東関道高速バス散歩(4)~平成3年東京-銚子線 犬吠号と銚子電鉄で犬吠埼へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成3年6月に、東京と銚子を結ぶ高速バス「犬吠」号が走り始めた。



地元の人々にはかけがえのない貴重な足として活躍しているけれども、バスファンとしての個人的で勝手な印象で言うならば、地味な路線が多い東関東自動車道を走る高速バスの中では、華やかな存在に思えたものだった。


ひとえに、それは終点の銚子の町の存在感によるものであろう。

僕は、最果ての旅情に惹かれる類いの人間である。

銚子は、東京在住の者にとっては、比較的気軽に訪れることが出来る最果ての地と言えるだろう。

鉄道文学における2人の巨匠、内田百閒と宮脇俊三も、銚子を訪れて1泊し、読む者の心に残る一文を著している。


『段々に銚子に近づき、少し風が出て、間もなく銚子駅の構内に這入った。

終着の大きな駅であるが、本屋全体の感じが倉庫か格納庫の様で、少し薄暗く、よその駅とは丸で工合が違う。

駅長室に小憩して、読んで貰った自動車で犬吠岬へ向った。

駅前の広い通を走って行って、道を曲がると屋根の向うに帆柱が見える。

海辺かと思ったら利根川の河口に近い川岸であった。

黒龍江やアマゾン河を見た事はないし、又それに比べる話ではないと思うけれど、それでもこの河口程の大きな景色は私には珍しい。

向うの沖から太平洋の高い浪が、浪頭に繁吹きを散らしながら逆巻いて来て、利根川の水を押し戻そうとする。

河口が九十九里浜と鹿島灘の境だそうである。

太平洋の暗い空に圧せられた様なその川岸を過ぎ、漁師町を通り抜けて、自動車が砂の丘を登って行くと思ったらじきに荒寥たる浜辺の道に出た。

暗い色の砂原がどこまでも続いている。

一たん晴れかけた空に又雲が垂れて、荒々しい浪の音が自動車の窓に響いて来た』


内田百閒の「阿房列車」の一章「房総鼻眼鏡」における、昭和20年代の描写を読むだけで、銚子を訪れたくなるではないか。

もちろん、お二方とも鉄道で訪れている。

内田百閒は、当時両国駅が始発だった総武本線から成田線をぐるりと回り、続いて内房線と外房線で房総半島を回遊する、2つの円形を成す鼻眼鏡のような行程で汽車に乗り、宮脇俊三は小湊鉄道、銚子電鉄、鹿島鉄道、日立電鉄といった千葉県と茨城県の私鉄を巡る「時刻表おくのほそ道」の途上で、銚子に立ち寄っている。


羨ましいのは、お二方とも、銚子に1泊していることだった。



『御馳走だったが、しかし女中は時化で魚が不自由だと云った。

海のそばだと却ってそう云う事になるかもしれない。

まだ明るい内に始めたのが、じきに暗くなって、左に見える灯台が廻転しながら、ぴかりぴかり光り出した。

夜に入ってから雨が降り出した。

雨滴が海の風に乗って、ぱちぱちと硝子戸を敲く。

(中略)

暗い海に向かった左手の出鼻で光る灯台の明かりを見ながら、外の所の景色を連想した。

ここはこうして坐っている所から灯台までの間が余りに近いが、それでも夜の浪を越えた左にあかりが見えると云うのが、何だか取りとめのない遠い昔の悲哀に通う様な気がする。

東海道の由比、興津の夜は、線路につながった蒲原の辺りの灯火が、清見潟の波の向うにちらちらする。

青森の手前の浅虫では陸奥湾の暗い海波の左手に、闇に沈んだ出鼻の岸を伝う夜汽車の灯火が隠見した。

東須磨の夜は左に見える和田ノ岬の遠い灯が、明石海峡の向うに明滅して、中学5年生の私の旅愁をそそった事を思い出す。

まだお膳が片づかない内に、と云うのはまだ杯をおかない内に、雨が歇んだ様である。

そうして浪の音が荒くなった。

空が明るくなったと思うと、切れ雲の間から、白いまん円い月が浪の上にきらきら光り出した。

今日は旧暦の十一月十五夜である。

(中略)

