に建てられた地蔵の石仏がある。墓地に隣接する三宿神社の創建については不詳であるが、多聞寺が所蔵していた毘沙門天が祀られていたといわれる。境内にある稲荷社は江戸時代の記録に見える。
 明治31年(1897)から32年にかけて三宿には、野戦砲兵隊第4旅団司令部(現三宿中学校)が設置された。三宿、池尻、下馬、太子堂には軍隊とその関連施設が多く駐屯した。兵隊との面会に訪れる家族たちを泊める旅館が建てられ、兵隊相手の飲食店が軒を連らねて大変に賑わったという。明治42年(1909)池尻から世田谷郵便局が三宿へ移転。電話の架設が始まる。大正2年(1913)、曹洞宗第1中学林(現世田谷学園)が駒込から三宿へ移転してきた。
目黒川起点 右が北沢川、左が烏山川
三宿神社



最新の画像もっと見る

コメントを投稿