綴方教室:山本嘉次郎

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山本嘉次郎は、エノケンと組んで軽快なミュージカル・コメディを作ったほか、太平洋戦争が本格化すると「ハワイ・マレー沖海戦」や「加藤隼戦闘隊」などの戦意高揚映画も作った。いづれも映画会社の商業主義に応えたものといえるが、加藤はそうした映画のほかに、当時の日本社会の現実を見据えたシリアスな映画も作った。「綴方教室」はその代表的なものである。

綴方教室とは、1930年代に鈴木三重吉が主唱した実践教育運動だ。子どもたちに綴方作文を書かせることを通じて社会を見る目を養おうとするもので、全国の小学校で実践され、その成果が鈴木の主催する雑誌「赤い鳥」に掲載された。そのなかで、東京葛飾の小学生豊田正子が書いたものが大変な評判となった。これは東京下町の庶民の生活を子どもの目から見ているほか、その子ども自身の貧困を図らずも浮かび上がらせていた。山本はこれを材料にして、それに自分なりの脚色を加え、一遍の映画に仕立てた。

東京葛飾の下町四つ木に住む小学生豊田正子は綴方が得意で学校の先生から褒められている。彼女の父親はブリキ屋だが、仕事はあまり繁盛していない。二人の弟を合わせて一家五人で暮らしている。そうした自分自身の家族の暮らしぶりを彼女は綴方に書くのだ。その内容がもとでスキャンダルが起ったりもする。近所の金持ちのことを、近所の噂を紹介する形でケチだと書いたところが、その金持ちの家から文句が出る。父親はこの金持ちから仕事を廻してもらっているので、怒らせるとやっかいなことになる。そこで正子は両親から叱責されてべそをかいたりする。そんなことが影響したのか、父親の仕事はますますうまく行かなくなり、ついに一家は極貧状態に陥ってゆく。

映画は、極貧状態に陥りつつも、人間としての尊厳を失わないで、明るく生きる一家の姿を描いてゆく。一家の極貧は深刻なもので、その日食べるものにも窮するありさま。母親は娘の正子に米屋で米を無心するように命じ、娘は恥を忍んで米をもらいに行くが、いつでももらえるわけではない。米びつが底をついて、飢えに迫られることもある。正子は、学校で食べさせてもらっているおかげで、何とか生きることができていると綴り方に書くのだが、それは給食のことを言っているのだろうか。

映画は正子の小学校六年生の一年間を描く。一学期の頃は、正子の家はなんとかまともな暮らしをしていたが、父親の仕事が諸般の事情で立ち行かなくなり、一家はだんだん貧困にさいなまれるようになる。そこで、感極まった母親が、娘の正子を芸者に売ろうとまで考えるようになる。売られそうになっていることを察知した正子は、売られずに家族とともに生活できることを願う。正子が両親に売られそうになっていることを知った学校の先生が大いに心配するが、かといって彼にしてやれることは無い。結局正子は売られずに無事小学校を出ることができ、その後近所の工場に勤めることになる。父親のほうも、ブリキ屋を廃業してルンペン暮らしをしたあとに、仲間の手づるで常雇いの仕事につくことができた。

家の生活にめどがついて、無事小学校の卒業式に臨んだ時の正子の表情がなんともすがすがしい。子どもにとっては、家族と一緒に暮らせることが、なによりも重要なのだ。貧しいことは辛くはない。辛いのは貧しさによって家族がバラバラになることだ。そういう正子の正直な思いと、とりあえず家族と一緒に暮らせることの喜びが、正子のうれしそうな顔から伝わってくる。

その正子を高峰秀子が演じている。この時高峰は十四歳だったが、十二歳の小学生を見事に演じていた。とりわけ、自分の綴方のことで両親から叱責されシクシク泣く場面などは、いかにも初々しい感じだ。

父親は徳川夢声、母親は清川虹子が演じている。清川は例によってチャキチャキとした感じを出している。貧困に迫られて娘を芸者に売ろうと考えたりはするが、それは娘のことを思ってのことで、別にあさましい考えからではない。父親のほうは、善人というだけで、なんの取柄も無い、無力な男として描かれている。彼ができることは娘の身の上を心配するくらいのことだ。だから、仕事がなくて飢えているときには、布団にもぐってじっとしているしか能がない。そのあたりの夢声の演技は、なかなかのものだ。なお、夢声は徳川を名乗っているが、あの徳川氏とは何の関係もないそうだ。

映画のなかでは当然のことながら正子が綴方を書く場面が数多く出てくる。家の中でちゃぶ台に向かって書いていたり、学校の教室で机に向かって書いていたり、一人校庭の隅に座り込んで書いていたりする姿が、何度となく映し出される。その中には、後年高峰が成瀬巳喜男の映画「放浪記」の中でみせた原稿執筆の場面を髣髴させるものもある。少女として綴方を書いた高峰は、成熟した女になって小説の原稿を書くようになるわけだ。

とにかくこの映画は、高峰秀子という女優の少女時代の演技が見られるだけでも意義があると言える。






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