枕許のねじれた障子の向うで、夜通し濤声を聞いた様に思う。

しかしその為に眠れないと云う事はない。

いつもの通り、いやいつもよりはもっと長く、10時間半寝続けて、枕に響く浪の音の中で目をさました。

よく寝られるのは有難いが、あんまり長く寝た後では、根が利口ではない、のではないかと自分で疑わしくなる。

起き出してベランダの椅子に腰を掛け、外を見ると、昨日よりはもっと背の高い大きな浪が打っている。

空は綺麗に晴れ渡って、暖かい微風が海の方から吹いて来る』


『小湊鉄道と銚子電鉄に乗った日は、犬吠埼の旅館に投宿した。

部屋の窓に顔を近づけると、左の端に有名な灯台が見えるだけで、その他の視界は全て海である。

ちょうど昼と夜の境目で、空と雲には明るさが残っているが、ひと足先に寄るに入った海面には漁火がある。


「海ばっかりですね」


と明円君が言う。

これほど海しか見えない宿に泊まったのは何年ぶりかと思う


「水平線が丸く見えるような気がするけれど」

「はあ」

「そう思いませんか」

「そう言われれば、そうかもしれませんが」

「すくなくとも反対に反り返ってはいないでしょう」

「とすると、やっぱり……」


明円君はそれに答えず、備えつけのテレビに硬貨を入れた。

天気予報が、明日も晴れと報じている。

そのテレビには、「統治は塩害が猛烈で耐用年数が他地域の3分の1です。誠に勝手ながら御利用代を御負担願います」との貼紙がしてあった。

(中略)

ひさしぶりに、よく飲み、よく食べた。

灯台の明りが、一定の間隔をおいて部屋にさしこんでくる。

計ってみると、1分間に1回転しているらしい。

そのたびに水平線を行く船が一瞬照らし出される。

早く寝たから暗いうちに目が覚めた。

灯台の明りが、パッ、パッとカーテンの隙間からさしこんでいる。

東の空が赤く明るい。

まもなく、きのう外川の港で沈むのを見た太陽が上がってくる。

天気予報どおり、きょうも晴れである』


東京在住の人間が、すぐ近郊に位置する銚子に宿泊するという、ある意味贅沢な行為が、無性に羨ましい。



僕の銚子初訪問は、東京14時45分発成田線経由銚子行きの特急「すいごう」1号で一気に17時06分着の銚子に達し、18時30分発の総武本線経由の東京行き特急「しおさい」14号で折り返すという、日帰りどころか、午後の慌ただしい往復であった。

当時の僕は特急列車が大好きだったとは言え、今振り返れば、別の意味で贅沢に過ぎるような、しかし誠に味気なく勿体ない訪れ方をしたものである。

潮騒の音を枕に、銚子に泊まってみたいものだと思っても、時間的にも経済的にも叶う身分ではなかった。

もう一度銚子に行きたい、と心を残しながら、その機会を作ることはなかなか出来なかった。


東京と、銚子と利根川を挟んだ対岸の波崎町を結ぶ高速バス「はさき」号が登場した時には、沿道の利根川北岸の車窓は心に刻まれたけれども、終点に着いた時には、もうひと息ではないか、銚子まで行ってくれないものか、と思った。

波崎から銚子まで路線バスに乗り継いだが、「はさき」号の運行時刻の関係から、銚子に着いたのは夜更けになってしまい、そのまま素通りで東京へ戻るしかなかった。



そのような折りに耳にした、東京-銚子間高速バス「犬吠」号の開業の一報である。


高速バス路線の開業が動機になって、訪れた土地は少なくない。

高速バスが設けられなければ、決して足跡を印すことがなかったと思われる町村も数多い。

その場合、興味の対象は未知の土地に対する憧憬よりも、未乗のバスの方に重きが置かれていることが多いけれど、今回の場合は、銚子や犬吠埼に惹かれる気持ちの方が強く、高速バスの開業はきっかけに過ぎなかった。



東関道を走る高速バスはJRバス関東が参入した路線ばかりで、大半が東京駅八重洲南口を発着しているが、「犬吠」号を運行するのは京成電鉄バスと千葉交通だけなので、浜松町が始発である。


周囲を圧するように聳え立つ貿易センタービル1階の浜松町バスターミナルに足を踏み入れると、いっさい窓がない構造であるためか、穴蔵に潜り込んだような陰々滅々とした雰囲気にたじろいでしまう。

真っ昼間であるはずなのに、これから夜行高速バスに乗るような気分にさせられる。

夜ではないことの証に、はとバスの営業所が開いているけれども、主なルートのバスはとっくに発車してしまったのか、利用者の姿はなく、係員が手持ち無沙汰に佇んでいるだけである。


バスの停車場と待合室を隔てるガラス戸の向こうに「銚子 犬吠埼」と行先表示を掲げた千葉交通のバスが横着けされても、長椅子から立ち上がった客は僅かに数人程度だった。

当時はまだ千葉方面への特急列車が健在だった時代で、「しおさい」や「すいごう」が合わせて1日9往復運転されていたから、高速バスを選ぶ旅客は少なかったのかも知れない。



特急「しおさい」の起源は、昭和33年に両国と銚子を結ぶ準急「犬吠」が運転を開始した時に遡る。

同じ年に両国-千葉間で外房線経由安房鴨川行きと内房線経由館山行きを併結する3層建ての列車に仕立てられ、列車名を「房総」に改めて、昭和34年には「京葉」と改称している。

