日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

五尺の身は妙法蓮華経の五字なり

2022-05-06 | 御住職指導

正林寺御住職指導(R4.5月 第220号) 

 本年(2022)も四恩の1つである父母の日は、世間で5月8日(母の日)と6月19日(父の日)にあります。
 宗祖日蓮大聖人の教えからは『千日尼御前御返事』に、
「父母の恩(中略)いづれもわけがたし」(御書1251)
と仰せであります。
 今から父母への恩返しで予定されている方もいらっしゃるでしょう。父母から授かった体(五尺の身)について「我が頭(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」(御書957)と仰せであります。まさに身の財です。
 その父母から授けられた身体で、朝夕の勤行唱題を行うことは非常に尊いことであり、当然ながら父母への恩返しとなります。父母と一緒に行う勤行唱題一家和楽の信心になります
 大聖人は『当体義抄』に、
「所詮(しょせん)妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那(だんな)等の父母所生の肉身是(これ)なり」(御書694)
と、『御講聞書』には、
「薬とは是好良薬(ぜこうろうやく)の南無妙法蓮華経なり。妙法を頂上にいたゞきたる草なれば、薬に非ずと云ふ事無し。草は中根の声聞なれども総じては一切衆生なり(中略)我等衆生父母果縛(かばく)の肉身に南無妙法蓮華経の薬をかけたり。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり云云」(御書1837)
と仰せであります。

 御法主日如上人猊下は、
「大聖人様が『法蓮抄』に、
『然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり』(御書815)
と仰せになっておりますように、衆生が三世にわたって三界六道の生死を絶え間なく繰り返す生命流転の相から見るならば、一切衆生は、まさに父母であることになるのであります。(中略)大聖人様は、衆生が三世にわたって三界六道の生死を絶え間なく繰り返す、その生命流転の相からすれば、そのルーツ・因縁をたどっていくと、あなたとあなたは親戚かも知れないということになるので、一見、関係ないようであっても、まさに一切衆生が父母なのであるとおっしゃっているのです。」(御指南集28 P6)
との御指南に添い奉り、自行化他により正法による最高の恩返しが叶います。特に折伏の意識について、御法主上人猊下は、
「大聖人様は『法華初心成仏抄』に、
『元より末法の世には、無智の人に機に叶かなひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり』(御書1315)
と仰せであります。
 すなわち、折伏はたとえ相手がいかなる境界の人であろうが、またいかなる障魔が競い起きようが、広大無辺なる大御本尊様への絶対の確信のもと、慈悲と忍辱と『一心欲見仏不自惜身命』の決意を持って、勇躍として折伏を行じていくことが肝要であります。」(大日蓮 第915号R4.5)
と御指南です。父母は「いかなる境界」でも、ルーツと因縁を大聖人の教えから理解して、父母の恩を心がけて行くことが大切であります。

 さて、毎日の新しいスタートにおいて、勤行唱題では御本尊から歓喜を頂きながら生活に向き合うことができているでしょうか。一日のスタートには、非常に大切な心がけです。4月に始まった新年度から1ヶ月が経過しました。年度替わりは人生の節目でもあり、未来を大きく左右する転機ともなります。歓喜が気持ちに有る無しにより左右するともいえるでしょう。喪に服す時は例外ですが、表情が暗ければ、歓喜があるとはいえません。振る舞いにおいてもそうです。こちらは気づかなくても相手は敏感に表情や振る舞いを察知します。ゴールデンウィーク明けが、一つの分岐点となりかねません。刹那の一念心が肝心です。一寸した心の判断により人生を誤らないためには、歓喜の潤滑油が必要です。特に人間関係には様々な因縁があります。その因縁も仏道修行へと転換させましょう。何かのきっかけにより変えられる可能性はあります。それは日蓮大聖人の教えを信じて行うことによります。
 大聖人は『唱法華題目抄』に、
「謗法と申すは違背(いはい)の義なり。随喜と申すは随順の義なり」(御書221)
と仰せであります。随喜である歓喜がない場合は、知らぬ間に表情が暗くなり随喜から違背し謗法となりかねません。寸心を改めるべき大切なことです。謗法は御法門的に解釈すると難しくなりますが、寛容に解釈した時、表情が暗いことは謗法の悪因縁を寄せ付けやすくなる精神状態でもあり、小さな謗法ともいえるでしょうか。ゆえに「蟻の穴」(御書906)です。歓喜とは異なる感情は、魔が忍び寄り小さな謗法を誘発させて「十四誹謗」(御書1046)へと進み、不信謗法へと慢性化し、御本尊への疑いなどにつながりかねません。大聖人は『御講聞書』に、
「所詮不信の心をば師となすべからず。信心の心を師匠とすべし。浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり。」(御書1857)
と仰せであります。

 歓喜を保ちながら生活に向き合うことは、同時にコロナ禍を乗り越え、戦争なき平和な世界を祈るためにも必要となります。戦争は歓喜を失わせ、怒りや悲しみ絶望を生みます。父母から授かった身体をも殺めてしまうことになります。
 戦争なき平和な世界にするためには、歓喜が日常にあふれる環境が不可欠です。一時的な小善の歓びではなく、南無妙法蓮華経を唱えて法界をも動かす大御本尊に具わる大善による大歓喜でなければなりません。世法的にゴールデンウィークで満喫した歓びとは桁違いです。
 それは、他人の目を気にすることなく恥ずかしがらずに、確信を持って三大秘法の御本尊に南無妙法蓮華経を唱えることによります。