同時に新宿発着で総武本線で銚子に行く列車と、新宿から外房線と内房線を回って新宿に戻る循環列車、そして反対回りに内房線から外房線を循環する列車の3本を併結した臨時準急が「房総」を名乗り、昭和35年に定期列車に格上げされた。

昭和36年には準急「房総」の新宿-千葉間での併結運転を中止、総武本線銚子方面へ向かう列車を分離して準急「総武」と命名、佐倉駅で分割併合する佐原駅発着の成田線準急が併結された。

昭和37年に準急「総武」の併結運転を取り止めて、総武本線の準急を「犬吠」、成田線方面の準急は「水郷」と命名された。

昭和41年に、国鉄が走行距離100kmを越える全国の準急列車を全て急行列車に格上げした際に、「犬吠」も急行に昇格した。

昭和50年、総武本線の全線電化により、7往復運転されていた急行「犬吠」のうち5往復を特急列車に格上げし、「しおさい」と名付けて東京-銚子間で運転を開始したのである。

昭和57年に急行「犬吠」は廃止されて全列車が東京発着の特急「しおさい」となり、この時、千葉県から急行列車が消えることになる。

当時の「しおさい」は、使用車両こそ特急用183系電車であったものの、速度は急行と大して変わらず、実質的な値上げではないかと陰口を叩かれたことを覚えている。


一方、成田線の準急「水郷」は、昭和39年に佐原から小見川まで、昭和40年に銚子駅まで延伸された上で、昭和41年に急行列車に昇格した。

昭和45年の鹿島線の開通により、急行「水郷」の一部は佐原で編成を切り離して鹿島神宮まで運転されるようになり、昭和50年に東京- 鹿島神宮駅間に登場した特急「あやめ」に昇格する。

成田線経由で銚子へ向かう急行「水郷」は、昭和57年に特急「すいごう」へと格上げされたのである。



「犬吠」と名づけられた東京と銚子を結ぶ高速バスは、往年の総武本線の急行列車の愛称と同じだったのか、と感慨深い。

料金の安さも急行譲りなのか、東京-銚子間で2500円と、特急「しおさい」の特急料金と運賃を合わせた3900円よりも大幅に廉価である。

所要時間は、高速バス「犬吠」号が2時間30分、特急「しおさい」が1時間50分程度で、やはり鉄道には敵わないと言うべきか、それとも高速バスとしては健闘していると捉えるべきか。


開業当初の「犬吠」号は、1日8往復に過ぎなかった。

運転本数こそ1日7往復の「しおさい」に引けは取らないものの、6~8両編成の特急列車と比べれば、利用客数の差は明らかである。



内田百閒の「阿房列車」には、同行者のヒマラヤ山系こと平山三郎氏と交わされた次のような会話がある。


『「先生は犬吠岬と云う事を知っていますか」

「犬吠岬は今日行く所だろう」

「その犬吠岬と云う意味です」

「わからないね」

「歌を歌って調子が外れるのがいるでしょう」

「音痴か」

「そう云うのを犬吠岬と云うのです」

「どうもよく解らない」

「銚子の外れにありますから、だから調子っぱずれです」

なあんだ、貴君の様なのかと云いかけたが、失礼だからよした。

「昔からそう云いますよ」と云って山系氏は澄ましている』


犬吠埼についてのやりとりは、山陰への阿房列車でも繰り返される。

急行「出雲」の食堂車で乗り合わせた知人との一献で、朝顔は馬鹿な花だよ根のない垣に、と、よしこのを唸り出したヒマラヤ山系氏を、百閒先生がやり込める場面である。

よしこの、とは江戸末期から明治初頭にかけて流行した歌で、様々な節があって流行り歌の代名詞であったのではないかとする説もあり、旋律は不明とされているものの、都々逸に似通った節と言われている。

最も高名なよしこのは、「ままよ三度笠横ちょにかむり、旅は道づれ世は情け」であろうか。


『「何しろ山系は、よしこのの犬吠岬派の流れを汲んだ大家ですからね」

「犬吠岬派と云うのはどう云うのです」

「犬吠岬は銚子港の外れにあるから、調子ッぱずれ」

「あんな事云ってらあ。調子ッぱずれの犬吠岬の話は僕が先生に教えたんだ。僕なんか犬吠岬じゃありませんよ」』


僕は、無論のこと多少の所要時間の長さなど気にならず、乗っている時間が長いほど楽しくなってしまう性分であるけれども、銚子にバスで行くのは犬吠埼派なのかな、と自嘲したくなる。



ところが、「犬吠」号は瞬く間に人気路線に成長して増発を繰り返し、今では1日16往復の大所帯になっている。

平成7年には、JR成田線に沿って香取IC、小見川、東庄、松岸を経由して銚子市内へ向かう「利根ライナー」小見川系統が登場、翌年には酒々井、佐原駅、香取市役所前、小見川を経由する「利根ライナー」佐原系統、そして佐原駅、香取IC、小見川を経由する「利根ライナー」小見川・佐原系統が加わって、「利根ライナー」も今では1日16往復、東京と銚子の間を結ぶ高速バスは合計32往復という盛況を呈している。


一方の鉄道は、総武本線経由の特急「しおさい」が1日7往復のまま健在である。

しかし、成田線経由の特急「すいごう」は佐原止まりになって銚子に行かなくなり、平成16年に東京と鹿島神宮を結ぶ特急「あやめ」に吸収されて、平成27年には「あやめ」も廃止となったため、成田線沿線地域と東京との行き来は、すっかり「利根ライナー」に一任された観がある。



定刻14時40分に乗り場を離れた「犬吠」号が、浜松町バスターミナルから抜け出ると、車内に射し込む午後の日差しが目に滲みた。

良い天候に恵まれた旅日和であるが、奇しくも銚子の初訪問で乗車した特急「すいごう」1号と変わらぬ発車時刻である。

単に休日くらいは朝寝坊がしたかっただけであるが、またもや午後に銚子まで往復しようと言うのだから、僕も懲りないな、と苦笑いが込み上げてきた。


次の乗車停留所である東京駅に向かう「犬吠」号は、再び、首都高速1号羽田線の高架に頭上を覆われた海岸通りの暗がりに潜り込んでしまう。

新橋駅前の交差点で内堀通りに入り、東京駅八重洲口を左手に眺めながら八重洲通りに右折すると、「犬吠」号は道端に寄って停車した。

見れば、並木の間に隠れてしまうようなポールが1本立っているだけの、素っ気ない停留所である。



今でこそ、東関道や東京湾アクアラインへ向かう高速バスが引っ切りなしに出入りして、雨除けの屋根まで設けられている京成電鉄バスの東京駅八重洲口前停留所であるけれども、この旅の当時に、ここを使う高速バスは「犬吠」号だけであった。


東京駅から乗ろうとしなくて良かった、と思う。

東京駅は目の前であるけれども、広い内堀通りを渡る横断歩道は離れているから、この場所に来るためには八重洲地下街を延々と歩く必要がある。

迷わないで辿り着く自信が僕にはなかったのだ。


停車中の「犬吠」号を追い越していく東名・常磐・東関道方面のJRバスを横目に見ながら、どうして駅舎に接した八重洲南口バスターミナルに入れさせて貰えないのか、と大いに不満を感じてしまうけれど、バス事業者の縄張りとはそういうものなのだろう。


このような立地であるにも関わらず、東京駅八重洲口前からの利用客は意外と多く、どやどやと20名ほどが乗り込んで来たから、溜飲が下がる思いがする。



東京駅からの行程は、八重洲南口を発車する他の路線と変わりはなく、八重洲通りから狭隘な宝町ランプで首都高速都心環状線に進入し、遅々として進まない車の波に揉まれながら江戸橋JCTで6号向島線、箱崎JCTで9号深川線、そして辰巳JCTで湾岸線へと歩を進めていく。

交通量は多くても、広々とした造りの首都高速湾岸線と東関道を走る爽快感は格別だった。


このバスは、東関道を何処まで進むのだろう、と思う。

これまで乗車した東関道方面の高速バスは、いずれも終点の潮来ICまで走り切ってから、鹿島、麻生、波崎へと向かった。

時刻表を見れば、「犬吠」号は東京駅を出てから、大栄、栗源、山田、干潟、旭、海上、飯岡、東芝町、陣屋町と停車して、終点の犬吠埼京成ホテルに着く。

東京と銚子を結ぶ総武本線には、銚子の手前に旭、飯岡という名の駅があるけれども、その他の地名については聞いたことがなかった。


高速バスが登場するまで、銚子には鉄道で行くしかなかったので、経由地としては、九十九里浜沿岸をたどる総武本線か、遥かに北方の利根川南岸を回る成田線が自然と思い浮かぶ。

どちらにも平行する高速道路は存在せず、「犬吠」号の経路は、今回の旅における最大の関心事だった。

経路が限られている鉄道では、何処を走るのかということが全く判らないということはないけれども、銚子のような高速道路から大きく離れた地域に向かう高速バスになると、その経路を推測するという楽しみが生じる。

この地域の道路網や車の流れはこのようになっていたのか、と蒙を啓かれる経験も、バス旅の醍醐味だと思う。


東関道を快調に下って来た「犬吠」号が、ウィンカーを出しながら速度を緩めたのは、四街道、酒々井、富里、成田を過ぎた先にある大栄ICだった。

東関道が湾岸千葉ICから北東方向へ針路を向け、潮来ICまで3分の2ほどの距離を進んだ地点である。



平成18年の合併で成田市に組み込まれたが、大栄町は、昭和30年に大須賀村と昭栄村が合併して誕生し、成田空港が開港して工業団地や物流団地が造設されるまで、サツマイモ、大根、落花生、スイカ、メロンなどを栽培する北総の典型的な農業の町で、酪農や養豚も盛んであったと聞く。