 南無妙法蓮華経の妙法蓮華経は、体を表現しています。頭は妙、喉は法、胸は蓮、胎は華、足は経になります。
 大聖人は『御義口伝』に、
「我等が頭は妙なり、喉(のんど)は法なり、胸は蓮なり、胎(はら)は華なり、足は経なり。此の五尺の身は妙法蓮華経の五字なり」(御書1728)
と仰せであります。仏法と申すは道理の上から南無妙法蓮華経を唱えると同時に歓喜が漲り、過去遠々劫の罪障は消滅されて全身が豊かになり健康になる道理です。それは六根清浄の功徳へとつうじます。父母から授かった五体が御題目を唱えることで清められていきます。
 そのための条件として大聖人は『日女御前御返事』に、
「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も(もっと)大切なり」(御書1388)
と仰せであります。また『阿仏房御書』に、
「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり」(御書792)
と仰せであり、さらには、
「七宝を以てかざりたる宝塔なり。(中略)かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。こゝさながら宝塔の住処なり」(御書793)
と仰せです。御本尊に御題目を唱えることにより老若男女・貴賎上下は関係なく、心の財となる七宝を賜ることができます。

 ところが、法華経以外の教えでは白法隠没のため『念仏無間地獄抄』に、
「浄土の三部経は、釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出でたり。此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏出世の本懐にも非ず、唯暫く衆生誘引の方便なり。譬へば塔をくむに足代をゆ(結)ふが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。法華を説き給ふまでの方便なり。法華の塔を説き給ふて後は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。然るに法華経を説き給ふて後、念仏に執著するは、塔をくみ立てゝ後、足代に著して塔を用ひざる人の如し。」(御書39)
と仰せであります。まさに「謗法と申すは違背の義」です。「足代」については付文の辺と元意の辺からさらに大事な御指南を四箇の格言から心得ましょう。

 南無妙法蓮華経を唱えていないため邪宗邪義の謗法の害毒が蔓延するために戦争が起こるともいえます。戦渦では残念ながら唱えている人を見かけることはないでしょう。日本は日蓮大聖人の教えが立宗宣言から開始された折伏により流布されて唱える人がいるために違います。
 しかし、唱える人が減少することがあれば分かりません。減少しないように心ある人から唱える習慣が日本中に広がれば、さらに住みよい生活が送れるはずです。この事を信じて一日をスタートすれば、さらに快適な生活ができるでしょう。

 それには自行だけではなく折伏です。折伏の心得として大聖人は『教行証御書』に、
「雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猿き事なるべし。弥身口意を調へ謹んで主人に向かふべし」(御書1110)
と、また『善無畏三蔵抄』に、

「仮令(たとい)強言(ごうげん)なれども、人をたすくれば実語・軟語(なんご)なるべし。」(御書445)
と仰せのように、たとえ強言でも、人を助ける(救うためのものである)ならば実語・軟語となります。折伏実践に抵抗を感じる方は、一つの心の壁となるのではないでしょうか。たとえば、友人関係での軋轢など、その心の壁が時として苦しみや悩みとなり、折伏ができなくなる理由ともなります。その心の壁以上に、謗法の害毒による苦しみ、謗法の恐ろしさが勝れば克服できます。この点を克服するところに、自行化他にわたる一生成仏があります。人により非常に苦しい修行となるでしょう。そこに難行苦行を必要としない理由があります。『聖愚問答抄』に「此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり」(御書403)と。
 しかし、「悪知識となり善心を破る」(御書224 ※取意)ような、
「軟語
なれども、人を損ずるは妄語(もうご)・強言なり。当世学匠(がくしょう)等の法門は、軟語・実語と人々は思(おぼ)し食(め)したれども皆強言・妄語なり。」(御書445)
と仰せのように、随自意(本意)からは軟語であって、人を誤らせるならば妄語・強言であり、今の世の学者らの法門は、軟語・実語と人々は思っている現実がありますが、すべて強言・妄語にあたります。まさしく『立正観抄』に、
「当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず」(御書770)
との理由からであります。
 それはまた、

「仏の本意たる法華経に背(そむ)く故なるべし」(御書445)
と、仏の本意である法華経に背くことになります。その具体的な宗派については、
「日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又謬(あやま)りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし。」(御書445)
と仰せであります。『建長寺道隆への御状』には、
「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」(御書375)と。
 以上の宗派は、法華経に違背した謗法であり、「謗法と申すは違背の義」となります。歴史があり国宝級の有形文化財に指定されていても法華経を軽んじる宗派には、世界平和を実現する力はありません。今こそ信仰の寸心を改めるべき時です。
 そして、改められた時からは『法華初心成仏抄』に、
「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」(御書1316)
との御指南を心肝に染めていきましょう。さらに、戦争なき平和な世界を異体同心して三大秘法の御本尊へ祈ることです。祈り方については、
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。」(御書1314)
と仰せであります。法華経の功徳はほむれば弥功徳まさることにより現証があります。
 この事を信じて多くの方が1日をスタートすれば、コロナ禍を回避した快適な生活ができるでしょう。まだ、実践されていない方がいれば、明日から試してみて下さい。三障四魔を克服しながら必ず実現することを信じていきましょう。

 御法主日如上人猊下は、
「真の世界平和を目指し、記念局の本年度のポスターに『今こそ 折伏の時』と記された標語のもとに僧俗一致・異体同心」(大日蓮 第915号 R4.5)
と御指南であります。「今こそ 折伏の時」を合い言葉に僧俗和合・講中一結して精進致しましょう。

 

宗祖日蓮大聖人『善無畏三蔵抄』に曰く、
「仮令(たとい)強言(ごうげん)なれども、人をたすくれば実語・軟語(なんご)なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語(もうご)・強言なり。当世学匠(がくしょう)等の法門は、軟語・実語と人々は思(おぼ)し食(め)したれども皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背(そむ)く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又謬(あやま)りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし。」(御書445)

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