ベニアズマを中心とするサツマイモは、生産量ばかりではなく、品質や味の良さも我が国で最上級らしい。

こんもりとした丘と林ばかりの大栄IC周辺の鄙びた景観を眺めれば、こんなところで東関道を降りてどうする、と、いささか心細くなる。


大栄ICから県道70号線と国道126号線を使い、旭、飯岡を経由して銚子まで、一般道の走行距離はおおよそ47kmである。

もっと東京寄りに位置している冨里ICから銚子までは、国道296号線と国道126号線を使って58kmにものぼるし、京葉道路と千葉東金道路を乗り継いで、終点の東金ICから国道126号線をひたすら進む総武本線に沿う経路では、銚子までの一般道の長さが60kmを越える。


大栄ICより先の佐原香取ICまで足を伸ばし、利根川の南岸に沿って銚子まで行くと、一般道の区間はおよそ37km、潮来ICから利根川北岸を伝って銚子までの一般道の距離は約34kmと、大栄ICで降りるよりも下道の距離は短くなるが、それだけ東関道を走る距離も通行料金も増えることになる。

後に登場した「利根ライナー」は、佐原香取ICを経由するルートを走っている訳で、所要時間は2時間50分から3時間あまりと、大栄IC経由の「犬吠」号より時間が長くなっている。


東京から各インターまでの高速道路の距離と所要時間、通行料金と、一般道に出てから銚子までの距離と所要時間など、当時の道路事情を勘案して比較してみれば、大栄ICが最もバランスが良かった、というところだろうか。



県道と言っても、70号線はよく整備されて、高速バスが走っても何の不都合も感じさせない。

往復2車線の道路が、それほどきつい曲線もなく雑木林や田畑の中を真っ直ぐに伸びていて、思い出したように集落が現れる。

行き交う車の量も多い。

県道70号線の一部区間は、東総有料道路として昭和63年に開通し、東関道と九十九里浜を結ぶ重要なアクセス道路になっている。

このような道路があったのか、と思う。



高規格道路ではないので、大栄、栗源、山田、干潟と言った比較的大きな集落が現れると、道幅が少しばかり狭くなって、古びた家々や商店の軒先をかすめるようになる。

「犬吠」号に使われているハイデッカー車両の座席は、座っている人間の視点と、民家や商店の1階の天井がほぼ同じ高さという具合になっていて、道路に張り出している軒先とぶつからないか、ヒヤリとすることが少なくない。


通過する町の中心となっている集落には「犬吠」号の停留所が置かれていて、ごっそりと乗客が立ち上がり、運転席で料金を支払って降りていく。

銚子まで乗り通す利用者は案外少ないようである。

なるほど、と思う。

鉄道も便利な旭、飯岡、銚子よりも、大栄から旭までの県道70号線の沿道に位置している町の方が、「犬吠」号の開業で受ける恩恵が大きいのであろう。


ベニコマチと芋焼酎で知られる栗源町は、隣りの山田町とともに、平成18年に佐原市・小見川町と合併して香取市となっている。



山田町の次の干潟町も、平成17年に旭市と合併しているが、ちょうど下総台地と九十九里平野との境目にあって、中心街のごちゃごちゃと入り組んだ街路を過ぎれば、整然と区画整理された田畑が開ける。

干潟、という地名を聞けば、海が近づいたのだな、と嬉しくなるけれども、総武本線沿線の旭市に足を踏み入れても、鉄道も国道126号線も海岸線からかなり離れた内陸部を走っていて、「犬吠」号から九十九里浜を眺めることは出来ない。


旭の地名は、旭将軍と呼ばれた源義仲の末裔で、この地で没したと伝えられる木曾義昌から採られたものという説があるらしい。


信濃より いつる旭をしたひきて 東の国にあととどめけむ


と、19世紀の国学者が詠んだ歌が遺されているという。

九十九里の果てに近い町に、僕の故郷信州との縁が伝えられているとは、不思議の念に駆られてしまう。


この町にある旭中央病院は、千葉県東総地域や茨城県南東部に及ぶ100万人規模の医療圏を支える中核病院で、僕も、ここで働いていた医師と一緒に仕事をしたことがある。

地域医療についてのきちんとした見識を持ち、腕の良い医師ばかりであったので、僕にとっての旭市と言えば、旭中央病院を真っ先に思い浮かべる。

出発地では乗車のみ、到着地では降車のみというクローズド・ドア・システムを採る高速バスが多い中で、「犬吠」号は、平成22年に旭中央病院東停留所を設置し、銚子市内からの区間利用による通院輸送も引き受けたのである。


千葉市と銚子を東金、成東、旭、飯岡を経由して結ぶ国道126号線は、この地域になくてはならない重要な道路であるけれど、それほど交通量は多くなく、左手に伸びる緑豊かな台地を眺めながら、ビニールハウスや田畑の中を進むのんびりとした風情だった。

総武本線が並行して走っているから、右手の奥に松林が延々と連なり、あの木々の向こうが太平洋なのだな、と感じさせるのびやかな車窓は、特急「しおさい」でも眺めた懐かしい景色である。



旭市街を過ぎると、総武本線はやや北寄りに針路を変じ、九十九里浜と銚子を隔てる東総台地に分け入っていく。

総武本線に飯岡を名乗る駅はあるけれど、飯岡町の隣りの海上町に置かれている。

それまでとは趣が変わって起伏が激しい地形で、飯岡駅から築堤で少しずつ高度を上げていく総武本線をくぐるために、明治30年に設けられた煉瓦造りの古い農道トンネルが残され、飯岡駅と倉橋駅の間には総武本線唯一の蛇園トンネルが掘削されている。


一方の国道126号線は、東総台地を避けるように海沿いに逸れて、海沿いに位置する飯岡の町並みは国道沿いに広がっている。

国道は、丘陵に囲まれた田園の中を進み、さほど起伏を感じさせないものの、さすがにカーブが増えてくる。


総武本線が開通したのは明治30年のことで、国道126号線が開通した時期は判然としないけれど、前身である街道はもっと古くから存在したはずで、旭と銚子の間のように、鉄道と道路が乖離して設けられているのは、やはり地形の影響なのだろうか、と思う。


明治の鉄道創成期における地元住民の鉄道忌避の言い伝えが、全国各地に残っている。

沿線の宿泊業者や駕籠屋、馬子と言った陸運業者、そして水運業者が激しく反対運動を展開し、鉄道は旧街道や宿場町から外れての敷設を余儀なくされた、との内容で、飯岡にも同様の話が伝わっていると言う。

各地の地誌や市町村史に記載されていることも多いらしいが、新聞や沿線住民の日記などといった当時の文献には反対運動の記録がなく、鉄道忌避は伝説に過ぎず、ほぼ全ての鉄道が計画通りの経路で建設されたとするのが現在の定説となっている。



飯岡は九十九里浜最東端の刑部岬を抱く町で、最西端である岬町(現在のいすみ市)の太東岬から66kmも続く弧状の砂浜は、この地で尽きている。

刑部岬から犬吠埼までは、一転して、東総台地が直接海に落ち込む高さ数十メートルの峻険な断崖が続く屏風ヶ浦に変わる。


江戸時代の物流を担った廻船が、太東岬と刑部岬でそれぞれ帆を降ろして航海の安全を飯綱権現に祈る習わしにより、刑部岬も飯岡と呼ばれるようになったと言われる。

飯縄権現とは、信濃国の飯綱山に対する山岳信仰が起源とされ、憑霊信仰や天狗信仰、修験者や忍者による信仰、狐信仰など多岐に渡る飯縄信仰の中でも、戦勝の神として中世の武将の間で盛んに信仰されたことが知られている。

上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名で、信州の飯縄神社をはじめ、東京の高尾山薬王院、千葉の鹿野山神野寺、いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、関東以北に有名な寺社が置かれている。


信州で育った僕としては、旭市の木曽義仲公に次ぐ故郷と東総地域の繋がりであり、長野市街の北方に聳える飯綱山は、隣りの戸隠山とともに幼少時から慣れ親しんで来ただけに、信濃の山奥の権現様がどうして九十九里浜の沿岸航路の安全に関わるようになったのか、興味は尽きない。



およそ2時間半の航海を終えて、「犬吠」号が銚子市街に入ったのは、午後5時を回った頃合いだった。


時刻表には、銚子市内の停留所として東芝町、陣屋町が掲載され、その次は終点の犬吠埼京成ホテルである。

せっかく銚子に来たのだから、犬吠埼で太平洋を一望してみたいのはやまやまだけれども、鉄道ファンとしては地元の銚子電鉄にも乗ってみたい。

そのためには、銚子電鉄が起終点としている銚子駅に行かねばならないが、何処で降りれば良いのか。

時刻表には、東芝町の欄に「銚子駅入口」と書かれているものの、このような場合は、停留所と駅がどれほど離れているのか、注意を要する。


高速バスが、鉄道との接続など眼中にない、という経路で運行されているのは珍しいことではなく、「犬吠」号も、東京駅八重洲口を名乗りながら、判りにくい場所に停留所を置いているではないか。

地図帳など持参していないし、現在のように、スマホで簡単に地図を検索できる時代ではなかった。

終点の犬吠埼京成ホテルまで行き、銚子電鉄の終点の外川駅から上り電車に乗るという手もあるけれど、こちらも位置関係は全く不明である。


運転手さんに、銚子駅に行くには何処で降りれば良いのか問うたとしても、


「ああ、東芝町ですね」


と、時刻表でも判るような答えが返ってくるのがオチであろうし、駅までの道筋をくどくど尋ねようものならば、先まで行く乗客に迷惑だろうと逡巡する。


ままよ、とばかりに東芝町で降りる心積もりでいると、停留所の手前の交差点が「銚子駅前」の標識を掲げ、交差する大通りの奥に駅舎らしい建物が顔を覗かせていた。



JRのホームと繋がっている銚子電鉄のホームからは、それほど待つこともなく、外川行きの電車が発車した。

僕が乗ったのはデハ1002型電車で、僕が上京した昭和60年代まで地下鉄銀座線で活躍していた2000系車両で、赤と黒に塗り分けられてオレンジ色一色だった地下鉄時代とは面目を一新しているけれども、もともと昭和34年に製造が開始された車両であるから、古めかしさは否めない。

東京に出て来たばかりの頃に銀座線に乗って、集電が架線ではなく第三軌条方式であったために、駅の前後にあるポイントの無電区間で室内灯が一瞬消えて車内が非常灯で薄暗くなったことを思い出す。

第三軌条方式の電車をパンタグラフの集電に改造して購入するならば、最初からパンタグラフ方式の電車を買った方が安かったのではないかと、余計なことを心配してしまう。



単両の電車が走り始めると、室内灯が消えるようなことはないけれども、レールは営団地下鉄と比べ物にならないほど細く、路床に並べられた枕木の合間には雑草が生い繁り、途中駅は周囲の民家と変わらないような簡素さな造りで、気分は一気に昭和に引き戻される。

昭和30年代から50年代には、このような零細私鉄が、国鉄の幹線から外れた町を結んで頑張っていたのである。

懐古趣味は生産的でないことは重々承知しているけれども、胸に込み上げてくる甘酸っぱい懐かしさは如何ともし難い。


地元の醬油工場に接して設けられた仲ノ町駅では、工場の敷地に引き込み線が分岐しているが、銚子名産の醤油の出荷をはじめとする貨物輸送は、とっくにトラックに移行して、昭和59年に終了している。

側線に置かれた凸字型の小さな機関車デキ3型は、大正11年に輸入されたドイツ製の機関車で、貨物輸送に活躍したこともあったのだろうが、今では電車の入れ替えなどに使われているのだろう。



次の観音駅には、銚子電鉄直営の鯛焼き屋がある。

「およげ!たいやきくん」が流行った昭和51年に増収対策として始められ、大ヒット商品に成長して、平成29年まで販売されていたという。


銚子電鉄が開業したのは大正12年のことで、銚子-犬吠間に大正2年から同6年まで運転していた銚子遊覧鉄道の関係者が設立したのだという。

昭和20年7月20日の銚子空襲により車庫や変電所が焼失し長期運休を余儀なくされるが、同年12月に国鉄より蒸気機関車を借りて営業を再開、電車の運転再開は昭和21年6月であった。


昭和35年には千葉交通の傘下に入り、京成電鉄グループに加入したにも関わらず、昭和44年には銚子市から、昭和50年には国や千葉県からの欠損補助が開始されるという苦しい経営を強いられた。

平成2年に経営権が東金市に本社を置く工務店に移り、犬吠駅をポルトガル風の駅舎に改築するなど、各駅の改築と電車の塗装変更を実施して観光路線への脱皮が図られると同時に、平成7年には、後々まで銚子電鉄の屋台骨を支える「銚電のぬれ煎餅」の販売が開始された。

平成10年には経営母体の工務店が破産したが、銚子市や千葉県、国が財政支援を継続している。



平成18年には「電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」という広告をHPに掲載して広く支援を呼び掛けて大きな反響を呼び、マスメディアの報道も手伝って、ぬれ煎餅の注文が殺到、広告の文句は「現代用語の基礎知識」に収載されるほど知れ渡った。


次なる手は、平成30年に発売されたスナック菓子「まずい棒」で、「破産は嫌、嫌」の語呂合わせで「8月3日18時18分」に同社社長の「まずい。もう1本!」の掛け声とともに犬吠駅で販売を開始している。

悪役専門だった俳優が、同じ文句で一世を風靡した青汁のCMが放映されたのは、昭和61年のこと、僕が大学生の頃だったな、と思う。


平成30年には銚子電鉄の生き残りを英語で洒落た「鯖威張る弁当」を発売し、令和2年には、経営状況が痩せ細っていることからアイスキャンディ「ガリッガリ君」を販売するなど、鉄道事業のほか、食品製造販売業、物品販売業まで手を伸ばした同社の経営努力には涙ぐましいものがある。

ぬれ煎餅は、自社駅の売店のみならず、JR東日本や京成電鉄などの売店、高速道路のサービスエリア、パーキングエリアのほか、首都圏を中心としたデパートや成田空港の売店、道の駅、農産物直売所などでも販売されて、同社の全収入の7割を占めたと言うのだから大したもので、帝国データバンクにおける銚子電鉄の登録は「米菓製造」となっている。


僕が今回の旅で銚子電鉄に乗ったのは、ぬれ煎餅の販売前であるけれど、お菓子屋さんが経営する電車に乗ったのか、と思えば自然と頬が緩んでくる。



宮脇俊三は「時刻表おくのほそ道」に青森県の南部縦貫鉄道の章を設け、存続のためにバス、タクシー、スクールバス、学校給食の輸送と調理、清掃とごみ処理事業などを行っている同社について、


『もし鉄道会社を対象にした賞があるとすれば、ゴミ集めまでやって頑張っている南部縦貫は努力賞か敢闘賞に該当するのではないか。

涙ぐましい努力、と言うけれど、南部縦貫のことを書いていると目頭が熱くなる』


と記している。


南部縦貫鉄道は平成9年に廃止されたが、現在も存続する銚子電鉄が異なるのは、自虐ネタまで商売にしてしまう逞しくも陽気に感じられる商魂と言えるだろう。



本銚子駅を過ぎれば、次の笠上黒生駅は銚子電鉄線で唯一の列車交換が可能な駅で、四国松山の伊予鉄道から譲渡された800型電車が上り列車として反対ホームに停車している。

僅か6.4kmの路線に交換駅が必要なのかと思うけれど、それだけ頑張って運転頻度を増やしているものと思われる。


この駅には、銚子電鉄が昭和14年に発注したデハ101型が、廃車されて物置として使用されている。

塗装が剥げて赤錆が浮いているボロボロの外装はもう少し何とかならないのか、と胸が痛むけれども、廃車を化粧直しする余裕はないのだろう。



両脇に建ち並ぶ家々の軒先をかすめるような狭い路床が続き、時折、竹藪なのか雑木林なのか、鬱蒼と線路上に枝を伸ばす木々の中をくぐり抜ける緑のトンネルもある。

西海鹿島、海鹿島と進むうちに家並みが尽き、松林の間を抜ける勾配を登って台地の上に出ると、視界が開けて左窓に太平洋が垣間見え、犬吠埼の灯台もちらりと姿を現す。


君が浜駅は、関東舞子とも呼ばれる君ヶ浜に程近いけれども、海との間は松林に遮られて、車内から浜辺を見ることは出来ない。

君ヶ浜は白砂青松のなだらかな海岸でありながら、波が高く海流が複雑であるために泳ぐことは出来ず、大正7年には、詩人の三富朽葉と今井白楊が高波にさらわれて溺死している。

この遭難事件と、朽葉の父親が建立した「涙痕の碑」については、内田百閒も「房総鼻眼鏡」で触れている。



次の犬吠駅でも海や灯台を眺めることは出来ず、田圃の畦道を走っているような素朴な感触のまま、電車は、西に傾きかけた陽射しに照らされた外川駅のホームに滑り込んだ。


電車を降り、短くても楽しい旅だったな、と満足感に浸りながら駅舎内に入った僕は、思わず足を止めて室内を見回した。

何処に出札口があるのか、目を凝らさなければ分からない程、時刻表や掲示板がぎっしりと壁を埋め尽くしている。

この雑然さも、昭和だな、と思う。

外に出てみれば、「外川駅」と大書された看板がなければ、物置か倉庫にしか見えない終着駅だった。

 


犬吠埼は、離島や高山を除けば、我が国で最も日の出が早い土地として知られている。


我が国における元旦の日の出時刻を調べてみると、


南鳥島:5時27分

母島:6時20分

富士山頂:6時42分

犬吠埼:6時46分

納沙布岬:6時49分

千葉市:6時49分

根室市:6時50分

東京都:6時50分


との結果であり、納沙布岬と千葉市が同時刻で根室市の方が遅いのか、などと色々興味深い結果が分かる。


日の出で有名な土地に来ていながら、僕は、夕陽が見たいと思った。

犬吠埼で夕陽が拝めるのか、と思ったけれど、「時刻表おくのほそ道」の銚子電鉄の章も、宮脇俊三が同行者とともに夕陽を眺める場面で終わっている。


古い家並みを縫う路地を下ると、外川港に出た。

江戸時代には「外川千軒大繁盛」と歌われた漁港で、多くの漁船が係留されて波に揺れている。

大きな波のうねりがぶつかると、漁港を囲む堤防がどん、と鳴って、波頭が砕ける。

大海原を渡って来る水の重さを実感する音だった。


西の九十九里浜の方角に沈みかけている太陽が、波間に没する瞬間を見たい一心で、僕は岸壁に立ち続けた。



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